|
||
★ポルトガル | ポルトガル人・種子島に漂着 1543/8/25 日本を発見 |
大航海物語★ |
|
ポルトガル人の日本(種子島)発見450年 | |||||||||
|
|
||||||||
ポルトガル 1992/4/24 発行 |
「ポルトガル人の日本到着四五0周年」 (上を切手面に縦書き印刷) |
||
キリスト教宣教師の日本上陸 |
ポルトガル人の貿易 |
ポルトガル人が「てっぽう」を伝授 |
Cathoric Priests | Trade | Musket |
ポルトガル 1993/9/22 発行 |
|
||
Espana | 日本郵便 NIPPON | |
ポルトガルの地図 スペイン 1999/5/28 発行 |
世界地図 日本 昭和49年 1974/1/1 発行 |
日本の古地図 昭和65年 1985/4/5 発行 |
|
日本郵便 「日本ポルトガル友好450年」 ポルトガル人の図 日本 1993 発行 |
ANGOLA ポルトガル人の日本到達、1543 2000年紀記念のミレニアム切手 アンゴラ 1999 発行 |
PANAMA 南蛮(ポルトガル)船の図 Anonimous Japanese パナマ 1968/5/7 発行 |
種子島とポルトガル人 (Tanegashima, Osumi Islands, Kagoshima Prefecture, Japan) インドのゴアを出発して中国の寧波(ニンポー)に向かう1隻のポルトガル南蛮船が嵐で遭難して、1543(天文12)年8月25日に種子島の南端の門倉岬(かどくらみさき)に流れ着きました。これが日本にやって来た最初のヨーロッパ人だといわれています。数日後、乗船していたポルトガル人を島の領主種子島時堯(ときたか1528〜79)16才が引見し、「てっぽう」(火縄銃)が日本に伝来しました。 このヨーロッ人の一人がポルトガルのメンデス・ピントだと本人がその自伝「東洋遍歴記」に記述しています。 1550(天文19)年には平戸に1隻のポルトガル船が入港しました。これが長崎県内に入港した最初のヨーロッパの貿易船でした。1551(天文20)年にはポルトガル商船が豊後の日田に来航しました。(1557(康治3)年にポルトガル人は中国のマカオに居住権を得て、東洋貿易の拠点としました)。1561(永禄4年)には5隻のポルトガル船が入港しました。その後、大村領の横瀬浦(現在の西海町)が新しい貿易港となり、さらにポルトガル人は横瀬浦から福田(現在の長崎市福田本町)へと貿易の拠点を移しました。1565(永禄8)年に開港された福田は、直接外海に面しているという欠点があったため、貿易の拠点はさらに島原半島の口之津港へ変わりました。しかし、ポルトガル人たちが大村領内での貿易を希望したため、候補地として挙げられた長崎港の調査が始まり、1571(元亀2)年、ポルトガル船1隻、ポルトガルがチャーターした唐船1隻の計2隻の入港で長崎港は開港しました。以後、毎年のようにポルトガル船が訪れるようになり、長崎はポルトガル貿易港として急速に発展していきました。 1571(元亀2)年、スペイン人は、ルソン島のマニラを占領し、東洋貿易の拠点としました。日本との貿易も時間の問題となり、1584(天正12)年にはスペイン商船が肥前平戸に来航しました。スペイン人が日本にやってきた最初です。 1600(慶長5)年3月16日、豊後国(現大分県臼杵市)の沖に1隻のオランダ船が漂着しました。 これが我が国に来航した最初のオランダ船(リーフデ号)で、その後オランダは2隻の交易船を派遣して、1609(慶長14)年、平戸に商館を開設しました。 イギリスは商館を1613年に平戸に設置しました。こうして、ポルトガル、オランダ、イギリス、中国そして朱印船貿易を行っていた日本など貿易競争はますます激しさを増しました。 <参考> ・日本語になったポルトガル語 その昔、種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝来したことにより、日本に西洋文化が一機に流れ込んできました。約460年前の1543年信長の時代からでした。多くのポルトガル文化が日本に根付き、今でも多くのポルトガル文化の痕跡が、かたちを変えしっかり日本の中にとけ込んでいます。
|