United Kingdom 国連 1983 発行 |
United Kingdom of Great Britain and Northern Irelan (X)イギリス人の探検大航海 Great Voyage of Britain |
大航海物語 イギリス編★ |
Gilbert Islands クック船長のレゾリューション号 ギルバート諸島 1977 発行 |
US POSTAGE 1758 フォート・デュケーヌ 1958 ピッツバーグ 200年 記念 アメリカ 1958 発行 |
CANADA POSTAGE イギリス大植民地帝国の領土地図 カナダ 明治31年 1898 発行 |
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イギリス人の探検大航海 コロンブスがインド到達の新航路発見のためにイギリスへ援助を申し出ましたが、時の国王ヘンリー7世は断りました。それでイギリスはポルトガル、スペインと比べて新大陸への進出がとても出遅れました。なお、その上にジョン・カボットが1497年ヘンリー7世の命でインドへのコロンブスとは別ルート「北西航路の探検・発見」のため、イギリスのブリストルを出帆、カナダのニューファウンドランド島へ到達、無事帰港しました。しかし、その航海では金銀財宝などの収穫もなかったので、その後大西洋を横断してジパンゴ(日本)やアジアを発見しようという話しは沙汰やみとなりました。1517年にはトマス・モアの義弟ジョン・ラステル(John Rastell, 1475-1536)がアメリカ渡航を企てるも準備段階で頓挫した経緯もありましたし、1527年にはジョン・ラットが大西洋を北に進み、北緯64度から針路を南に変えてスペイン領のサント・ドミンゴ島(イスパニョーラ島:現ハイチとドミニカのある島)まで航海しました。これがイギリス船のカリブ海に入った最初であるとされています。ただ、この頃のイギリスはスペインと友好関係にあったことからカリブ海の島や大陸部のスペイン領にスペイン船に乗って出かけるイギリス人もかなりいました。イギリスでは、1509年、ヘンリ7世が亡くなり、その子ヘンリ8世が即位しました。1534年ヘンリ8世は王妃との離婚をカトリック教会の総本山のローマ教皇に認めて貰えなかったことから、ローマと絶縁、独自のキリスト教会である「イギリス国教会」を創設しました。このことがローマ教皇に忠実なスペインを怒らせ、英西両国の関係は次第に悪化していったのでした。ただ、この時点ではまだ全面戦争といった事態には至っていませんが、フランスとの戦いに備えて海軍を創設し、港湾設備を整備しました。ヘンリ8世没後の1553年、エドワード6世時代にはスカンジナヴィア半島の北、すなわち北極海を通って「北西航路の発見」で中国に到達しようとの試みがなされましたが、航海そのものは失敗に終ったものの、なんとかモスクワ公国(後のロシア帝国)にたどり着いて通商の許可を得ることはできました。1563年にはプロビジャーがカナダ北部を探検航海してプロビシャー湾を発見したり、また、この前後数年間には複数の航海者が西アフリカへと繰り出し、交易や略奪で金や胡椒を手に入れました。この頃からイギリス商人による貿易や交易が盛かんとなり、先発国のポルトガル・スペインとの間で西アフリカやカリブ海で摩擦が起こってきました。中には先発国の船から掠奪を働く”私掠船”という海賊まがいの武装商船(国王が免許状を与えたものもあった)も活発に出没してきました。なお、「北西航路の探検・発見」のための試みは1777年にキャップテン・クックが帆船での通過可能な航路が存在しないことを証明するまで続けられました。 ・フレンチ・インディアン戦争の発端となる「ブラドックの敗戦」が1755年に発生しましたが、その前の1754年にヴァージニア民兵隊の敗北が起こりました。1740年代以降、イギリス植民地の毛皮商人がミシシッピー河支流のオハイオ川流域に入り込もうとしていました。ヴァージニア植民地で組織された「オハイオ会社」は100万エーカーの土地獲得を目指し、その他にもいくつかの会社がこの地域のインディアンとの交易を進めていました。いうまでもなくミシシッピー方面はフランスの縄張りであり、そちらはオハイオ川上流に砦を築いてイギリス人の進出に対処しました。砦の建設に関してヴァージニア総督ディンウィッディー(Robert Dinwiddie, 1692-1770)が抗議するも無視されました。そこでディンウィッディー総督はオハイオ川とアレゲニー川の合流点という重要拠点を制圧すべく150人の民兵隊を派遣。この時大佐として民兵の指揮をとったのが21才で、後の合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington, 在任1789-1797)でした。しかし、目的地にはフランス人がフォート・デュケーヌ(French Fort Duquesne, Pittsburgh, Pennsylvania, USA)という要塞を築いてヴァージニア民兵隊を待ち構えていました。7月3日、怖いもの知らずのワシントン大佐が部下に発砲を命じ、宣戦布告もなにもないまま本格的な戦闘が始まりました。結果はヴァージニア民兵隊の惨敗、3分の1が死傷し、降伏したあげくヴァージニアに帰ることを許してもらうというていたらくとなりました。 イギリスは局地的限定的な戦闘で優位を得ることを狙い本国から定数に満たない2個聯隊を送りました。本国からやってきた2個聯隊を率いるブラドック少将(Major general Edward Braddock、1695頃-1755/7/13, モノンガヘラの戦い (Battle of the Monongahela, Braddock, Pennsylvania, 1755/7/9)で戦死)はただちに進撃を開始。兵力は約1,500人、幕僚にはワシントンがいました。目的地のフランス要塞フォート・デュケーヌは現在のペンシルヴァニア州西部にあって、それだけ聞けば「イギリス植民地のすぐ近所か」と思ってしまいそうですがそれはとんでもない勘違いで、イギリス人の居住地はこの時代でもまだ大西洋沿岸部からそんなに離れておらず、海岸から西に300マイル(482.8km)も進めばそこはもはや(白人にとっては)人跡未踏の未開の大地でした。イギリス側の拠点から目的地フォート・デュケーヌまで110マイル(177.0km)、道らしい道もなく、300人の工兵隊が斧を振るって森を切り開き、遠征隊の資材の一部を調達したのはベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706-1790)で、さらに馭者として21才のダニエル・ブーン(Daniel Boone, 1734-1820)も加わっていました。 1755/7/9、目的地から数マイルに迫ったブラドック軍の後衛がモノンガヒーラ川の浅瀬を渡りきる寸前にフランス軍の不意の攻撃が始まりました。ブラドック軍にはインディアン(地理に詳しい)が8人しかおらず、警戒が不十分でした。フランス軍は正規の士官と兵士73人、民兵150人、友好インディアン637人、と数の上では劣っているもブラドック軍を収拾のつかない大混乱に陥れました。ブラドックは打ち倒された馬を何頭も乗り換えたあげく自身も胸に弾を喰らって負傷、結局亡くなりました。ダニエル・ブーンは馬車の馬具を切って裸馬に飛び乗り全速力で逃走。指揮を引き継いだダンバー大佐やワシントン等がなんとか残兵をまとめて退却。死傷者は全軍の3分の2にあたる977人で、これが、いわゆる「ブラドックの敗戦」です。 ・戦争の勃発、かくして1755年の「ブラドックの敗戦」以来始まったのが「フレンチ・インディアン戦争」でした。最初はフランス側に有利に運び、緒戦の結果を見たインディアンの多くはフランスの方が頼りになると考えました。インディアンは白人との交易で銃を手にし、それは戦争や狩猟になくてはならない道具となってしまっていたんですが、自分たちではほとんど修理出来ないため、とにかく強い植民地の味方をする必要があったのです。親イギリス派インディアン部族や中立部族もいましたが、各植民地間の連絡・協力がまるでなされていないことが今回フランス側に有利に働きました。イギリスはとりあえずアメリカの北部と南部をそれぞれまとめて統轄するインディアン監督官を設置してこれに対応しました。 それはともかく、これまでのイギリスとフランスの戦争はまずヨーロッパで起こった戦いが植民地に波及するという形をとっていたのが、今回の戦争は逆に植民地の方が先に火蓋を切ったのです。それに対応して、ヨーロッパでも新たな戦いが始まろうとしていました。先の「オーストリア継承戦争」で苦杯を飲まされたオーストリア女帝マリア・テレジアはプロイセンへの復讐を誓ってまずロシアと同盟し、さらに前回の敵国フランスを同盟に引き入れました。フランスとオーストリア(ハプスブルグ家)は200年来のライバルで、話はなかなか進まず、フランス王ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人をかき口説いてどうにか同盟締結に持ち込んだのでした。これは「外交革命」といわれています。 こうしてすっかり孤立したプロイセンは、1756年の夏に先手を打って軍勢を動かし、ここに「七年戦争」が勃発しました。オーストリアは前回(オーストリア継承戦争)の同盟国イギリスにも協力を求めるも、イギリスは既にアメリカでフランス軍と戦闘中であることからこれを断り、かわりにプロイセンに味方しました。フランスの目をヨーロッパに集中させておき、その隙に植民地を根こそぎ奪おうとの魂胆でした。正確には、イギリスは5月17日にフランスに対し正式に宣戦を布告していました。フランスは英仏海峡沿いに6万の兵力を展開し、さらに地中海のイギリス領ミノルカ島に上陸軍を派遣しました。イギリスはビング提督(Admiral John Byng、1704-1757/3/14)の艦隊を送ってこれを防ごうとしました。かくして「ミノルカ沖の海戦」が勃発しました。兵力は英仏両艦隊とも12隻でした。この時単縦陣でフランス艦隊に殺到しようとしたイギリス艦隊はその前衛に属する1隻が大損害を被ったことから戦列が大幅に乱れてしまい、そのままジブラルタルに退却するハメに陥り、結局ミノルカ島はフランス軍に占領され、責任を問われたビング提督は軍法会議の結果銃殺刑に処せられました。 1757年には大陸(ヨーロッパ)でまず6月に同盟国プロイセンの軍勢が「コリンの戦い」にてオーストリア軍に敗北し、7月にはイギリスの大陸派遣軍が「ハステンベックの戦い」にてフランス軍に敗れましたが、それはあまり重要ではなく、プロイセンはともかくイギリスは植民地の方が大事でした。この年6月23日、インドで「プラッシーの戦い」が行われ、クライヴ率いるイギリス軍が、フランスの軍事支援を受けたベンガル大守の大軍を撃破しました。ようやくイギリス軍にも本格的な勝機がまわってきて、11〜12月、プロイセン軍がロスバッハとロイテンにて連勝し、軍事的天才フリードリヒ2世はイギリスでも大人気となりました。 1758年、イギリス艦隊が本国を出撃、ひとまずカナダ沖のケープ・ブレトン島ルイスバーグ港を攻撃目標としました。ここは「ジョージ王戦争」の時に一旦イギリス側が占領するも1748年の「アーヘン条約」によりフランスに返還されていました。北大西洋におけるフランスの鱈漁を守る重要拠点でした。これまでの植民地戦争が基本的に現地まかせだったのと異なり、イギリスは今回の戦争に関しては本国から北米へと大軍を投入。対するフランスの方は海軍が弱いせいでなかなか思うにまかせず、アン女王戦争の頃25万程度の人口しかもたなかったイギリス領北アメリカは今では百数十万の人口を持ち、イギリス帝国内において経済的政治的になくてはならない存在となっていました。これに軍事的脅威を与えるフランス植民地(ヌーヴェル・フランス)をこの際徹底的に叩こうとしました。6月イギリス艦隊がルイスバーグの沖に姿を現しました。フランス軍は港の入口に艦船4隻を自沈させてイギリス艦隊の針路を阻もうとしましたが、港内のフランス艦隊は失火から5隻を失い、炎と煙の合間からイギリス軍のボート隊の侵入を許してしまいました。別方面ではジェームズ・ウルフの率いる4個大隊が上陸を果たしており、フランス軍3600人はやむなく降伏。大陸(アメリカ)でもいくつかの戦火が交えられ、「フレンチ・インディアン戦争」のそもそもの勃発点である「フォート・デュケーヌ」を占領したイギリスのフォーブス将軍はこの町を本国の宰相にちなんで「ピッツバーグ」と改名しました。フォーブス軍にはワシントンも従っていました。付近のインディアン部族の一部がフランスから離反。イギリス植民地南部でフランス軍に呼応して反乱を起こしていたクリーク族やチェロキー族も撃破され、特にチェロキー族は全戦士の半数を失うという打撃を被りました。(チェロキー族の勇猛さに手をやいたイギリスは天然痘の患者が使用していた毛布を贈り物として差し出し、その結果、天然痘の伝染力が猛威を振るって、部族に壊滅的被害を出したという説もあります)。 翌年、北米のイギリス軍は4つに分かれ、うち3つが陸路から五大湖方面へと北上し、あとひとつが海路からケベックを攻略するとの作戦がたてられました。五大湖方面に出た軍はこの地域をあらかた占領するも、物資を使い果たしたりしてそれ以上は進めませんでした。陸路からカナダに遠征する作戦はウィリアム王戦争以来何度も行われてことごとく中途で息が切れ、十数年後のアメリカ独立戦争、五十数年後の米英戦争でもやっぱり失敗することになりました。それはともかく1759年の戦役では、残りは海路軍でした。フランス海軍はもともと総戦力で劣る上にこの1759年に各地の海戦でイギリス艦隊に敗れさり、もはや植民地への救援は不可能となりました。イギリス海軍はフランスの主な港湾を封鎖して敵艦隊を圧伏する一方で、輸送船団に護衛をつけて私掠船の攻撃を防ごうとしました。ケベック攻略の海路軍は、200隻の船団を指揮するのがソーンダーズ提督、上陸軍8500を指揮するのがジェイムズ・ウルフ陸軍少将で、6月6日から始まったセントローレンス河の遡行は相当の困難が予測されたが、船団の先頭を進むジェイムズ・クック船長が慎重な深度測定・浮標設置を行って僚船の座礁を回避しました。6月27日、イギリス軍がケベックの東4マイルに到着。待ち構えるフランス軍は民兵1万に正規軍3000、友好インディアン1000を集めていました。ケベックは堅固な城塞と河に守られており、1万足らずのイギリス軍がこれを攻め落とすのは容易なことではありませんでしたが、たくみな戦術と勇敢な行動とあいまって、9月17日ケベック市は降伏しました。1760年9月、カナダのフランス勢力最後の拠点モントリオールが降伏しました。まだ一部の親仏インディアンが抵抗していたが、北米大陸における戦火はほぼ終息しました。翌61年1月にはインドのフランス拠点ポンディシェリーを占領、インドのフランス勢力を完全に制圧。残りはヨーロッパ(大陸)とカリブ海です。 1761年11月、イギリス本国からロドニー少将の艦隊40隻が出撃し、翌年1月に到着した陸兵1万5000とでカリブ海のフランス拠点マルティニーク島を攻略しました。艦砲を陸にあげての猛攻により10日でケリがつきました。死傷者は500人。グラナダ島やセントルシヤ島も相前後してイギリス艦隊の軍門に下りました。 1762年にはヨーロッパ(大陸)の戦局も奇跡の大逆転をとげていました。イギリスの同盟国プロイセンはそれまでオーストリア・ロシア・フランスの猛攻を受け、いくどかの勝利を得つつもじりじりと崩壊へと進んでいましたが、この年1月にロシア女帝エリザベート(1709生、在位1741ー62年)が死去してプロイセン贔屓のピョートル3世が即位し、同盟国になんの相談もなくプロイセンとの単独講和を締結したので、プロイセン軍は一挙に活気づき、反撃に出て各地にオーストリア軍を撃破しました。 ・「フレンチ・インディアン戦争(植民地)1754−63」(七年戦争(欧州)1756−63)の結果、1763年2月10日「パリ条約」が結ばれ、フランスは北大西洋ニューファウンドランド沖のサン・ピエールとミクロンという2つの小島、カリブ海のマルティニーク島・グアドループ島・サントドミンゴ島及びいくつかの小島、インドのポンディシェリーをなんとか返してもらったものの、カナダの全部とルイジアナのミシシッピー河以東を失いました。ここに北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わりを告げました。スペインはキューバのハバナとフィリピンを返還されたがフロリダをイギリスに割譲。ただスペインは同盟国フランスからその労に報いるためルイジアナのミシシッピー河以西(フォンテンブロー条約)を譲られました。プロイセンとオーストリアも「フベルトゥスブルクの和約」を結び、プロイセンのシレジア領有が確定しました。 なお、パリ条約締結後、カナダ東部のアカディア地方を追われたフランス系住民は、当時まだフランス領だったルイジアナ植民地のニューオリンズ一帯に移住し、現在の米国メイン州北部のセント・ジョン渓谷に移り住んだ者もいました。 イギリスは、1607年のジェイムズタウン建設に端を発して以来、これまで百数十年かけて全世界に広げた大植民地帝国を築きました。1588年のスペインとの戦い(アルマダの海戦)から始まって、3度の英蘭戦争と新大陸とヨーロッパを巻き込んだ4度の対仏植民地戦争(*)を戦い抜き、最終的に勝利しました。イギリス帝国の第一次の隆盛には早くも深刻な翳りがさしていました。しかも、フレンチ・インディアン戦争以降のアメリカ植民地への課税は北米の13の植民地に対して一括して行われたので、バラバラに誕生して、それぞれ異なる社会と利害をもって行動してきた13の植民地を、1つにまとめる直接の凝固剤となり、その上、北米大陸におけるフランス人勢力が一掃されたことによって、英領の植民地が本国からの安全保障を必要としなくなってしまい、それが直後のアメリカ独立戦争につながったともいえます。英領植民地を安全にしたがために、かえってそこを失ってしまったという皮肉な結果に終わったわけです。「アメリカ独立戦争1775−83年」の勃発はフレンチ・インディアン戦争の終結からわずか12年後のことでした。 (*)4度の対仏植民地戦争
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こちらで (I)序章イギリス (II)初期大航海 (III)私掠船団 (IV)殖民大航海
をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.2/11/15(2020)追記 |
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グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 (X)
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