United Kingdom

国連 1983 発行
 切手で綴る 海軍大航海 (Naval Voyage)
ジョージ・コックバーン提督
War of 1812 & Napoleonic Wars
ワシントンDCを焼討ち、1814
ナポレオンを孤島へ輸送、1815
大航海物語
 イギリス編

ACENSION ISLAND
ジョージ・コックバーン提督

アセンション島 1988/2/20 発行

DOMINICA
1782年当時の3層甲板軍艦

英領ドミニカ 1976 発行
MONTSERRAT
第1次サンヴィセンテ岬沖の海戦

モントセラット 1992 発行 (小型シート)
イベリア半島
US POSTAGE
ワシントンDCの焼打ち

セヴァーン川(Severn River)河口
アメリカ 1949 発行







St.Helena
ナポレオンが島流しにされた
セントヘレナ古地図、1817


セントヘレナ島
セント・ヘレナ 1981 発行








St.Helena

セント・ヘレナ 1991 発行

PORTUGAL
ポルトガル最南端
サンヴィセンテ岬→
S.Vicente 
 .
←サグレス岬
 Sagres


アルカルヴェ州
1460 エンリケ航海王子没後500年記念 1960
ポルトガル 1960 発行

コックバーン提督はナポレオン戦争中のスペイン派遣艦隊、新大陸派遣艦隊の第2次米英戦争でのチェサピーク湾封鎖・ワシントンDCの焼討ち・通商破壊作戦などで活躍して、バス勲章を受章し、ナポレオンのセントヘレナ島輸送作戦の指揮を執って成功しました。
サー・ジョージ・コックバーン提督
 (Sir George Cockburn, 10th Baronet, 1772/4/22〜1853/8/19)
準男爵。
コックバーン提督は準男爵ジェームス・コックバーン卿(Sir James Cockburn, 8th Baronet 1729-1804)の次男としてロンドンで生まれ、14才で海に出て、間もなく海軍に入隊しました。やがてスループ型帆船、フリーゲート艦、戦艦へと乗組んでゆきました。基地隊勤務から、西インド艦隊勤務をへて、地中海艦隊勤務となり、1769年には艦長としてミネルヴァ号(Minerve 38砲搭載)に乗組み、イタリアのレホルノ(Leghorn)を封鎖し、スペイン・フリゲート艦サビーニャ号(Sabina 40砲搭載)とあいまみえて戦いました。1797年にはポルトガルのザグレス州サンヴィセンテ岬沖でフリゲート艦ミネルヴァ号(HMS Minerve Fifth-rate frigate, 38guns)に艦長として乗艦してサン・ビセンテ岬の海戦(Battle of Cape St. Vincent 1797/2/14第1次)をスペイン艦隊と闘い、勝利しました。1809年にはマルチニーク島の戦いで上陸して海岸戦の指揮官として活躍し、イギリス占領文書にサインしました。オランダのスヘルデ川(Scheldt River, 350km)作戦勤務の後、1811年スペイン・カディズに、アメリカ植民地でのスペインとの和解のために派遣されました。1812年に海軍少将(rear admiral)に昇進して、ナポレオン戦争(Napoleonic Wars、1803-1815)中の主力艦隊であるスペイン方面艦隊の司令官になりました。その他の艦隊はヨーロッパの海上封鎖に従事していました。

第2次アメリカ独立戦争(米英戦争War of 1812 、1812/6/18-1815/2/18)では、1814/3の終わりまでウォーレン提督(John Borlase Warren)の副司令官を務めました。その後は戦争終結まで、ウォーレン提督の後継者コチレーン提督(Sir Alexander Forrester Inglis Cochrane GCB RN)の副司令官を務め、チェサピーク湾を巡航し、また一方では1813〜1814年の間、大西洋岸のアメリカの港を襲っては通商破壊海戦を実施して、チェサピーク湾を封鎖しました。1814/8/24にはワシントンDCの焼き打ち作戦を実施しました。1815年のはじめにバス勲章を受賞し、終戦後にヨーロッパに戻ると直ぐに、ナポレオンを絶海の孤島セントヘレナ島のノーザバランドに運ぶ任務を命じられ成功し、ナポレオンは島から一歩も外へ出ることもできずにそこで生涯を終えました。

その後、北アメリカ派遣艦隊の総司令官になりました。1827年には枢密顧問官(Privy Counsellor)になり、その後は各地のトーリー党(Tory)議員(ポーツマス 1818-1820, Weobly 1820-1828, プリマス 1828-1832, Ripon 1841-1847)に選出されました。海軍長官(First Sea Lord)に3回(1828-1830; 1834-1835; 1841-1846)なり、1852年には難破船員共済会の総裁を勤め、81才でイギリスで亡くなりました。
エピソード:=:〜:
ホワイトハウス:〜
第2次アメリカ独立戦争では、1814年にイギリス海軍に輸送されたイギリス陸軍がアメリカの首都の直接攻略のためアメリカ東海岸に上陸し、コックバーン提督は1814/8/24にワシントンDCの焼き打ち作戦を実施しました。首都ワシントンD.C.は陥落、大統領官邸のホワイトハウスも焼けてしまいました。

戦後にホワイトハウスを改修するときに、そのときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことから、大統領官邸はホワイト・ハウス(White House)と呼ばれるようになりました。
ホワイトハウス

USA 1950/4/20 発行
ホワイトハウス200年記念

USA 2000/10/18 発行
・国歌:「星条旗よ永遠なれ!」:〜また、この戦争で最も熾烈な戦いといわれるのが1814/9/13の「マックヘンリー要塞の戦い」でした。アメリカ兵は独立戦争時に作られたメリーランド州ボルチモアのマックヘンリー要塞(フォートマクヘンリー)に立てこもって戦いました。当時のボルチモアはアメリカ私略船の根拠地でした。それに対しチェサピーク湾に侵入したイギリス艦隊は間断ない艦砲射撃を加えました。彼らは25時間に及ぶ激戦にたえ、停戦後にも風になびく星条旗は伝説となりました。これを見たフランシス・スコット・キー(Francis Scott Key, 1779-1843)は星条旗を称える詩を作詞し、後にメロディがつけられて現在のアメリカ国歌となりました。 キー、1814&1948星条旗

USA 1950/4/20 発行 1948/8/9 発行

コンスティテューション号(USS Constitution):〜:性能諸元:〜
 艦 型: アメリカ海軍フリゲート艦(USS FRIGATE)
 進 水: 1797/10/10、就役: 1797/10/21
 排水量:2,200トン
 全 長:62 m (204 ft)
 全 幅:13.3 m (43,5 ft)
 吃 水:4.4 m (14.31 ft)
 機 関:帆走(3本マスト、全横帆)、最大速: 13 ノット(24 km/h)
 乗 員:士官、兵員 450人
コンスティテューション号200年

USA 1947/10/21 発行
 兵 装:24ポンド(11kg)長砲30門、32ポンド(15kg)カロネード砲20門、4ポンド(11kg)船首砲2門
 ニックネーム:オールド・アイアンサイズ(Old Ironsides)。

参考地図HP:〜
レホルノ(イタリア、黄の印)
レホルノ海(イタリア付近の地図)
スヘルデ川 (フランス北部、ベルギー西部、オランダ南西部を流れて北海に流入)
チェサピーク湾(左の細長い湾、人工衛星からの写真)
チェサピーク湾の場所地図(Whisington DC, Arlinton, Baltimoreなど有)
ワシントンDCの場所地図(赤の印)
マルチニークの場所地図(赤の印)
ボルチモアの場所地図(赤の印)

こちらで世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。  2007/11/15追記、令和 R.2/11/20 (2020)
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