Tanzania 国連 1984 発行 |
切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.23
タンザニア連合共和国 United Republic of Tanzania |
大航海物語 地図編★ |
TZNZANIA タンザニアの地図 |
||
ルワンダ ブルンジ タンガニ|カ湖 コンゴ |
ヴィクトリア湖 . マラウィ湖 タンザニア 1999 発行 |
ケニヤ ザンジバル諸島 モザンビ|グ |
KENYA UGANDA TANGANYIKA ケニア・ウガンダ・タンガニカ地域の地図
|
タンザニア東部の地図 | ||||||||||
タンザニア |
←モンバサ ←ベンパ島 ←ザンジバル島 ←ダルエスサラーム ←マフィア島 ←ムトワラ ←デルガド岬 ←モザンビーク |
コモロ諸島 | マヨ ット |
||||||||
1964 ザンジバル革命20年記念 1984 タンザニア 1984/6/18 発行 |
|
|||||
REPUBLIQUE DE GUINEE アフリカの地図 |
|||||
KENYA UGANDA TANGANYIKA キリマンジャロ山
|
ギニア 1970/2/3 発行 |
←ソマリア ←ケニア ←タンザニア ←モザンビーク ←南アフリカ共和国 ←喜望峰 |
マダガスカル島 |
||
|
UGANDA タンガニーカ湖
|
KENYA UGANDA TANGANYIKA ニャッサ湖 英領ケニア・ウガンダ・タンガニ-カ 1935/5/1 発行 |
NYASALAND ニャッサ湖
|
||||
|
TANZANIA | |
ダルエスサラーム港 タンザニア 1965/12/9 発行 |
タンザニアの鉄道 タンザニア 2006 発行 |
タンザニア連合共和国 United Republic of Tanzania, 1964〜 British Commonwealth of Tanzania, 1961-1964 旧称:イギリス領タンガニーカ(British Tanganyika, 1945-1961) (イギリス領東アフリカ, British East Africa, 1895-1920) (ドイツ領東アフリカ(Deutsch-Ostafrika、1885-1918) 面積:94.5万ku(日本の約2.5倍)、人口:4,248万人(2008)、人口増加率:2.9%(2009)、首都:ドドマ(法律上の首都、国会議事堂が有、人口約195万人:2007) (政府官庁があって事実上の首都機能を有し経済面ではダルエスサラーム、人口約288万人:2007)、民族:スクマ族、マコンデ族、チャガ族、ハヤ族等(約130)、言語:スワヒリ語(国語)、英語(公用語)、宗教:イスラム教(約40%)、キリスト教(約40%)、土着宗教(約20%))、GDP:約537億ドル(2008)、1番切手:1964/7/7発行。 ・タンザニア略史:〜 7世紀、アラビア半島でイスラム教が成立 10世紀頃迄、アラブ人やペルシア人がキルワ島やザンジバルに渡来し、スワヒリ文明が繁栄 マフダリ家 (Mahdali) の支配の下で、キルワは東アフリカ沿岸部最大の都市となり、 その影響力はモザンビークにまで及ぶ 1331年、イブン・バットゥータがキルワ島を訪れる 1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ船長がインド航路を開拓 1505年、ポルトガルのアルメイダ提督がキルワ島を占領 1512年、アラブ商人達がポルトガルの手からキルワ島を奪還 1698年、スワヒリ諸都市とオマーン王国の連合軍がポルトガルのスワヒリ支配地域を攻撃、 ポルトガルは敗れてタンザニアのインド洋海域から撤退 19世紀、オマーン帝国のサイイド・サイードがタンザニアの島嶼部と沿岸地方を勢力圏に置く 1840年、オマーン帝国がザンジバル島に遷都 1861年、ザンジバルが本国のオマーン・スルタン国と分離、ザンジバル・スルタン国となる、 引き続き香辛料の交易や奴隷貿易で繁栄 19世紀後半、スワヒリ商人ティプ(Tippu Tip,1837-1905)が現コンゴDR東部まで勢力を延ばし 内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となる ティップー・ティプはデイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・スタンリーの探険を助ける 1881年、ドイツ領となる、その後に列強によるアフリカ分割が始まる 1885年、カール・ペータースの活動でドイツ東アフリカ会社(1885/4/2-1918)の植民地が認可され、 ドイツ領東アフリカ(Deutsch-Ostafrika、-1918)となる 現在のタンザニアの大陸部分(タンガニーカ)、ルワンダ、ブルンジ 1890年、ザンジバルがヘルゴランド・ザンジバル条約でイギリスの保護国となる 1891/7月、ドイツとヘヘ族ムクワワ(Mkwawa、1855-1898/7/19)との戦争が勃発(-1898/7/19) 1905年、海岸からタンガニーカ湖までの鉄道(現:中央鉄道)がダルエスサラームを起点に着工 1905/7月、部族の垣根を越えた最大の反乱となったマジ・マジ反乱が勃発、鎮圧(-1908/7月) 1914年、第一次世界大戦が勃発(-1918) 第一次世界大戦の東アフリカ戦線ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍 (Paul Emil von Lettow-Vorbeck、1870-1964)率いる現地人兵士を中心としたゲリラ 部隊がイギリス軍などを相手にドイツ本国の降伏時まで交戦 タンザニア中央鉄道が終点キゴマに到達して完成 1918年、第一次世界大戦がドイツの敗北で終結 ドイツ領東アフリカは解体され、大半はイギリスの委任統治領タンガニーカとなり、東北部 のルアンダ=ウルンディはベルギーの委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域 (ウガンダ、ケニア、タンガニーカ、ザンジバル)を支配することとなり、これらには関税同盟 が敷かれ、共通通貨東アフリカ・シリングが導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設 され、その一つはヴィクトリア湖のムワンザにまで延長された。 1920年、英国委任統治領となる 1939/9/01、ナチス・ドイツが、9/17にソ連軍がポーランドに侵攻、第2次世界大戦が勃発 1941/12/8、太平洋戦争勃発 世界大戦が開戦するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、 タンガニーカからは87,000人が出征。東アフリカ部隊は東アフリカ戦線でイタリア軍と、 ビルマ戦線で日本軍との戦いを繰り広げ、 インパール作戦で日本軍が対峙したイギリス軍には多くのアフリカ人が従軍 1945/5/08、ナチス第3帝国ドイツ降伏 1945/8/15、大日本帝国降伏 1945/9/02、第2次世界大戦終結 世界大戦後は世界的な脱植民地化の潮流の中で タンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)が次第に支持を集める 1961/12/9、大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立(ニエレレ首相) 1962年、共和制移行(ジュリウス・ニエレレ大統領 Julius Kambarage Nyerere, 1922-1999) 1963年、ザンジバル王国も主権を獲得して独立 1964/01/12、ザンジバルの武装勢力が軍事クーデターで王政を打倒、ザンジバル国王は亡命、 アラブ人排斥の流血事態中に、ザンジバル人民共和国が成立、100日足らずで消滅 1964/06/24、タンガニーカ・ザンジバル両国はニエレレ大統領の汎アフリカ主義の精神下で 連合してタンガニーカ・ザンジバル連合共和国として統合 1964/10/29、かつて繁栄したアザニア文化の名称を複合してタンザニア連合共和国に改称 連合共和国の初代ニエレレ大統領はスワヒリ語を公用語とする。モザンビーク独立戦争 が始まると、エドゥアルド・モンドラーネ議長の指導するモザンビーク解放戦線(FRELIMO) を支援し解放区を提供。この時にタンザニアは”FRELIMO”の他、ナミビアの南西アフリカ 人民機構(SWAPO)やジンバブエのジンバブエ=アフリカ人民族同(ZANU)を支援 1967年、アルーシャ宣言以降ウジャマー社会主義を採用して社会主義の建設を目指す、 対外的には中華人民共和国との関係を深め、アフリカ諸国との関係においても 白人支配を続ける南アフリカ共和国やローデシア、ポルトガルと敵対 1970年代、旱魃による農業の衰退や、ウジャマー村の建設の失敗が各地で報告され、 経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになる 1971年、ウガンダのオボテ大統領がイディ・アミンのクーデターで追放されて以来、ウガンダと対立 1977年、それまで別組織のタンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)とアフロ・シラジ党(ASP)が 統合、統一政党としてのタンザニア革命党が成立 1978年、ウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻するも撃退、タンザニア軍はカンパラを攻略 アミン失脚の一因となる(タンザニア・ウガンダ戦争)。こうした政策でタンザニアは アフリカ内外で第三世界を指導する国家の一角としての信望を集める 1980年代、イラン革命での第2次石油危機の影響もあって経済の衰退は深刻化、 日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる 1985/11月、ニエレレ大統領が引退を発表、 後任には与党タンザニア革命党からザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニが就任、 ムウィニ大統領の下でIMFの勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められる 1990年、ムウィニ大統領が再選 1994年、民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げる 1995年、与党タンザニア革命党から就任したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ大統領の選出 1996年、立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマに移転、 その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラームに有 2000年、ムカパ大統領が再選 2005年、キクウェテ大統領が選出される 2005年、与党タンザニア革命党からジャカヤ・キクウェテが大統領に就任 2010年、キクウェテ大統領が再選。 タンザニアの地方行政区分 26(Regions)のミコア (Mkoa) と呼ばれる地方(州)と州都(Headquarters) ※2019年:31=26+5ザンジバル。
<タンザニアのユネスコ世界遺産>:〜7件 ・文化遺産 ・キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群、(1981) (Ruins of Kilwa Kisiwani and Ruins of Songo Mnara) キルワ・キシワニ島にある大モスク跡など ・ザンジバル島のストーン・タウン、(2000) (Stone Town of Zanzibar) ・コンドアの岩絵遺跡群、(2006) (Kondoa Rock-Art Sites) ドドマ州コンドア地区にある洞窟壁画群 ・自然遺産 ・セレンゲティ国立公園、(1981) (Serengeti National Park) ・セルース猟獣保護区、(1982) (Selous Game Reserve) ・キリマンジャロ国立公園、(1987) (Kilimanjaro National Park) キリマンジャロ・コーヒーが標高1,500m〜2,500m付近プランテーションで栽培 ・複合遺産 ・ンゴロンゴロ保全地域、(1979、2010) (Ngorongoro Conservation Area)。 参考HP:〜 ・キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群の場所地図 (世界遺産) ・ザンジバル島のストーン・タウンの場所地図 (世界遺産) ・セレンゲティ国立公園の場所地図 (世界遺産) ・セルース猟獣保護区の場所地図 (世界遺産) ・キリマンジャロ国立公園の場所地図 (世界遺産) ・ンゴロンゴロ保全地域の場所地図 (世界遺産) ・タンザニアの国立公園の場所地図 (国立公園)
参考HP:〜 ・タンザニアの鉄道の地図 (概略) ・タンザニア鉄道の地図 (タンザニアの国内路線図、拡大有)
・ヘルゴランド・ザンジバル条約 (1890/8/10) Heligoland-Zanzibar Treaty 列強によるアフリカ分割が始まると、イギリスはドイツと北海の独領ヘルゴラント島でヘルゴランド=ザンジバル条約を締結。ザンジバル領の内の沿岸地方はドイツが獲得、島嶼部はイギリスが獲得。またドイツ領南西アフリカ(現:ナミビア)の権益を確定、ドイツ領トーゴランドとイギリス領ゴールドコースト植民地(現:ガーナ)、ドイツ領カメルーンとイギリス領ナイジェリアの国境問題を解決。 ・キルワ・キシワニ島 Kilwa Kisiwani Island キルワ・キシワニ島は東アフリカ(現タンザニア領内)沖に浮かぶ島で、イスラム教徒のコミュニティが今もある。9世紀、この島は商人アリ・ビン・アル=ハサン (Ali bin Al-Hasan) に売り渡され、以降の数世紀にわたり、交易の拠点たる大都市として成長を遂げた。取引されていたのは、ジンバブエからの黄金や鉄、タンザニアからの象牙や奴隷、アジアからの繊維、宝石、陶磁器、香辛料などだった。13世紀までに、マフダリ家 (Mahdali) の支配下、キルワは東アフリカ沿岸部最大の都市となり、その影響力はモザンビークにまで及んだ。 957年、初代サルタンのアル・イブン・アルハッサン(Ali ibn al-Hassan)が建設(957〜1495) 1331年、イブン・バットゥータがキルワ島を訪れ「キルワは世界でいちばん美しい整然と建てられた 町の一つで、町じゅうの造りが上品で、屋根をマングローブの柱でささえて、雨が大変多く 住民は宗教戦争に忙しい」と記録し、サルタン(Sultan al-Hasan ibn Sulaiman)の謙譲と 篤信の精神を高く評価。その後、フスニ・クブワ宮殿 (Palace of Husuni Kubwa)の建造や キルワの大モスク(Great Mosque of Kilwa) の拡張が行われる 16世紀初頭、ヴァスコ・ダ・ガマ船長がこの国から貢物を受け取る 1505年、ポルトガルのアルメイダ提督がキルワ島を占領、金の搬出港ソファラもポルトガルが 占領してポルトガル支配の時代(1499〜1506)となる、 キルワ王国は金の交易ネットワークから外され没落 1512年、アラブ商人達に奪還され、都市は多少の栄光を取り戻す 1784年、ザンジバル島入植のオマーンの支配を受ける その後、フランスがキルワの島北端に要塞を築く 1840年、フランスが島を放棄 1886年、ドイツ領東アフリカの一部となる(-1918) 1950年代、本格的な考古学調査が始まる 大モスク跡廃墟やムクティニ宮殿 (Mkutini Palace) 跡などがある。 南にソンゴ・ムナラ島がある。 参考HP:〜 ・タンザニアの地図(日本語) ・タンザニアの州の地図 ・キリマンジャロ山の登山ルート地図(日本語) ・キリマンジャロ山の登山体験記(日本語) ・ダルエスサラームの場所地図 ・タンガニーカ湖の場所地図(日本語) ・リチャード・バートン卿の探検地図(赤線:1857-58) ・キルワ・キシワニの場所地図 こちらで ・ザンビア鉄道 ・ウォルビス・ベイ (ナミビア) ・グラディエーター・インセクト (ナミビア) ・スパイス (香辛料) ・ドラケンスバーグの岩絵 (南アフリカ) 世界遺産 ・ヌビア遺跡 (エジプト)世界遺産 ・法隆寺 (日本)世界遺産 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/3/23、13/7/7、19/2/13、2019/9/8 |