Equatorial Guinea 国連 1981 発行 |
切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.15
赤道ギニア共和国 Republica de Guinea Ecuatorial |
大航海物語 地図編★ |
ESPANA-FERNANDO POO | REPUBLICA DE GUINEA ECUATORIAL | |
赤道ギニア領 ビオゴ島 ス領フェルナンドポー 1961 発行 |
コリスコ島→ 大エロベイ島→ 小エロベイ島→ |
赤道ギニアの地図 (大陸部分 リオムニ) |
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赤道ギニア 1984 発行 |
赤道ギニア領 | |||
アンノボン島 | ビオゴ島(旧フェルナンドポー島) | ||
アンノボン島 | ビオコ島 | ||
ポデール・デル・エスタド第3共和国の構成 3年記念 constitution de les pederes del estado 3rd republique 赤道ギニア 1984 発行 (200%) |
S.TOME E.PRINCIPE アフリカ・ギニア海岸の地図 |
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南西アフリカ ギニア湾 サントメ島 |
ア フ リ カ 大 陸 赤道ギニア領 ←ビオコ島 ←プリンシペ島 ←サントメ島 赤道ギニア領 ←アンノボン島 |
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サントメプリンシペ 1991/10/12 発行 |
REPUBLICA DE GUINEA ECUATORIAL |
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民族音楽 |
キリスト教の生誕祭 |
赤道ギニア 1983 発行 |
赤道ギニア共和国 (Republica de Guinea Ecuatorial) 英:Republic of Equatorial Guinea 面積:28,051ku(日本の福島県 13,784kuの 約2倍) 人口:676,000人(2008)、122万人(2016)、(福島県 1,862,705人、2018) 首都:マラボ(ビオコ島に有)、最大の都市:バタ(リトラル県) 民族:ファン族、ブビ族、コンベ族、ベレンゲ族 など 言語: スペイン語(第一公用語) フランス語(第二公用語) ポルトガル語(第三公用語) 宗教:キリスト教(99%)、他に伝統宗教も有 1番切手:”RIO MUNI ESPANA” 首都:バタ(Bata) 1960〜1968年発行。 赤道ギニア共和国は ・大陸部のリオ・ムニ(ムビニ:Ndowe)と、5島の島で、 ・コリスコ島、 ・エロベイ諸島(2島)、 ・エロベイ・グランデ島 (大エロベイ島) ・エロベイ・チコ島 (小エロベイ島) ・ビオコ島(赤道直下のギニア湾に有) ・アンノボン島(赤道直下のギニア湾に有)、 から成る共和制国家で、高温多湿の熱帯性気候。大陸部分に海外領土でない領土を持ち、首都が島にある国は赤道ギニアとデンマークのみ。ポルトガル語公用語アフリカ諸国(Portuguese-speaking African countries)及びフランコフォニー国際機関(International Organisation of the Francophonie)に加盟。 ・赤道ギニア略史:〜 1469、ポルトガル人フェルナンド・ポー船長がビオコ島に到達 1472、フェルナンド・ポー船長がビオコ島に上陸、ポルトガル領とされる 1474、無人島だったアンノボン島へフェルナンド・ポー船長が到達 1778、ポルトガルはブラジルの領有権を認めてもらうことと引き替えに 大陸部のムビニと、ビオコ島をスペインに割譲 その後イギリスが租借し、以降、ビオコ島は奴隷貿易の中継地となる 1784、ポルトガルがスペインにアンノボン島を割譲 1900頃、ブビ族の抵抗あるも、ビオコ島(ムビニ)はスペイン領ギニア(Spanish Guinea)となる 1958、スペインの海外州となり、住民は本国と同等の市民権を得る 1964、自治政府を樹立 1968、10月に国民投票で」赤道ギニア共和国としてスペインから独立 1968/10/12、マシアス・ンゲマが大統領で独立、ソ連圏と緊密な関係を維持 1968/10/12、フランシスコ・マシアス・ンゲマ(Francisco Macias Nguema, 1924-1979/9/29)が 初代大統領に就任し、ソ連圏と緊密な関係を維持 1969、ビオコ島の全スペイン人が撤退 1970、マシアスは自身の与党労働者国民統一党以外の政党活動を禁止 1972、7月にマシアス・ンゲマが終身大統領を宣言して、終身大統領に就任(1期目) 1973、マシアス・ンゲマが大統領への絶対権力の集中を定めた憲法を採択、独裁体制を固める 1979、8月にマシアス・ンゲマ大統領の甥のテオドロ・オビアン・ンゲマ中佐のクーデターで マシアス・ンゲマ大統領を処刑して新大統領に就任、軍事政権を敷く 1982、民政移管などを定めた新憲法を採択するも、クーデター未遂がたびたび発生 1982、8月に軍政から民政へ移行、新憲法のもとオビアン・ンゲマ氏が大統領に就任 1987、ンゲマの一党独裁の政権党として赤道ギニア民主党(PDGE)結成 1989、6月に大統領選挙でオビアン・ンゲマ大統領が選出される(2期目) 民主化を要求するスペイン、フランス、米国の圧力を受け 1991、11月に複数政党制を認めた新憲法が国民投票で承認される 大統領の免責規定などに野党勢力は反発 1992、ビオコ島沖で油田が発掘され、マラボはギニア湾石油拠点として急速に発展 1993、11月に複数政党制下で初の国民議会選挙を実施 総選挙は野党の大半がボイコットする中、PDGEが大勝 1996、2月の大統領選も野党はボイコットし、ンゲマが得票率99%で再選(3期目) 1997、6月に政府は最大野党赤道ギニア進歩党党首のセベロ・モトヌサに武器密輸容疑をかけ、 進歩党の政治活動を禁止、モトヌサはスペインに亡命 1997、8月に裁判所は国家反逆罪でモトヌサに懲役101年の判決 1999、3月の総選挙でPDGEが80議席中75議席を獲得 残り4議席を人民同盟、1議席を社会民主連合が獲得 1999、11月に赤道ギニア進歩党(PPGE)など6つの反政府野党が民主化促進を掲げ、 野党連合の民主野党戦線を結成 2002、12月の大統領選で野党4候補がボイコット、ンゲマが得票率97.1%で再選(4期目) 2004、3月にイギリス陸軍特殊空挺部隊にかつて属していたサイモン・マンが首謀し、 ンゲマを追放してモトヌサを大統領へ据えるクーデター計画が発覚するも、 傭兵部隊と共にマンがジンバブエで逮捕されて計画は未遂に終わる マンは赤道ギニアへ移送され、裁判で禁固34年の刑を受ける 2008、サイモン・マンは恩赦で釈放される、 ンゲマは旧宗主国のスペインが関与したとして国際連合総会でスペインを激しく批判 また、イギリス元首相マーガレット・サッチャーの息子マーク(Mark Thatcher, 1953-)が 関与したとしてケープタウンで逮捕される(後に司法取引で釈放) 2009、2月に大統領府襲撃事件 2009、12月にオビアン・ンゲマ大統領再選(5期目) 2016、4月にオビアン・ンゲマ大統領再選(6期目) 2017、石油輸出国機構(OPEC)に加盟。 赤道ギニア共和国では、1979年に叔父であるマシアス・ンゲマ大統領政権をクーデターで倒したオビアン・ンゲマ大統領による長期政権が続いています。1991年以降は複数政党による選挙が実施されているも、実質的には与党(PDGE)の独裁政権が継続中。2002年及び2004年にクーデター未遂事件が発生し、2009年2月にも武装集団が大統領府を襲撃する事件が発生するなど、不安定要素も見受けられるも、同年11月大統領選挙が平穏に実施され、オビアン・ンゲマ大統領が四選。2011年11月に大統領の三選禁止、副大統領職の設置、上院の設置等を定める改正憲法案が国民投票で可決され、同改正憲法は翌年2月に公布されました。2016年4月には、ンゲマ大統領が再選(任期7年)されました。 ・赤道ギニアの7県(Province)と県都:〜
1992年の石油ブームで人口が急増して現在は人口299,836人(2015) ※6.リトラル県〜 コリスコ島(Isla de Corisco、面積:14Ku)、ガボンと領有権が紛争中 大エロベイ島(Isla de Elobey Grande、標高80m、面積:2.27Ku) 小エロベイ島(Isla de Elobey Chico、面積:0.19Ku) ※8.ジブロホ市、2015/8/1にウェレ=ンザス県アニソク(Anisoc)地区より分離、2017正式発足 ラパスに、2020年完成予定の、約6万人の新首都建設中(現首都マラボ)。 <赤道ギニアの世界遺産>:〜無 赤道ギニアの世界遺産条約批准は2010年なるも、暫定リストにも無。 参考HP:〜 ・赤道ギニア共和国の地図 ・赤道ギニア共和国の区分地図 (1:アンノボン島、2・3:ビオコ島) ・赤道ギニア共和国の地図(地勢図、川が良く解る) ・ビオコ島の地図 こちらで ・コンゴ共和国 ・チュニジア ・コーヒー ・ヴェーゲナー博士 世界遺産の ・ヘンダーソン島 (ピトケーン諸島) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2019/2/19 |