切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
★ヴァンクーバー物語 United Kingdom

国連 1983 発行

ジョージ・ヴァンクーヴァー船長
1791、キング・ジョージ・サウンドを発見
1792、バンクーバー島を島と確認

大航海物語
 イギリス編

POLYNESIE FRANCAISE
ラパ島の地図
ヴァンクーヴァー船長、1791/12/22、発見


仏領ポリネシア 1987 発行

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序 章:生立ちの記
第1章:ヌトカ
第2章:世界一周航海
第3章:オストラリア・キングジョージ砂州
第4章:カナダ・バンクーバー島
第5章:シトカ・北西航路探査

・帆 船:チャタム号
・参 考:エーア隊長






序 章

SOLOMON ISLANDS
ディスカヴァリー号

ソロモン諸島 1979/6/16 発行
FIJI
太平洋と世界地図

フィジー 1997/4/12 発行

ヴァンクーヴァーはイギリス海軍々人で「セインツの海戦」に従軍・勝利し、北西航路探査のヴァンクーバー探検航海遠征隊を率いて、1791年にオーストラリアの南西海岸の探検航海中にキング・ジョージ・サウンドを発見し、北アメリカ太平洋岸カナダ・ブリティッシュコロンビア州、アメリカのアラスカ、ワシントン州やオレゴン州の海岸を探検航海し、1792年にバンクーバー島を島だと確認しました。
ジョージ・バンクーヴァー (1757/6/22〜1798/5/12)
 Captain George Vancouver RN
ジョージ・ヴァンクーヴァーはイギリスのノーフォーク州キングスリン(King's Lynn, Norfolk, England)で生まれました。1772年にクック船長の第2回探検航海(1772-1775)のレゾリューション号HMS Resolution)に15才で少尉候補生として乗り組み、初めての遠洋航海に出帆しました。クック船長の第3回探検航海(1776-1779)にもディスカヴァリー号(HMS Discovery)に乗船して随行しました。1779年にイギリスに帰港すると22才で海軍大尉(lieutenant)に昇進し、スループ型帆船マーティン号(HMS Martin)に乗船して、イギリス海峡のパトロール任務に従事しました。

ヴァンクーヴァー船長の大航海:〜:
・1772〜1775:クック船長の第2回探検大航海:レゾリューション号乗船:少尉候補生
・1776〜1779:クック船長の第3回探検大航海:ディスカヴァリー号乗船:航海士
・1782/4/9〜12:セインツの海戦にカリブ海方面に大航海:フェーム号乗船:海軍大尉
・1789〜1790:ヌトカ紛争でヌトカ・サウンドへ大航海:
           ディスカヴァリー号:航海長、カレイジャス号:船長
・1791〜1795:ヴァンクーヴァー探検航海隊々長で世界一周探検大航海:
           ディスカヴァリー号乗船:司令官。

1782年に戦列艦フェーム号(HMS Fame、74-gun ship)に乗船して、セインツの海戦(Battle of the Saintes)を4日間闘いました。セインツの海戦はアメリカ独立戦争中の1782/4/9〜4/12にカリブ海、北部のリーワード諸島グアドループ島と南部のウィンドワード諸島ドミニカ島(共に小アンティール諸島)の間で行われたフランス海軍とイギリス海軍との海戦で、ジョージ・ロドニー卿が指揮するイギリス艦隊はフランソワ・ド・グラス伯爵指揮するフランス艦隊を撃破し、フランス艦隊の旗艦ヴィル・ド・パリ号を含む5隻を拿捕、勝利しました。






★ヴァンクーバー物語 序 章
・第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
チャタム
エア隊長

第1章 ヌトカ砂州
ヌトカ紛争
1789
ヌトカ・サウンド


大航海物語
  イギリス★

ESPANA
ヌトカ海岸の地図
ヌトカ・サウンド
スペイン 1976/3/1 発行


1789年に大英帝国海軍 によって南太平洋捕鯨場探検航海が計画され、ヘンリー・ロバート司令官(Henry Roberts, 1757-1796、クック船長の第23回探検航海に随行)のもとで、新たにディスカヴァリー号が購入、準備され、ヴァンクーヴァーが航海長に指名されました。2人ともクック船長のメンターシップ(Mentorship:自律的教育)によって育てられた海の男でした。1789年夏にヌトカ事件ヌトカ・インシデント:Nootka Incident)がスペイン帝国との間で発生したので、ヴァンクーヴァーは急ぎイギリスに帰港して、フリゲート艦カレイジャス号(HMS Courageux、32-gun frigate)に乗船してヌトカに戻り、1790年にヌトカ協約(ヌトカ・コンベンション、Nootka Convention)がスペインと締結されて戦争は避けられました。






★ヴァンクーバー物語 序 章
第1章
・第2章
第3章
第4章
第5章
チャタム
エア隊長

第2章 世界一周航海
ヴァンクーヴァー探検航海隊々長
1791〜1795
世界一周探検大航海


大航海物語
  イギリス★

RF POSTAGE AERIENNE
航海日誌 ラパ島の地図

フランス領ポリネシア 1987/6/15 発行

ァンク|ヴ
ァ|船長
1791年ラパ島を発見、オパロ島(Oparo)と命名
SOLOMON ISLANDS
ディスカヴァリー号

ソロモン諸島 1979/6/16 発行

     Cocos(Keeling)Islands
ココス諸島




キングジョージサウンド




オーストラリア


シドニー

ホバート
ココス諸島 1986/4/1 発行 (200%)

・「ヴァンクーヴァー探検航海遠征隊」航海記録:〜:
ヴァンクーヴァーは帰国後の1791年に北西航路(North West Passege)の探査と、クック船長が1778年に発見したヌトカ砂洲(Nootka Sound)探検の司令官に指名され、ヴァンクーヴァー探検航海遠征隊(Vancuver Expedition、1791-1795)を率いて探検航海を開始しました。

・ディスカヴァリー号の主な乗組員
  (Crew of the expedition HMS Discovery、153men)
・ザッチャリィ・マッジ大尉(Zachary Mudge 1770-1852、1st Lieutenant)
  1792年は北米太平洋岸を探検後、ヌトカ紛争処理
・ピーター・ピュージェット中尉(Peter Puget 1765-1822、2nd Lieutenant)
  1792/5/20-27に2隻のボートでワシントン州ピュージェット砂洲(Puget Sound)を探検、
  ヴァンクーバーが彼に因んで名付ける
・ジョセフ・ベイカー少尉(Joseph Baker 1767-1817、3rd Lieutenant)
  ピュージェット砂洲近くのアドミラルティ入江(Admiralty Inlet)を探検、
  ベーカー山(Mount Baker、3,286m)を望見してヴァンクーバーが彼に因んで名付ける
・ジョセフ・ウィッドビィ(Joseph Whidbey 1757-1833)、ピュージェット大尉に同行して6/2に
  デセプション水道(Deception Pass)を発見、そこにある最大の島をヴァンクーバーが
  彼に因んでウィッドビィ島(Whidbey Island)と名付ける
・ロバート・バリー少尉候補生(Sir Robert Barrie KCB, KCH 1774-1841、midshipman)、
  ブリティッシュ・コロンビア海岸線の調査に同行し、1795/10イギリス帰港後に少尉任官
・トーマス・ピット(Thomas Pitt, 2nd Baron Camelford 1775-1804)
  大ピット首相の兄の息子が16才で乗船していた
ウィリアム・ブロートン(William Broughten)、僚船チャタム号艦長

1791/4/1にヴァンクーヴァーはディスカヴァリー号(HMS Discovery, 337t)に乗船し、僚船のウィリアム・ブロートン艦長(Lt. William R. Broughton)のチャタム号(HMS Chatham)を随伴して2隻で北西航路を探査する「ヴァンクーバー探検航海遠征隊」を率いてイギリスを出帆ました。4/28にカナリア諸島のテネリフ島サンタクルーズ港に到着し、休養と補給をとった後、5/7に出帆しました。チャタム号は6/6に、ディスカヴァリー号は2日後に喜望峰ケープ・タウン港に到着し休養と補給をとった後、8/17に出帆しましたが、この間に赤痢(dysentery)が発生し水夫一人が亡くなりました。







★ヴァンクーバー物語 序 章
第1章
第2章
・第3章
第4章
第5章
チャタム
エア隊長

第3章 キングジョージ砂州
オーストラリア南西海岸の探検航海
1791年
キング・ジョージ・サウンドを発見


大航海物語
  イギリス★


ヴァンクーヴァー



エーアー


AUSTRALIA

オーストラリア 1986/4/1 発行

1791/9/28に西オーストラリアでサウンド(砂洲状の入江)を発見し、国王ジョージ3世にちなんでキング・ジョージ・サウンド(King George Sound)と名付けて上陸しました。ここには1801年にフリンダース船長がオーストラリア一周探検航海の途上に寄航して調査しました。キング・ジョージ・サウンドは西オーストラリア州オルバニー(Albany, Western Australia)から望見できるほどの近くにあります。

1791/11/2には、クック船長が1770/2/17に望見していたニュージーランド南島の南西端にあるフィヨルドで現フィヨルドランド国立公園内にあるダスキー・サウンド(Dusky Sound)に上陸調査して、11/21に出帆し、北西航路(North West passage)発見のため北へ転舵、ポリネシア方面へと向かいました。11/23にディスカヴァリー号で亜南極圏のスネアズ諸島(Snares)を発見し、船の航行が危険な場所と思えたのでスネアズ(snares=罠)と名付けました。チャタム号はタヒチ島への航海の途上にチャタム諸島(Chatham Islands)を発見して、11/26にポリネシアのタヒチ島に到着し、3日後にディスカヴァリー号が到着しました。タヒチ島で1789年のバウンティ号の反乱を聞いて厳正な規律をもって過ごした後、ハワイ諸島方面の探検に向かい出帆しました。12/21にタヒチ島から南南西に1126.3km(700miles)付近で現フランス領ポリネシアのトゥブアイ諸島ラパ島(Ile Rapa)を発見してオパロ島(Oparo)と命名。ハワイ諸島到着後はカメハメハ1世(Kamehameha)に大英帝国艦隊の実力を誇示して、冬季の補給を行い探検遠征航海を続けました。

参考HP:〜
 ・スネアズ諸島の地図
 ・チャタム諸島の地図







★ヴァンクーバー物語 序 章
第1章
第2章
第3章
・第4章
第5章
チャタム
エア隊長

第4章 カナダ沿岸航海
北米太平洋沿岸の探査
1792
バンクーバー島を島と確認


大航海物語
  イギリス★

ヴァンクーヴァー船長

カナダ 2007 発行
ESPANA
北アメリカ西海岸

スペイン 1967/10/12 発行



バンクーバー島

FIJI
太平洋と世界地図

フィジー 1997/4/12 発行

北アメリカ太平洋岸のヴァバンクーバー島付近は1791年にスペインのホセ・マリア・ナルバエス(Jose Maria Narvaez)船長がジョージア海峡(Strait of Georgia)を探検し、1792/4/29年にヴァンクーヴァーが島の西岸から、クィーン・シャーロット海峡(Queen Charllote Strait)に入り、ジョージア海峡、そして現在のシアトルのあたりまで到達。アニアン海峡は見つからずファン・デ・フーカ海峡(Strait of Juan de Fuca)を通過して、それまで湾だと思われていた所が海峡だったことを発見し、島がカナダ本土と切り離されていることを発見・確認したので、後にその島がバンクーバー島と名付けられました。

1792/4/16に北緯39度の現サンフランシスコ北方に達し、同年6月にジョージア海峡(Strait of Georgia、カナダのブリティッシュコロンビア州本土とバンクーバー島間にある延長240km(150マイル)の海峡)の「バーチ湾」(Birch Bay)と呼んだ所に投錨しました。6/12にボートを降ろして探検調査に向かわせ、6/13にワシントン州の「ロバート・ポイント」(Point Roberts)、カナダ・バンクーバー市西端の「グレイ・ポイント」(Point Grey)、ブリティッシュコロンビア州南西部の入り江を、バンクーバーは彼の友人であったハリー・バラード卿の名にちなんで「バラード入り江」(Burrard Inlet)と名付け、ハウ提督(Admiral Richard Howe 1726-1799)にちなんで名付けたカナダ側のフィヨルド状の「ハウ・サウンド」(Howe Sound)、ジャービス提督(Admiral John Jervis 1735-1823)にちなんで名付けられたカナダ側の「ジャービス入り江」(Jervis Inlet)などなどを発見し海図に記録しました。6/13にチャタム号はロバート・ポイント付近でスペイン探検隊と出会いました。

1792/6/21に悪天候と補給のため、ブロートン船長が出会っていたスペイン隊と合流するために、現バンクーバー市付近へと転舵しました。8月になるとダエダルス号(Daedalus)のハージェスト船長(Richard Hergest)がヌトカ・サウンドに来航してきました。そして、急派されて来たブリッグ型帆船ヴィーナス号(brig Venus)の船長が随伴する筈だった天文学者のオアフ島での非業の戦死を伝えて来ました。

8/11に南へと回航航海し、8/21にスペイン探検航海艦隊フリゲート艦(13-gun salutes Spanish frigate)乗船のボデガ・イ・クァドラ船長と出会い、ヴァンクーヴァーはイギリス代表として友好的に、スペイン代表のボデガ船長とヌートカ・サウンドで、その所有交渉を話合いました。しかし8/29に交渉は決裂し、それぞれの政府間交渉をロンドンかマドリッドで行うことを約して分かれました。その際にヌトカ付近を”クアドラ・ヴァンクーバー島”と名づけて、それぞれの海図に記入しました。1794/1/11にスペインが同島を放棄することで両国間での合意が成立し戦争は避けられました。(第3回ヌートカ・コンベンション)

1792/8/29に以前イングラハムも乗組んでいたアメリカのグレイ船長(Robert Gray 1755-1806)のスループ型帆船コロンビア・レッディヴィーヴァ号(Columbia Rediviva)がコロンビア川(Columbia River、カナダのブリティッシュコロンビア州及びアメリカ合衆国太平洋岸北西部を流れる川)にまで太平洋岸を北上して来たのに出会いました。

参考HP:〜
 ・コロンビア川の地図







★ヴァンクーバー物語 序 章
第1章
第2章
第3章
第4章
・第5章
チャタム
エア隊長

第5章 北西航路探査航海
北西航路(North West Passege)の探査
1794
シ ト カ


大航海物語
  イギリス★

ヴァンクーヴァー船長
ESPANA
アラスカ・シトカ
Sitka(San Elias)Alaska


スペイン 1976/3/1 発行

Norfolk Island
北太平洋方面の地図

カムチャッカ    アラスカ    ..
ノーフォーク 1978 発行

1793年には北緯59度のアラスカ(Alaska)まで到達して、冬季になったのでこれ以上の北上航海を断念して、スペイン領カリフォルニアを経由して、ハワイに戻りました。

1794/2/16にマッケンジー少尉候補生(Midshipman George McKenzie )がハワイ島マウナ・ロア火山 (Mauna Loa、4,169m)を登山して頂上を極めました。2/25にカメハメハ1世大王と会見し、ハワイの統治権をイギリスに譲る代わりに軍事援助する事を約し、大型ボートを建造したり、大砲(artillery)を提供しました。これにより、大王は1795/5に起こった戦いオアフ島南部ケララクアでの「ヌウアヌの戦い(Battle of Nu'uanu)」で近代兵器(muskets、cannon)を使用して勝利し、その後の戦いにも勝ってハワイを統一しました。

1794/3/15にハワイを出帆、北緯60度のアラスカ・シトカ(Sitka)北方のクック川調査を初めましたが天候は悪く風は氷のように冷たくなり、メジース号(Mezies)のクゥオーターデッキは凍りつき保管中の野菜を全部ダメにしてしまいました。従来通りにディスカバリー号とチャタム号は複雑な海岸の詳細な調査を行うために、ボートを外に出しました。ロシアの定住地でエスキモー族(Esquimo)やトリンキット族(Tlingit)と交易しながらの探検航海となりました。8/28にヌトカに着いてみると、クアドラ艦長が亡くなって、アルヴァ准将(Don Jose Alava)がヌトカの総督になっていましたが、スペインや原住民マッキナ酋長(Maquinna)と友好的に過ごしました。10/6に太平洋岸のモントレー湾(現カリフォルニア州モントレー郡)のモントレー港(Monterey)を出帆し、ダエデラス号(Daedelus)はイギリスへ戻りました。11/6にディスカヴァリー号はモントレー港に入港し、ヨーロッパからの情報を待ちました。12/2に出帆、12/17にマリア諸島(Tres Maria Islands)に着き、探検調査して、クリスマスは海上で迎えました。

1795年に入ると、帰国の途につき、ココス島ガラパゴス島ファン・フェルナンデス諸島を経由して航海しましたが、乗組員が壊血病(scurvy)を患い始めましたので、3/25にチリの首都サンチャゴ近くのヴァルパライソ港(Valparaiso)に入港して、スペインの助けを借りて休養・補給・修理のため5週間ほど滞在し、アイルランド生まれのスペイン・チリ総督オーヒギンズ(Don Ambrosio O'Higgins de Vallenar 1720-1801)を首都サンチャゴに表敬訪問して歓迎されました。1795/5/5にディスカヴァリー号とチャタム号はヴァルパライソを出帆し、セント・ヘレナ島へと向かいましたが、嵐で両船は共に相手の姿を見失いました。南半球の冬の始まりで、チリ海岸のそれ以上の調査を不可能にし、嵐に翻弄されるいたましい船の状態では、ホーン岬の回航は危険でさえありました。それでもなお、バンクーバーは以前に南緯46.40に有ると報告されていたグランデ島(Isla Grande)を捜し求めるのに多くの時間費やしましたが、その島は実在しないと確信しました。この頃、ブロートン船長はプロヴィデンス号(HMS Providence)でヴァンクーヴァーの太平洋の探検航海の支援のためにイギリス・プリマス港を出帆し、太平洋を探検中にキリバスのカロライン島(Caroline Atoll)を発見しました。

1795/7/2にディスカヴァリー号とチャタム号はセント・ヘレナ島に到着し、イギリスとオランダとが戦争(French Revolutionary Wars 1792-1802)していることを知りました。嵐で痛めつけられていた両船はオランダに拿捕されました。ヴェルデ岬諸島でディスカヴァリー号は第3等戦列艦セプター号(HMS Sceptre 64 gun third rate ship of the line)に救出されました。そして1795/10/20にイギリスに無事に帰港(Shannon)しましたが、北西航路の発見にはいたりませんでした。

・その後:〜:
1798年に41才という若さでヴァンクーヴァーは亡くなり、南イングランド・テームス河リッチモンドのピーターシャム(Petersham, Surrey)聖ピータース教会墓地に葬られました。

参考:〜
ブリッグ型帆船 チャタム号 の装備
  (Brig, HMS Chatham 135t 4guns, 1788)
総トン数 133屯
全  長 24.4m
全  幅 6.7m
備  砲 3ポンド砲4門、スィベル旋回砲6門
乗組員数 45人
進  水 1788、英ドーヴァー(Dover)
最  後 1830、売却
メ  モ 調査船(Survey Brig)
※チャタム号は1791/4/1に出帆、1794/10/17にイギリスに帰港後に修理のためドック入りしたという記録が有ります。ブロートン船長は1793年にプロヴィデンス号に乗り換えて、ヴァンクーヴァー探検隊支援にイギリスを出帆後、北東アジアを探検航海し、北海道の海岸を調査してマカオへ行き小型帆船(small schooner)を購入しました。アジア探検中の1797年にプロヴィデンス号が沖縄の宮古島で難破したので、小型帆船に乗り移って北東アジアを探検航海して1799/2月にイギリスに帰港しました。

・エドワード・ジョン・エーア
 Edward John Eyre (1815/8/5〜1901/11/30)

エドワード・エーアは1840〜1841に西オーストラリアの南海岸をアデレードからオルバニーまで歩いて3218km(2000miles)踏破したイギリスの探検家で、オーストラリアに南北エーア湖(Lake Eyre)、エーア半島(Eyre Peninsula,)、エーア・クリーク(Eyre Creek)、エーア道路(Eyre Highway =the main highway from South Australia to Western Australia)、ニュージーランドにエーア村、ニュージランドの西エーア町(villages of Eyreton、West Eyreton in Canterbury, New Zealand)などに彼にちなんで名前が付けられています。
ヴァンクーヴァー

エーア
オーストラリア 1986 発行

Stamp Show - CAPEX '87
第3回国際切手展カナダ開催記念
ポリネシア人 ポリネシア人
CAPEX '87:Canada Philatelic Exhibition 1987
カナダ第3回国際切手展トロント開催(6/13-6/21)
自治領カナダ120周年記念
カナダ郵趣協会100周年記念

120th anniversary of Canada`s Confederation
100th anniversary of Royal Philatelic Society of Canada
フランス領ポリネシア 1987/6/15 発行

参考HP:〜
バンクーバー島の地図
キング・ジョージ・サウンドの地図
オルバニーの地図
ハウ・サウンドの地図

こちらで世界遺産
ピラミッドエジプト
パルテノン神殿ギリシャ
姫路城 (日本
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0117 08/8/8、10/11/11、令和 R.3/2/6 (2021)
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