United Kingdom

国連 1983 発行
大航海と病気 (Voyage & Sick)
ジェンナー
1798、Smallpox Vaccine
天然痘ワクチン(種痘)の開発に成功


大航海物語
  資料編
LIBERIA


WHOマーク→


←ジェンナー
WHO(世界保健機構)25年記念
リベリア 1973/6/26 発行

ジェンナーは1798年に天然痘ワクチンの開発に成功して、それまで大流行していた天然痘の撲滅に貢献しました。1980/5/8にWHOは天然痘の根絶宣言をして、現在は天然痘は世界から姿を消しました。ジェンナーは「現代免疫学の父」と呼ばれています。
エドワード・ジェンナー
 Edward Jenner (1749/5/17〜1823/1/26)
ジェンナーはは田舎の開業医をしていました。その頃のイギリスでは天然痘が度々流行しました。これに対する予防法として、18世紀初頭に天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人間に接種するという方法がアラブ世界からもたらされました。ところが、この予防法では接種を受けた者の2パーセントは重症化して死亡するなど、危険を伴うものでした。

ジェンナーが医師として活動していた頃には、牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないという事実が知られていました。天然痘に比べると、牛痘ははるかに安全な病気でした。ジェンナーはこれが天然痘の予防に使えないかと、1778年から18年にわたって研究を続け、1796/5/14にジェームズ・フィップス(James Phipps)という8才の少年に牛痘を接種すると、少年は牛痘にかかり、6週間後に回復しました。その後、ジェンナーは少年に天然痘を接種しましたが、少年は天然痘にはかからりませんでした。ジェンナーは1798年にこれを発表しました。なお、最初に種痘をしたのはジェンナーの子供だったという説もあります。

その後、種痘法はヨーロッパ中にひろまり1802年、イギリス議会より賞金がジェンナーに贈られましたが医学界はこの名誉をなかなか認めませんでした。しかしその後の天然痘の大流行を機にジェンナーの種痘法は急速に普及し、彼は「近代免疫学の父」と呼ばれるようになりました。

天然痘ワクチンは改良されて世界で使われ、1980年には天然痘が世界から根絶されました。






大航海物語
天然痘、(疱瘡) と
Smallpox

フレンチ・インディアン戦争
参考資料
ESPAN

1805 天然痘ワクチン急派隊200年記念 2005
スペイン 2005 発行

NATIONS UNIES
天然痘の根絶
天然痘の根絶記念
(Eradication of Smallpox)

国連 1978 発行
1980/5/8、WHOは地球上からの天然痘根絶を宣言
・天然痘
  Smallpox

天然痘は高い死亡率と、治癒しても瘢痕を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症です。天然痘で死亡したと確認されている最古の患者はエジプト王朝のラムセス五世です。フレンチ・インディアン戦争(1755〜1763)で、イギリス軍が天然痘を生物兵器としてインディアン殲滅に使用しました。この戦争で、世界で初めて天然痘ウイルスがイギリス軍によって生物兵器として使用されました。インディアン(チェロキー族など)へ配布する毛布に、天然痘ウイルスを植え付けるという方法によるものでした。1798年にエドワード・ジェンナーが天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していき、1980/5/8にWHOは根絶宣言を行いました。天然痘ウイルスは現在、ロシアとアメリカのレベル4施設で厳重に管理されています。天然痘は人類が根絶した感染症として唯一のものなのです。

・フレンチ・インディアン戦争
 (英:French and Indian War, 1755〜1763)
 英仏の北米大陸争奪戦
フレンチ・インディアン戦争は、欧州の七年戦争(1756年 - 1763年)に呼応して英仏間で争われた北米大陸での植民地戦争。インディアンと同盟を結んだフランス軍を相手にイギリス人が戦ったところからこういわれています。従来の英仏間で起こった戦争が欧州から植民地へと波及したのとは異なり、この戦争は、欧州の戦争にさきだって植民地で衝突が起こったことで始まりました。戦況は一進一退でしたが、後半に入って本国から応援部隊が到着した英側が有利となり、1760年に仏側が降伏して戦闘は終了。この戦争の結果、第2次百年戦争と呼ばれた英仏間の植民地獲得競争においてイギリスの優位がほぼ固まり、敗れたフランスは1763年のパリ条約の結果、北米大陸からほぼ全面的に撤退することとなりました。
世界地図・北米大陸

カナダ 1983 発行

農地を西方に広げようとするイギリス勢力と、毛皮の交易路を拡大しようとするフランス勢力(フランス領カナダ、ヌーベルフランス)がオハイオ川流域で衝突。1754年夏にフランス勢力とヴァージニア民兵隊の間で小競り合いがはじまり、1755/6に北米沖で英艦隊が仏艦隊を拿捕したことにより決定的な争いとなりました。同年7月オハイオ川流域のデュケーヌ砦(デュケイン砦、現在のピッツバーグ)を目指すブラドック将軍率いる英軍が、待ち伏せたフランス軍とインディアンの連合軍によって壊滅させられました。これによって当初はフランス軍に有利な展開となりました。しかし1756/7に欧州で七年戦争が起こると、1757/6に英本国で第一大蔵卿デボンシァ公のもとチャタム伯(大ピット)が国務大臣に就任して体制を建て直し、反撃に出ました。1758年にはセントローレンス湾の入り口を押さえるフランス領のルイブール要塞(現在のノヴァスコシア州ルイスバーグ)が陥落し、オハイオ川流域のデュケーヌ砦もイギリス軍に占領されました。ニューヨークからヌーベルフランスの首府ケベック・シティを目指したウルフ将軍率いる英軍は、迎撃したカナダ軍総司令官モンカルム侯率いる仏軍とアブラハム平原で激突し、両将軍とも戦死したが、三ヵ月におよぶ攻防のすえ1759/9/18にはケベック・シティが陥落してフランス側の大敗に決しました。1760年にはモントリオールも陥落してフランスが降伏し、フランス領カナダの拠点はすべて壊滅して全戦闘は終了しました。

1763/2/10に調印されたパリ条約でフランスはカナダを、スペインはフロリダを正式にイギリスに割譲し、また、フランスは仏領ルイジアナのうちミシシッピ川以西を同盟国スペインの労に報いるため割譲、さらに同川以東のルイジアナは戦勝国イギリスに割譲しました。ここに北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わりを告げました。 なお、パリ条約締結後、カナダ東部のアカディア地方を追われたフランス系住民にはニューオーリンズ一帯に移住した者が多く、独自のケイジャン文化を育てました。また、カナダに隣接するメイン州(1820年にマサチューセッツ州より分離)北部のセント・ジョン渓谷に移り住んだ者もいました。こののちカナダはイギリス領となったものの、そこに住むフランス系カナダ人は、民族的自覚を発展させ、イギリス帝国の支配に対する抵抗は続きました。イギリスはパリ条約でミシシッピ川以東のルイジアナ地方を獲得したが、1763年にイギリス王ジョージ3世は新たに英領となったルイジアナを英国の直轄地として、アパラチア山脈に設けられた国王宣言線よりも西側に13植民地の人々が入植することを禁止しました。ビーバー戦争へ。2007/11/11

・天然痘ワクチン急派隊
スペイ王カルロス4世(Carlos IV, 1748 -1819在位:1788-1808)は1803年娘のマリーア・ルイーザ(Maria Luisa, Duchess of Lucca, 1782-1824)が天然痘に感染すると、王は医師のフランシスコ・デ・バルミスに国費でスペイン植民地にワクチンを運ぶよう指示しました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。  令和 R.2:2020/7/20 追記       

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