Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(3-2
ヴァスコ・ダ・ガマ提督
1498
東回り インド 到達
(2)インド遠征・(3)ナタール・(4)パドラ・(5)ケニア・(6)インド・(7)帰国・(8)ルート・(9)再訪・(10)第4次

大航海物語
ポルトガル編

PORTUGAL
ヴァスコ・ダ・ガマ提督

1469 ヴァスコ・ダ・ガマ生誕500年記念 1469

ガマの船隊
ポルトガルからインドへの航海地図
ポルトガル 1969/12/30 発行

ガマ提督は1497年インドに向け出帆。10ヵ月以上の航海後、1498年29才でインド・カリカットに到達して、インド航路を開拓しました。生涯に3回インドに赴き、同地で55才で亡くなりました。
ヴァスコダ・ダ・ガマ提督
 Vasco da Gama(1469頃〜1524/12/24)
ガマ提督はポルトガルの航海者で、下級貴族(港町シネスの大判事エステバン)の三男として、ポルトガル南部アレンテージョ地方のシネスに生まれました。前半生は詳しいことはほとんど不明です。ポルトガル国王マヌエル1世に航海術と外交手腕をかわれて、1497年28才で、インドに遠征するポルトガル船隊の司令官となりエル・ミナへ向かうバーソロミュー・ディアズ船長ヴェルデ岬で別れて、喜望峰(Cape of Good Hope)を回って、翌年インドのカリカットに到達しました。

1502年にも再び司令官としてインドに赴きました。その後1524年に歴代インド総督の失政を改革するためインドに派遣されましたが、その直後に55才で病死しました。したがって、ガマ提督はもっぱら、インド航路の発見・開拓者として歴史に名を残しました。

なお、ポルトガル政府観光局の公式HP「シネス」では1468年に生誕となっています。11/7/1追記

参考HP:〜シネス(ポルトガル政府観光局の公式HP)







★ガマ物語(2) ヴァスコ・ダ・ガマの
航海日誌(1497〜1499)より
ポルトガル最初のインド遠征
大航海物語
ポルトガル

Estard da India
ヴァスコ・ダ・ガマ提督

ポルトガル領インド(ゴア) 1946/5/28 発行
S.TOME .PRINCIPE
(St.Thomas & Prince Islands)
ガマの船隊

1469 ガマの航海500年記念 1969
サントメプリンシペ 1969/8/29 発行

MACAU MADEIRA
国王の見送りで乗船
ガマの4隻の船隊
カリカット投錨
1498 VASCO DA GAMA 1898
ポルトガル領植民地の各地で発行されたガマのインド到達400年記念
マカオマデイラ 明治31年 1898/4/1 発行

ヴァスコ・ダ・ガマの航海日誌より
ガマ提督はインドの香料シナモンなどの産物を求めて、1497年7月8日(土)に国王マニエル1世や多くのポルトガル・リスボン市民の見送りを受け、サン・ガブリエル号に乗船、約170人の乗組員と4隻の船隊を指揮して、リスボン・テージョ河々口のレステロを出帆しました。水先案内人(Pilot)としてジョアン・デ・リスボアが乗組んでいました。

◆船隊の編制は、
サン・ガブリエル号:横帆式ナオ船・旗艦、ヴァスコ・ダ・ガマ船長乗船
     (200t)、3本マスト、全長27m、幅8.5m、150人乗組説有
・サン・ラファエル号:同上姉妹船、弟のパウロ船長乗船(200t)
・ベリオ号(100t):三角帆式カラベル船、(サン・ミゲル号説有)
・大型補給船(400t)
の4隻でした。
カマの船隊







★ガマ物語(3) アフリカの海岸へ上陸
1497/12/25
ナタール
大航海物語
ポルトガル

ヴァスコ・ダ・ガマ提督
Portugal
ナタール海岸でガマ提督が現地人と”身振り、手振り”で話し合い

ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見500年記念

ポルトガル 1996/11/12 発行

一路、南アフリカの喜望峰を目指して南下、決して安全な航海ではなかったらしく、マストが破損したりしたと記録されています。嵐で西に流されアメリカから960km近くの所へ達していたとの説も有ります。4ヵ月後、ようやく喜望峰に達しましたが強風に阻まれて、4ヵ日後にやっと追い風を捕えて、1497/11/22に喜望峰を通過、喜望峰近くのモッセルベイに投錨できました。当時、そこにはコイコイ人(サン人)がいて、牧畜をして住んでいました。ガマは帽子とかを与えて、牛を手にいれ、上陸してポルトガル王の名のもとに”パドラ”を建立・設置するも出帆後に、それが引き倒されているのを望見しました。

1497/12/25にガマ提督がナタール(Natal)に停泊、上陸したので、そこをポルトガル語で「クリスマス」を意味する「ナタール」と名づけました。現在は「ズールーの地」を意味するズールー語の「クワズール」と組み合わさって、南アフリカ共和国の「クワズール・ナタール(KwaZulu-Natal)州」となっています。

参考地図HP:〜クワズール・ナタール州






★ガマ物語(4) パドラを設置
1497/11、モッセルベイ
1498/03、モンバサ
大航海物語
ポルトガル

Portugal
ヴァスコ・ダ・ガマ提督
パドラを設置

出帆を見送る現地人
ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見500年記念
ポルトガル 1996/11/12 発行

一行はアフリカとマダガスカル島との間のモザンビーク海峡を北上しましたが飲料水が欠乏し料理にも海水を使用せざるを得なくなり、乗組員に犠牲者がでたりしました。

1498/3/1には、現在のモザンビーグ共和国北端附近のモザンビーグ島を遠望して、水を補給しょうとしました。ところが、島民が彼らを疑って拒否したため大砲で砲撃して、2人殺したと日誌に記録されています。水を得てから”パドラ”を建設しました。ケニヤのモンパサでは、100人ほどの武装集団に攻撃されました。
モザンビーク島

ポ領モザンピーク 1969 発行






★ガマ物語(5) ケニヤにパドラを設置
1498/4/15
マリンディ
大航海物語
ポルトガル

ヴァスコ・ダ・ガマ提督

KENYA
ポルトガルからインドへの地図

ケニヤ海岸に投錨
マリンディにパドラを設置
ヴァスコ・ダ・ガマの航海500年記念
ケニヤ 1998 発行

さらに北上を続けポルトガルを出港してから9ヵ月後の1498年4月にケニヤのマリンディに達しました。そこはインドの木造帆船「ダウ船」で賑わっていました。インド商人のダウ船はアラビア海を自由に航海して、インドとアラビア・北東アフリカと交易していましたので、ガマは、インド洋の風と潮を熟知しているパイロット(水先案内人)アラブ人イブン・マージド(Ahmed bin Majid、1421-1500)を雇って乗船させ、東向きの季節風「モンスーン」が吹き始める4月下旬に、直線距離で4000km離れているインド西海岸目指して旅立ちました(パドラマウト商人というアラビア系の人もいたようです)。マリンディの”パドラ”は現在も設置されているそうです。

航海日誌は1498/4/22にマリンディを出帆したと記録しています。次に現在のイェ−メン共和国に属しているソコトラ島にアフリカ沿岸最後の投錨をして、一路、インドへとインド洋を横断しました。

参考地図HP:〜マリンディ






★ガマ物語(6) インドに到達
1498/5/18
カリカットに投錨・停泊
大航海物語
ポルトガル

ヴァスコ・ダ・ガマ提督
Portugal
インドのサモリン王と会見

インドに到着・停泊
ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見500年記念
ポルトガル 1996/11/12 発行

日誌にはこう記されています、「ソコトラ島から南南東へ600レグア(3546Km)は来た、そして数十の島々を発見(平均海抜1.8mのモルディブ諸島です)、23日振りに高い陸地を遠望、ついに1498/5/18(金)インド・カリカットのマラバル海岸、カリカット王国に達した」と。

1週間後に上陸許可がおりて、サモリン王との会見が実現しました。ところが、キリスト教の布教活動が現地のヒンヅウ教と衝突して、ガマ提督の説く友好関係は実現せず、3ヵ月後には退去命令がでました。王は侍女をはべらせて会見、ガマの貢物がみすぼらしく見えたので馬鹿にしたとの説も有ります。

参考地図HP:〜
ケーララ州、カリカット(コージコード)はインドのケーララ州にある街
モルジブ諸島






★ガマ物語(7) ポルトガルに凱旋・帰国
1499年7月
大航海物語
ポルトガル

ヴァスコ・ダ・ガマ提督
Portugal
インドのサモリン王と話し合うガマ船長

ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見500年記念
ポルトガル 1996/11/12 発行

1498/8月カリカット(コージコード)を出帆、帰国の途に着きました。3ヵ月後アフリカ・ソマリアモガディシオに到着、苦しい船旅で乗組員30人を失い、乗員不足に陥り「サン・ラファエル号」を破却していました。途中で弟パウロが重病(壊血病)となりましたので、ガマは弟を救うためベルデ岬諸島で下船、快速のカラベル船を雇って帰国を急ぎ、マデイラ(アゾレス説有)諸島まで来た時に介抱空しくパウロ船長は亡くなりました。こうした苦難の航海の後1499年7月ようやくリスボンに帰港することが出来ました。

ポルトガルを出帆して実に10ヵ月以上かかってインドの香料原産地カリカットへ到達、大量のスパイス(香辛料)を持ち帰るという成果をあげてインド航路の発見・開拓をなし遂げてポルトガル・リスボンへ帰国したわけです。出帆時の乗組員60人以上と一隻の船(乗員不足でサン・ラファエル号を廃船)を失っていましたが、ガマ提督のもたらした香辛料とインド情報はポルトガル全土を興奮のルツボと化しました。また「武力によるイスラム商人の駆逐無しには成功は覚束ない」とのガマ提督の意見は、遠くイタリアのヴェネチアやエジプトには最悪の事態と受け取られましたが、ポルトガルは武力征服へと乗り出しました。






★ガマ物語(8) ルート・マップ
航海地図の謎(?)
大航海物語
ポルトガル

PORTUGAL
ヴァスコ・ダ・ガマ提督

ポルトガル  1990  発行

SENEGAL
ガマの航海地図

ヴァスコ・ダ・ガマ
セネガル 1997 発行  画像:200%
MOCAMBIQUE
ガマの航海地図

ヴァスコ・ダ・ガマ 生誕500年記念
ポルトガル領 モザンビーク 1969/8/29 発行  画像:200%

DPR KOREA

北朝鮮 1998 発行
アフリカの角の東
←ソコトラ島







北朝鮮よりヴァスコ・ダ・ガマの航海500年記念として1998年に
発行された小型シート地の航海地図はミスっている(?)。
理由=ソコトラ島への寄航が示されていない、
 NHK-TV「ポルトガルからインドまで航海3万キロ」より。






★ガマ物語(9) インド再訪
1502、カリカット攻撃
1524、インド副王
大航海物語
ポルトガル

Portugal
晩年のガマ船長

ポルトガル 1969/8/29 発行
REPUBLICA da GUINE BISSAU
サン・ガブリエル号とヴァスコ・ダ・ガマ

ギニア・ビサウ 1981 発行

ESTARD da INDIA
インド副王・ガマ船長

ポ領インド 1956/3/24 発行
PORTUGAL
ガマの紋章

ポルトガル 1969/12/30 発行

4年後の1502年の2度目(1502/2/12出帆〜1503/9月リスボン帰港)は20隻の艦隊を率いて来印し、砲撃による強行上陸で、初期の目的を達したようです。この時、ガマは「インドサイ」を国に持ち帰って国王に献上しました。また、この航海でソマリアのモガディシオにて伝説のプレスター・ジョンの王国を発見したと伝えられていますし、アミラント諸島のセーシェル諸島を発見したとも言われています。

その3年後の1505年にはアルメイダ提督がコーチンに要塞を建設しています。1510年にはアルブケルケ将軍によるゴアの占領、1511年にはアルブケルケ将軍が派遣した艦隊による、東南アジア貿易の要衝マラッカの攻略などが行われました。

2度目の航海後は海軍を引退していましたが、国王ジョアン3世の命によりインド副王として3度目の渡印をなし、1524年に再び帰国することも無くインドでマラリアに感染して病没しました、コーチン市の聖フランシスコ教会に葬られました。遺体は、後にポルトガルに持ち帰られたと言われています。ポルトガル・リスボンのジェロニモス修道院にヴァスコ・ダ・ガマ提督の墓が造られています。インド・クジャラート州カリカットにガマ上陸地の記念碑が有ります。

「ポルトガルからインドまで航海3万キロ」〜by NHK-TV・他より。

参考HP〜
 ・ポルトガルからインドへの航海関連地図
 ・ポルトガル、アフリカからインドへの地図







★ガマ物語(10) 第4次インド遠征艦隊
1502〜1503
総司令官ヴァスコ・ダ・ガマ提督
大航海物語
ポルトガル

COMPANHIA do NYASSA
ヴァスコ・ダ・ガマ船長
サン・ジェロニモ号の同型船
サン・ガブリエル号

ポ領ニャッサ会社 大正8年 1920/12/21 発行
MOZAMBIQUE
ガマの航海地図

ヴァスコ・ダ・ガマ 生誕500年 記念
ポ領モザンビーク 1969/8/29 発行

第4次インド遠征艦隊20隻の編成(船長):総司令官ヴァスコ・ダ・ガマ提督
 4th Portuguese India Armada (Gama, 1502-1503)
:〜1800人
・第1艦隊10隻:〜
 総司令官ヴァスコ・ダ・ガマ海軍大将、インド洋提督
  ・大型ナオ船(Nau)4隻、
  ・ナヴェタ船(naveta)4隻、
  ・カラヴェル船(Caravel)2隻
01)旗艦サン・ジェロニモ号(Sao Jeronimo)、大型ナオ船
   総司令官ヴァスコ・ダ・ガマ提督
02)ライオナルダ号(Lionarda)、大型ナオ船
   ドン・ルイス・カウチンホ船長(D. Luis Coutinho)
03)サン・ミゲル号(Sao Miguel)、
   ジル・マトーソ船長(Gil Matoso/Martins)
04)バテカベロ号(Batecabello)、大型ナオ船
   ジル・フェルナンデス・デ・ソウザ船長(Gil Fernandes de Sousa)
05)サン・ラファエル号(Sao Rafael)、ナヴェタ船
   ディオゴ・フェルナンデス・コレイア船長(Diogo Fernandes Correia)
06)サンタ・エレナ号(Santa Elena)、ナヴェタ船、コレンテス岬沖で遭難
   ペドロ・アフォンソ・デ・アグイアール船長 (Pedro Afonso de Aguiar)
07)ブレトア号(Bretoa)、ナヴェタ船
   フランシスコ・ダ・クーニャ船長(Francisco da Cunha)
08)ヴェラクルズ号(Vera Cruz)、ナヴェタ船
   ルイ・デ・カスタンヘダ船長(Rui de Castanheda)
09)フランデサ号(Fradeza)、カラヴェル船
   ジョアン・ロペス・ペレストレロ船長(Joao Lopes Perestrello)
10)サルタニャ・パルハ号(Saltana Palha)、カラヴェル船
   アントニオ・ド・カンポ船長(Antonio do Campo)

・第2艦隊5隻:〜
 司令官:ヴァスコ・ダ・ガマの叔父で第4次インド遠征艦隊の副司令官
 ヴィセンテ・ソダー海軍中将(vice-admiral Vicente Sodre、1465-1503)
  ・ナオ船2隻、
  ・カラヴェル船3隻
11)旗艦レイトアノヴァ号(Leitoa Nova)、ナオ船
   フェルナン・ドゥアトゥグィア船長(Fernan d'Atouguia)
12)サンパウロ号(Sao Paulo)、ナオ船
   ペロ・アルヴァロ・デ・アタイデ・オインテルノ船長(Pero Alvaro de Ataide 'o Inferno)
13)サンタ・マルタ号(Santa Marta)、カラヴェル船
   ジョアン・ロドリゲス・ヴァルダカス船長(Joao/Fernao Rodrigues Bardacas)
14)エストレラ号(Estrella)、カラヴェル船
   アントニオ・フェルナンデス・オロクソ船長(Antonio Fernandes 'o Roxo)
15)ガリダ号(Garrida)、カラヴェル船
   ペロ・ラファエル(Pero Rafael or Bras Sodre?)

・第3艦隊5隻:〜
 司令官:ヴァスコ・ダ・ガマの従兄弟でカピタン・モール
 (Capitao-mor、英Captain-major of the Portuguese army)
  エスティヴァン・ダ・ガマ船長(Estevao da Gama 1470-没年不詳)
16)旗艦フロー・ド・マー号号(Flor de la Mar)400屯
  エステヴァン・ダ・ガマ船長(Estevao da Gama)
17)ジュリア号(Julia)
 ロポ・メンデス・デ・ヴァスカンセロス船長(Lopo Mendes de Vasconcellos)
18)トーマス・デ・カルモナ船長(Thomaz de Carmona)イタリア人
19)ロポ・ディアス船長(Lopo Dias)
20)ジョアン・デ・ボナグラシア船長(Joao da Bonagracia)イタリア人
フロー・ド・マー号

モザンビーク 1963 発行

・第4次インド遠征艦隊、20隻(1800人)、総司令官ヴァスコ・ダ・ガマ提督の航海日誌より:
 ・第1艦隊10隻と第2艦隊5隻(計15隻)の航海:〜
1502年
01/30、ポルトガル国王マヌエル1世からリスボン大聖堂でヴァスコ・ダ・ガマ(33才)が
     インド洋提督(Admiral of the Seas of Arabia, Persia, India and all the Orient)
     の宣旨を受け、インド遠征を受諾
02/10、第1艦隊と第2艦隊がリスボンのテージョ河々口を出帆
2月下旬、セネガルのダカール着、飲料水を補給
3月上旬、ブラジルのペルナンブーコ州サン・オーガスチン岬(Cabo de St. Augustine)で
      飲料水などを補給後、大西洋を横断航海
4月下旬、喜望峰で嵐に遭遇、第1艦隊と第2艦隊の15隻はそれぞれの船長判断で
      喜望峰を回航して、モザンビ−グ島に向かう
5月下旬、最初の船がモザンビーク島に到着、第1艦隊と第2艦隊が集結するのを待つ
      サンタ・エレナ号がソファラ北方のコレンテス岬(Cape Correntes)で遭難するも、
      乗組員は後続船ブレトア号とサンタ・マルタ号に救助される
      ソファラへ友好通商条約締結の大使を送る
6月、モザンビ−グ島にファクトリー(Factory交易拠点の商館)建設、
    アントニオ・デ・カンポ船長が現マプト湾で船を修理中に付近を探検して、
    デラゴア湾(Delagoa Bay)と命名、以降”デラゴア・ベイ”と呼ばれる
    マリンディへと出帆
6月下旬、タンザニアのキルワ(Kilwa)着、
      サルタン王のイブラヒム(Emir Ibrahim)をサン・ジェロニモ号に
      招待して会見し、友好通商条約を結ぶように要請
7月上旬、サルタンからの返事は無く、季節風(モンスーン)の嵐に遭遇しないように出帆
8月上旬、ケニアのマリンディ着、
      艦隊はインド洋横断航海に出帆
      カンポ船長がマリンディに到着するも艦隊の姿はなく、補給後、直ぐ出帆
9月上旬、ゴア北方のダブル(Dabul)着
9月、南ゴアのアンジャディプ島(Anjadip Island)着、当時その付近は
   イスラム王国アド王朝(Adil Shahi dynasty 1490-1686)とヒンズー帝国の
   ヴィジャヤナガル朝(Vijayanagara Empire 1336-1649)との戦争最前線で
   オノール(Onor、現オナバル:Honnavar)のヒンズー海賊チモジ(Timoji)と
   カルナータカ州シャラヴァチ川(Sharavathi River 128km)河口で遭遇するも逃げ去る、
   追撃してオノールの街を砲撃で破壊
   オノール南のバタカル(Bhatkal)を立ち退く代わりに、胡椒1000袋と
   ”香りの女王”と呼ばれるバースマティー(Basmati)500袋を獲得して船積み
09/29、バタカルを出帆、ケーララ州エジマラ山(Ezhimala Hill、Kannur)沖を回航すると
     メッカ巡礼船に遭遇、積荷を要求するも拒否したので、乗客もろとも撃沈
10/18、カナノール着
     ファクトリー(商館)を建設、カナノールのサルタン王の保証を取り付け
     ラジャ・コラチリ王(Raja Kolathiri)と香料の取引をする
     カナノールを出帆、カリカットへ向かう
    ・カリカットに着くとサモリン王の攻撃を受け、街を砲撃して破壊、
     通りかかった大型船2隻と小型船27隻を捕え積荷を奪う、乗組員を縛り上げ
     歯を抜き、鼻を削ぎ、両手を切り落として惨殺、その知らせが伝わると、
     マラバル海岸一帯の商船や小型船のことごとくが逃げ去り、港は無人となる
     カリカットに7隻の艦隊を残して港を封鎖し、カリカットを出帆、
11/03、コーチン
     コーチンで通商条約を結んで交易し、
     ケラーラ州のキロン(Quilon)へ2隻を派遣して交易する
12月上旬、カリカット王が紅海のアラブ海賊コージャ・アンバー
      (Khoja Ambar)を傭兵して、大型船20隻、武装ダウ船
      40隻と小型ボート無数に兵を乗せ、カリカットの
      コージャ・カセイン(Khoja Kassein)指揮の連合船隊で、
      カナノール付近で待ち伏せているとの情報に接し、
      ヴァスコ・ダ・ガマはカリカット残留艦隊を呼び、
      カリカットの海戦(Battle of Calicut)を戦い、
      1501年のカナノールの海戦と同様、ポルトガルの
      優れた大砲と砲術で一方的な勝利をおさめました
欧州16世紀頃の大砲と砲弾

クリストファーネヴィスアンギラ1970発行
      カナノールに着くとカブラルが建設の古いファクトリー(商館)に兵200人を増強
1503年
2月下旬、10隻の艦隊がインドを出帆、
      帰国を急ぎ、モザンビーグに直行航海でインド洋を横断航海、
      インド洋にあるセーシェル諸島でアラブ人の活動を望見、
      ソマリアのモガディシオで伝説のプレスター・ジョンの王国を訪問、
      モザンビーグに寄航、補給
      エステヴァン・ダ・ガマ船長のフロード・マー号が喜望峰で嵐に遭うも乗り切る
      第3次インド遠征艦隊のノーヴァ船長が発見していたセントヘレナ島に寄航、補給
      カ-ボヴェルデ諸島マデイラ諸島に寄航、補給
9月、ヴァスコ・ダ・ガマが10隻と共に、リスボンに帰港。

第3艦隊5隻の航海:〜
1503/4/01、第3艦隊5隻がリスボンを出帆
5月中旬、第3艦隊5隻がマデイラ諸島とカ−ボ・ヴェルデ諸島に寄航、補給
7月、喜望峰で大嵐に遭遇、
    ザンベジ川河口で、傷んだ船を修理後、
    モザンビ−グ島着
8月、マリンディ着、
   インド洋横断航海に出帆、
   インドに到着、先着の艦隊と合流。

カリカット残留艦隊7隻の編成(1502):〜
 司令官ヴィセンテ・ソダー提督
1)サンラファエル号、ナオ船
   ディオゴ・フェルナンデス・コレイア船長
2)ヴェラクルズ号、小型ナオ船
   ブラス・ソダー船長(Bras Sodre)、前任者ルイ・デ・カスタンヘダ船長
3)フラデサ号(Fradeza)、カラヴェル船
   ペロ・アルヴァロ・デ・アタイデ船長:前サンパウロ号船長、
   後任者ジョアン・ロペス・ペレトレロ船長(Joao Lopes Perestrello)
4)サンタ・マルタ号、カラヴェル船
    ジョアン・ロドリゲス・ヴァルダカス船長
5)エストレラ号(Estrella)、カラヴェル船
   アントニオ・フェルナンデス・オロクソ船長
6)サルタニャ・パルハ号(Saltana Palha)、カラヴェル船
   アンタン・ヴァズ・ド・カンポ船長(Antao Vaz do Campo)
7)ガリダ号(Garrida)、カラヴェル船
   ペロ・ラファエル船長(orブラス・ソダー:Bras Sodre)。

参考HP:〜
 ・ガマの航海地図(ポルトガルの発見と探検: 最初に到着した場所と日付)
 ・アフリカ東岸の地図
 ・インド中部の西海岸の地図(オノール、カナノール有)


・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。07/12/30、09/6/6、10/10/10、11/12/15追記
スタンプ・メイツ
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