★イギリス |
サー・ジョージ・ナレス船長 1872〜1874 チャレンジャー号の冒険 |
大航海物語★ |
Gambia 防寒装備のナレス船長とチャレンジャー号 Capt. George Nares, by Stephen Pearle 1877 ロンドンの美術館ナショナル・ギャラリー別館、ポートレイト専門の美術館 ナショナル・ポートレート・ギャラリー(National Portrait Gallery)所蔵肖像画 ガンビア 2000/10/2 発行 |
Tristan da Cunha | |
チャレンジャー号、1874 |
チャレンジャー号の航海地図 |
科学調査船チャレンジャー号の研究室 1874 チャレンジャー号の寄港100年記念 1974 Challenger Expedition、1872-76 トリスタンダクーニャ 1974 発行 |
SWEDEN 南極の地図 スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより |
英国ウェールズのモンマスシャー州生れのナレス船長は15才でイギリス海軍に入隊、18才で航海士となってオーストラリに派遣され、20才で帰国。ポーツマスの海軍学校でジョン・フランクリン捜索隊参加を勧められ、海軍士官学校卒業後に2等航海士となって、北極の捜索探検航海にレゾリュート号で参加しました。34才でサラマンダー号艦長に就任して、シドニーとヨーク半島ナレスの航路に就航しながら、オーストラリア東岸の探査を実施しました。その後、地中海に派遣されて、開通したばかりのスエズ運河通過の一番のりを果たしました。1872-76の間はチャレンジャー号探検隊を指揮し、1875-76の間はイギリス北極探検隊を指揮しました。 |
サー・ジョージ・ストロング・ナレス提督 (1831/4/24〜1915/1/15) Vice-Admiral Sir George Strong Nares, KCB FRS 英国海軍中将、バス勲章受賞者(KCB)、王立協会(科学協会)フェロー(会員:FRS) 北極探検家(Arctic explorer)、貿易庁(Board of Trade)職員 生地:ウェールズのモンマスシャー州ランセンセルド生 没地:サリー州ロンドン南西部キングストン・アポン・テームス、83才没 ナレス船長はモンマス・アバーガヴェニー近郷のランセンセルド(Llansenseld, Abergavenny, Monmouthshire)で、父ウィリム・ナレス大佐(Capt. William Henry Nares、Commander RN 1789-1867)と母スーザン(Susan Nares)の5人兄弟の3男として生まれ、姉3人がいました。 王立海軍学校(Royal Naval School)を卒業後、1845年にイギリス海軍(Royal Navy)に入隊して、1798/8月にネルソン提督の「ナイルの海戦」(Battle of the Nile)でフランスから拿捕した84門三等戦列艦カノーパス号(84-gun 3-rate ship of the line HMS Canopus 1798/3、2,258t)に士官候補生(midshipman)として乗組。1848年にオーストラリア基地(Australian station)で36門五等フリゲート艦ハヴァナ号(36-gun 5-rate frigate HMS Havannah 1811, 948t)に航海士(mate)として乗組。1851年にハヴァナ号と共に帰国して、ポーツマスの海軍学校(Royal Naval College, Portsmouth)に入学。そして提督ジョージ・リチャード卿(Admiral Sir George Henry Richards, KCB FRS 1820-1896)に出会い、イギリスの海軍将校でカナダ北極圏の北西航路を開拓する探検の途上で行方を絶ったジョン・フランクリン卿(Sir John Franklin, 1786-1847)の搜索に出発する提督エドワード・ベルチャー卿(Admiral Sir Edward Belcher, KCB, 1799-1877)のレゾリュート号捜索隊に参加するよう助言を受けました。1852年には士官試験(Lieutenant's exam)に合格しました。 ▼ジョージ・ナレス船長の探検大航海:〜 ・1852-1854〜レゾリュート号での北極捜索探検航海(Resolute Arctic Expedition)に参加 ・1872-1874〜チャレンジャー号探検隊(Challenger Expedition)の船長 ・1875-1876〜イギリス北極探検隊(British Arctic Expedition)の司令官
1858/6/22にポーツマスの銀行家の長女メアリー・グラント(Mary Grant)と結婚し、息子4人と娘6人に恵まれました。息子のジョージ・エドワード大佐(lieutenant George Edward Nares, 1905没)とジョン・ドット中将(vice-admiral John Dodd Nares, 1957没)の2人は海軍に入隊しました。 その後、士官候補生(Cadet)の訓練担当官(Cadet instructor)として、3等戦列艦イラストリアス号(74gun 3-rate ship of the line HMS Illustrious, 1803, 1,746t)に乗組。1859年からは120門1等戦列艦ブリタニア号(120gun 1-rate ship of the line HMS Britannia 1820, 2,616t)乗組。その間に士官候補生ガイドブック(The Naval Cadet's Guide)を出版。それがシーマンシップ(Seamanship)として再販されてベストセラーになりました。1862年に海軍中佐(commander)に昇進。1863/9月に練習艦70門三等戦列艦ボスカウェン号(70gun 3-rate ship of the line training ship HMS Boscawen, 1844, 2,048t)乗組。
▼チャレンジャー号探検航海 Challenger expedition 1872-1876 チャレンジャー号の冒険をこちらでお楽しみください。
▼その後 1878年にアラート号の船長でマゼラン海峡の探査を命ぜられ実施。1879/3/11に船を降りて、1879年から1896年まで枢密院(Privy Council)商務省(Board of Trade)で勤務しました。1896年にイングランド北西部を流れ、水源の大マンチェスター州ストックポート(Stockport)から河口のマージーサイド州のリヴァプールで海に注ぐ全長112kmのマージー川(River Mersey)の監督官(Acting Conservator)を務め、その間に海軍を退官ました。1886/4/24に2度目の退官で予備役(retired list)入りとなりました。1887年に海軍少将(rear-admiral)、1892年に海軍中将(vice-admiral)に昇進。 1905年に夫人が亡くなりました。ナレス船長はイングランドの南東部に位置するカウンティで、ロンドン近郊のホーム・カウンティの一つサリー州(the county of Surrey, Surrey county)キングストン・アポン・テームズ(Kingston upon Thames, Surrey)で亡くなりました。 1964年にデンマークとカナダの両政府がカナダ北極の其の海峡(the waters between North Greenland and Ellesmere Island)は現在ナレス海峡(Nares Strait)と名付けることに合意し、デンマークはその地区をナレスランド(Naresland)と呼びました。1883年にアメリカ陸軍士官のシャワトカ(Lt F Schwatka)がエルズミーア島にナレス岬(Nares Cape)とナレス山(Nares Mountain)、カナダのユーコンにナレス湖(Nares lake, in Yukon)と名付けました。また、オンタリオ州ジョージア湾のナレス入江(Nares Inlet, Georgian Bay, Ontario)、パプアニューギニアのマナウス島のナレス・ハーバー(Nares Harbour, Manus Island, Papua New Guinea)、クィーンズランドのナレス地区(Nares County, North Queensland)などが彼に因んで名付けられています。 ・ナレス船長の略年表:〜
参考HP:〜 ・ヨーク半島の地図(オーストラリアの最北端に有) ・カウンティ・オブ・ナレスの場所地図(オーストラリアのヨーク半島に有) ・チャレンジャー号の航海地図 ・エルズミーア島の場所地図(カナダさ北部) ・ナレス海峡の場所地図 ・リンカーン海の場所地図(グリーンランド、ナレス海峡、エルズミーア島が有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/6/13 |