United Kingdom

国連 1983 発行
United Kingdom of Great Britain and Northern Irelan
(T)イギリス人の海外進出とイギリス海軍
Great Voyage of Britain
大航海物語
 イギリス編

ヘンリー8世
(Henry VIII

Mary Rose
メアリー・ローズ号
ブレーク提督
(Admiral Blake)

Triumph
トライアンフ号
ネルソン提督
(Lord Nelson)

HMS Victory
ヴィクトリ−号
イギリス 1982 発行
イギリスの切手は世界最初の創始(1840)なので
国名は無く、国王の肖像が有。


イギリス輸送船の推移エリザベス・ガレオン船Elizabethan Galleon
16世紀頃 17世紀頃 18世紀頃
イギリス 1969/1/15 発行






 大英帝国海軍Royal Navy
女王の戦艦H.M.S.
Her Majesty's Ship

English Two Decker

1600年代当時の2層甲板軍艦
砲列甲板が2重構造
セント・クリストファー・ネヴィス・アンギラ 1970 発行
English Three Decker

1782年当時の3層甲板軍艦
砲列甲板が3重構造

ドミニカ 1976 発行

・イギリス人の海外進出とイギリス海軍
イギリス人の海外進出はイングランド国王ヘンリー7世による1497年ジョン・カボットの北西航路探検によって、ニューファウンドランドの発見がありましたが、ニューファウンドランドでの収穫がそれほどでもなかったことから、手っ取り早く先発国のポルトガル船やスペイン船からの掠奪へとはしり、国王が一般の船に掠奪許可を与えた「私掠船」を繰り出しました。

海軍の最終目的は海上覇権の獲得による自国領土の防衛と自国海運の保護にあります。海運にかかわる海軍の任務はシーレーン(海商路)の維持・確保であり、敵国船を撃破、拿捕、制圧して、自国船舶を守ることです。ところが広い海の上では多数の軍艦を常時かつ広範囲に配置できるものではなかったのです。そこで、商船が軍艦の役目を引き受けてくれることにこしたことはありません。商船が自衛のために大砲などで武装したり、兵隊を乗せたりしました。それらの船で先発海運国に対して海賊を仕掛けました。それらは掠奪商品・拿捕船を母国へ持ち帰りましたので、「私掠船」と呼ばれて、本当の海賊とは区別されました。

イギリス海軍、すなわち王立武装船隊(Royal Navy, イギリス海軍=Loyal Navy:忠義な海軍)はヘンリ8世が創立したとされますが、それでも、海軍委員会の設置で、国王が海軍を編成する手段を獲得したにすぎません。王様の船は僅かしかなく、一般の船を戦争のたびに集めて編制されました。11世紀にシニックと指定された港(Cinique Ports)から船舶を集めて、ウィリアム2世が第1回の十字軍の遠征(1095)を行いました。なお、大規模に「シニック」を利用したのは獅子王リチャード1世の第3回十字軍の遠征(1189)が最初の説も有りますが、国王も徐々に船の隻数を増やしました。スペインなどと違い国王の財力が少なかったので、例えば、エリザベス1世朝の「スペインとの海戦」時は、そのほとんどのイギリス船が私掠船による寄せ集め艦隊でした。スペインの船は大型で船足が遅く鈍重でしたが、イギリスの船は小型ながら快速、操船術が巧みで軽快に走り回ることが出来ました。そのため、アルマダの海戦ではスペイン128隻に対しイギリス197隻とイギリスの方が多い船数だったと伝えられています。

また砲術の改良により、片舷一斉射撃が可能となっていました。砲列甲板が2層3層になる船もあり、そのため船内は人口過密となり乗組員は砲列甲板にごろ寝の状況でした。しかも火災予防のため「わらのマット」も禁止されていました。カリブ海方面で使用されていたハンモックは、ずっと時代が下ってから船内に取り入れられ、軍艦では16世紀末頃から使用され始め、17世紀中頃になると広範囲に普及してゆきました。商船ではもっと遅れました。

帆船時代の大部分は戦死は僅かで、病死(壊血病)がほとんど、一航海で半数以上の船員が死んだと伝えられています。ネルソン提督は出帆前に大量のオレンジジュースを積み込んで病気に備え、よく乗組員を把握していましたので、人望も厚かったのです。キャップ・テンクックは大量の塩漬けキャベツ(ザワークラウト(sauerkraut)キャベツの漬物)を積み込んでいました。

エリザベス1世朝頃の海運は、三角貿易(アフリカの黒人奴隷をアメリカに運び、アメリカの産物(砂糖・タバコ綿・他)をヨーロッパへ運び、ヨーロッパからは綿織物などの工業製品を、アメリカやアジアへ運ぶ)により、急成長しました。エリザベス1世朝の終わり頃からは、イギリス海運が急膨張を遂げ、イギリス人の新大陸への移住も始まり、それとともに王立海軍も増強されました。常設の艦隊と給料取りの艦長が多数誕生したわけです。

・参考:〜イギリス(歴代国王と歴史記事年表)






シニック港
Cinique Ports

SVERIGE
木材の海上輸送


(Timber Rafting Tugboat
スウェーデン 1976 発行
ポーランドの木材が造船のためにバルト海から北海をへて、イギリスへ輸送されました。

・シニック港
 (仏:Cinique Ports、英:Five Ports)
 (王命の指定5港)
シニック港連合(Confederation of Sinique Port)は、ケント州(Kent)、サセックス州(Sussex)、エセックス州(Essex)の海岸沿いの町の歴史的な港で、もともとは軍事および貿易目的で設立されるも、現在はドーバー港以外は小港です。港はイギリス海峡の東端にあり、大陸との間隔が最も狭くなっています。名前のシニック港は「5つの港」を意味するフランスのノルマン語です。
それらは、
@ヘイスティングス港(Hastings, East Sussex)、サセックス州
Aロムニー港(現ニュー・ロムニー:New Romney, Kent)、ケント州
Bハイズ港(Hythe, Kent)、ケント州
Cドーバー港(Dover District, Kent)、ケント州
Dサンドイッチ港(Sandwiche, Kent)、ケント州、の5港が最初のシニック港。
後に追加された2港
Fウィンチェルシー港(Winchelsea, East Sussex)、サセックス州
Gライ港(Rye, East Sussex)、サセックス州。

11世紀、エドワード懺悔王は自ら艦隊を維持するのではなく、イギリス海峡の特定港が必要なときに所定数の船を用意することを義務づけ、その見返りとして特権を与えるという方法で、自ら艦隊を維持するのと同様な効果を得ようと考えました。それらの港は「シニック港」と呼ばれ、13世紀中、絶頂に達しました。それらの港は、自らの費用で、国王に、成人21人、少年1人が乗り組む157隻を、それぞれ年間15日を提供することになっていました。1244年には、最初の幾つかの船員病院がサンドウィッチに設置されました。

でも、海路保持を契約のなかに入れたため、すぐさま防衛の目的も果たせないことが解りました。ノルマン人の征服後、シニック港が供給できる以上の大船隊を要求された最初の事件は、1189年のリチャード一世の十字軍の遠征です。その艦隊は100隻以上となり、船はイングランド、フランスのノルマンディー(Normandy)や、ポァトゥー地方(Poitou,フランス王国(Kingdom of France, 987-1792&1814-1848)の州,領域は現ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ヴァンデ県(Vandee, Pays de la Loire),ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ドゥー=セーヴル県(Deux-Sevres, Nouvelle-Aquitaine),ヴィエンヌ県(Vienne, Nouvelle-Aquitaine),シャラント県(Charente, Nouvelle-Aquitaine)北部まで及ぶ,首都(Poitiers, Vienne)ヴィエンヌ県ポワティエ)、の全ての港で買船あるいは用船されたものでした。

次の世紀になると、国王は何隻かのガレー船(Galley)を所有するようになり、そのほとんどが商船としても使えるように幅広となっていたし、さらにその後半になると機会さえあれば、すぐに船を用船に出すようになりました。例えば、1232年ジョン・ブランコビリー(John Brancobilly)は王室船クイーン号(English ship Queen, 1225)の使用に対して、国王に年間50ドイツマルクを支払い、その船を良好な状態に保つことを条件として、かれが望むところに出掛けて交易していたといわれています。1297年、エドワード一世は艦隊を305隻に引き上げました。その要員は5,800人であったと記録されています。

14世紀半ばまでに、ほとんどのシニック港が沈泥で埋まってしまったので、国王は自分の船を40隻あるいは50隻を、世界遺産ロンドン塔(Tower of London)からそれほど遠くない、テムズ川南岸のロザーハイズ(Rotherhithe, London)や同北岸のラトクリフ(Ratcliff)に保持するようになりましたが、それでもって海上での作戦あるいは中隊の移動に当たって決して十分ではなく、イングランド人船員の強制徴発(Impressment)や外国人の雇用は避けられませんでした。1347年、百年戦争(Hundred Years' War, 1337/5/24-1453/10/19)に入って10年目、エドワード三世はエドワード一世時代の2倍に及ぶ738隻と約15,000人を徴用しました。百年戦争期間中、商船が海軍の中核となりましたが、船員徴発、商船の自由航行の禁止、そして不十分な補償は、全て通常の交易や利益を破壊するものでしたので、いつも不満が囁かれていました。

※ライ港は、もともとロムニーの付属港でしたが、1287年の激しい嵐でロムニー港が被害を受けた後、シニック港の1つになりました。その後、ロムニー港はロザー川の沈泥で浅くなり、14-15世紀に急速に重要性を失いました。

参考HP〜
シニック港の場所地図

こちらで
(0)序章 ウィリアム1世
リチャード1世
  ・十字軍
(I)イギリス ヘンリー8世
エリザベス1世
ジェームス1世
(II)初期大航海
(III)私掠船団
(IV)殖民大航海
(V)探検大航海
(VI)南極探検
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.2/11/11(2020)追記        
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(I)
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