Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(2-8)
ドアルテ・ペレイラ船長
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大航海物語 ポルトガル編★ |
PORTUGAL ポルトガルの航海者ペレイラ船長 ポルトガル 1990-94 発行 |
南西アフリカ→ ギニア湾→ |
GHANA 南西アフリカの地図 ギニア湾 ガーナ 1959/10/15 発行 |
←ビオコ島 ←プリンシペ島 ←サントメ島 ←アンノボン島 ←ガボン |
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RSA カラヴェル船 1488 南アフリカ(RSA) 1988 発行 |
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リスボン生れのドアルテ・ペレイラ船長はポルトガル王室に出仕していましたが、1503年にアルブケルケ将軍の第5次インド遠征艦隊の第1艦隊エスピリトサント号に船長で乗船、インド到着後にコーチン駐留となり、1504年のコーチン戦いで、コーチンを守りぬき勝利しました。1519年にエルミナ総督となり、現地に赴任して3年後に政敵の讒訴で有罪となり、本国召還後に一人寂しく亡くなりました。 |
ドアルテ・パチェコ・ペレイラ船長 (Duarte Pacheco Pereira, 生年不詳〜1533) ペレイラ船長は大ペレイラとも呼ばれ、ジョアン・ペレイラ(Joao Pacheco)とイサベラ(Isabel Pereira)の息子として、ポルトガルのテージョ川河々口のリスボン(Lisboa)で生まれました。ペレイラ船長は15世紀頃のポルトガルの船乗りで、地図製作・天文学に秀でていて、アフリカ西岸、カーボ・ヴェルデ、中央大西洋からインドへと探検航海しましたが、彼の生涯についての詳細な記録は、いまのところ不明です。若いころはポルトガル国王の個人的な郷士(Squire)でした。 ドアルテ・ペレイラ船長の大冒険:〜 ・1488年、アフリカ西岸を探検航海で遭難、プリンシペ島で救助される ・1498年、ブラジルを発見するも秘匿される ・1503年、第5次インド遠征艦隊第1艦隊エスピリトサント号船長でインドのゴアへ航海 ・1504年、コーチンの戦いに勝利してコーチン要塞フォート・マヌエルを守り抜く ・1505年、ポルトガルへ帰国 ・1519年、エル・ミナの総督 ・1522年、讒訴(ざんそ)で有罪となり本国召還 ・1533年、ポルトガルで亡くなる 1488年にアフリカ西岸を探検航海しましたが、熱病に掛かった上に船は難破して沈没して失い、喜望峰からの帰りのバーソロミュー・ディアスにアフリカ・ギニア湾のプリンシペ島で救出されました。
1504年にペレイラ船長はインド・カリカット王国からの5ヵ月におよぶ攻撃に耐え抜き、コーチン(Cochin)にファクトリ(貿易拠点・商館)を建設しました。翌年の1505年に帰国するとポルトガル国王より恩賞を賜りました。1505〜1508年の間は「エスメラルド・デ・シツ・オルビス」(Esmeraldo de situ orbis)という本を書きましたが、ポルトガルの「発見の秘密主義」で19世紀まで出版されませんでした。 後にエル・ミナ(Sao Jorge da Mina)の総督(1519-1522)になっているときに、彼は窃盗罪および汚職で告発され裁判にかけられました。彼の政敵による讒訴や悪口の証言を言われ有罪となり、本国に召還されて投獄されましたが、国王の許しで短期間で出獄しました。しかし、総督の地位も富みも失い、健康も害していました。ポルトガル国王マヌエル1世が亡くなるとジョアン3世(Joao III、在位:1521-1557)の御世となり、新国王はペレイラを知らず、過去の栄光は無くなり、ただ彼の訴えられた不忠のみが新国王の記憶となり、長い海外生活で友も無く、一文無しで一人寂しく、1533年にリスボンで亡くなったと伝えられています。 08/7/26 |
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ドアルテ・ペレイラ船長 1504、コーチンの戦い勝利 第5次インド遠征艦隊 |
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ESTARDO da INDIA D.P.ペレイラ船長 ポ領インド 1948 発行 |
PORTUGAL ポルトガルからインドへの航海地図 ポルトガル 1969/12/30 発行 |
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Mozambique ポルトガル・ナオ船、1502 モザンビーク 1963/12/1 発行 |
ESTARDO da INDIA マヌエル要塞(コーチン)守備、1504 ポ領インド 1956/3/24 発行 |
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ADEN アラブの帆船 イギリス領アデン 1939-48 発行 |
MALDIVES インドのダウ船 モルジブ 発行 |
・第5次インド遠征艦隊:総司令官アルプケルケ将軍 5th Portuguese India Armada (Albuquerque, 1503/4/6〜1504/7下旬) ・第1艦隊4隻の編成:〜 総司令官アルプケルケ将軍(Afonso de Albuquerque)、50才 01)旗艦サンチャゴ号(Sant'Iago)、300屯、大型ナオ船、リスボン帰港 アルブケルケ将軍 02)エスピリトサント号(Espirito Santo)、350屯、大型ナオ船、コーチン駐留 ドアルテ・ペレイラ船長(Duarte Pacheco Pereira) 03)サンクリストバン号(Sao Cristovao)、 150屯、ナオ船、喜望峰で遭難・沈没 フェルナン・マルチン・デ・アルメイダ船長(Fernao Martins de Almada) 04)カタリナディアス号(Catharina Dias)、400屯、大型ナオ船、リスボン帰港 ジバンニ・ダ・エンポリ船長(Giovanni da Empoli) ・第2艦隊3隻、第3艦隊3隻 ・第5次インド遠征艦隊の航海日誌より:〜
8月中旬、レイニャ号がインドの南ゴアのアンジャディプ島(Anjadip Island)着 次いでファイアル号がインドのアンジャディプ島に到着 8月下旬、エスピリトサント号がインドのアンジャディプ島に到着、2週間後の 9月上旬、アルブケルケ将軍の旗艦サンチャゴ号がインドのアンジャディプ島に到着
1504年 01/12、アルブケルケ将軍がコーチン着 コーチンに戻ると地元サルタンの協力なしには香料取引が成り立たないことを悟り、 帰国を急ぐので、カリカット王国のイタリア人協力者引き渡しは棚上げして、 平和裏に講和条約を締結 1月下旬、アルブケルケ将軍がコーチンを帰国のため出帆、 コーチン要塞の司令官として、ペレイラ船長に兵150人と、 カラヴェル船2隻:エスピリトサント号、ラファエル船長の ガリダ号、そしてナオ船コンセプション号(Concepcao)を 残留軍として駐留させました 03/16、ペレイラ司令官が守るコーチンにカリカット王国連合軍が攻撃を始める コーチンの戦い(1504)が勃発 07/03、ペレイラ船長がコーチンの戦いで、アルブケルケ将軍艦隊支援のもと、 コーチンを守り抜き勝利、カリカット王国連合軍が撤退、 ファクトリー(貿易拠点・商館)を建設 1505年 ペレイラ船長がポルトガルに帰国。 ・コーチンの戦い (Battle of Cochin, 1504/3/16〜1504/7/3):〜ポルトガルの決定的勝利
ポルトガル司令官ドアルテ・ペレイラ船長を、 コーチンのカンダゴラ王(Candagora, heir of Cochin)と トリムンパラ王(Trimumpara Raja)が支援 ・カリカットの支援国〜 ヴァサル・マラバール(Vassal Malabari states)州の各地連合軍 エダパリィ(Edapalli)、クランガノール(Cranganore)、コタカル(Kottakkal)、タナー(Tanur) ベイポール(Beypore)、チャリヤム(Chaliyam)、パリプラム(Pariyapuram)など 司令官と支援者〜 ザモリン・ラジャー(Zamorin Raja of Calicut)を、 エランコル王(Elancol)とカイマル王(caimal of Edapalli)が支援。 ・ペレイラ船長率いる小規模なポルトガル守備隊の有名な英雄的活躍が、数百倍の規模の侵略軍を撃退しました。カリカットのザモリン王にとって屈辱的な敗北となり、ザモリン王はコーチンの征服に失敗しただけでなく、小規模な反対勢力を鎮圧することができなかったため、家臣や同盟者の信仰を喪失。ザモリン王はその余波で、インドのマラバル州に対する伝統的な権威の多くも喪失。コーチンの守備で、インドにおけるポルトガルの継続的な領有が確保されました。 ・第一次コーチンの戦い(First siege of Cochin, 1503) 1503年3月にポルトガル艦隊(第4無敵艦隊)がリスボンに帰港すると、4月にザモリンは約5万の軍隊からなるカリカットの大軍を率いてコーチンを攻撃。8月に第5無敵艦隊の先鋒であるフランシスコ・デ・アルブケルケ率いる武装ポルトガル船6隻がコーチンに到着すると、カリカット軍の主力が帰還し、ポルトガルが勝利しました。 参考HP〜 ・インド西岸の地図 ・カンバラオ水路の地図(Pass of Cambalao、コーチンの戦い1504) ・ポルトガル・インドの地図(16-17世紀) ・アフリカ南部海岸の地図 ・アフリカの主な河川の流域地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 平成22年 2010/10/10、令和6年 2024/10/24 |