United Kingdom 国連 1983 発行 |
切手で綴る オーストラリアの探検 (Explore
Australia)
ジョージ・バス船長 1798 バス海峡を発見 |
大航海物語 イギリス編★ |
AUSTRALIA オーストラリア 1963-65 発行 |
トムサム号の同型船? ノーフォーク島 1987-88 発行 |
アムピトリーテ Amphitrite オーストラリアとタスマニア島との間の 海底ケーブル開通記念 オーストラリア 1936/4/1 発行 |
オーストラリアの地図 | |
ノーザンテリトリー(北部準州) | |||
←クィーンズランド ←ニューサウスウェールス ←ヴィクトリア ←タスマニア |
|||
サウスオーストラリア州、 ヴィクトリア州 オランダ 1988/8/30 発行 |
|
ボタニー湾の地図 フィリップ提督(青服)とラ・ペルーズ(赤服)との ボタニー湾での会見200年記念 |
||
オ|ストラリア→ | 1788 La Perouse & Commdoore Phillip 1988 1788/1/24 Botaney Bay ニューカレドニア 1988 発行 |
←ポート・ジャックソン ←現在の シドニー市街地 ←ボタニー湾 ←ポート・ハッキング |
ジョージ・バス船長は植物学者だったのですが、英国海軍々医になってオーストラリアに渡り、新種の植物を求めて探検航海して、フリンダースと共に1798年バス海峡を発見し、タスマニアが島であって、オーストラリア本土とは陸続きではないことを確認しました。 |
ジョージ・バス海軍々医 (George Bass, British naval surgeon、Botanist, 1771〜1803) ジョージ・バス船長(船医)はイギリスのリンカンシャー州スリーフォード(Sleaford)で生れました。リンカンシャー州のボストン(Boston)の学校で学び、ボストンの病院で医学の勉学と訓練を受けて、1789年に医師の免許を取得しました。1794年に23才で大英帝国海軍に軍医として入隊し、リライアンス号(HNS Reliance)でオーストラリア・ニューサウスウェールス(NSW)州シドニー(Sydney)に1795/2月に到着しました。1795年にはマシュウ・フリンダースがリライアンス号でイギリスからオーストラリアに向けて出帆しました。バスとフリンダースは、ボタニー湾を探査していたウィリアム・マーチン(William Martin)の紹介で友人になり、彼らは1796年にシドニーから南へ26kmのポート・ハッキング(Port Hacking)を探検航海しました。 1797年にジョージ・バスはオープンの捕鯨ボートに6人の乗組員と、NSW州とヴィクトリア州の境にあるオーストラリア最南東端のハウ岬(Cape Howe)へと出帆し、現メルボルン(Melbourne)まで行き、ファンディーメンズランド(Van Diemen's Land、現タスマニア島)が海で行く手をさえぎられ本土と繋がっていないことを発見し、その海峡をバス海峡と名づけました。彼は熱烈な自然主義者、および植物学者だったので、その付近の新種の植物標本を採取して、ロンドンのバンクス卿(Sir Joseph Banks)のもとへ送りました。シドニーから120km南の現キアマ(Kiama)町を発見し、植物の複雑さと驚くような自然現象について詳細なノートをとりました。1797/12/6にはキアマ噴気孔(Kiama Blowhole)を発見し、ボートをしばし止めて25mも水蒸気を吹き上げている「雄大な噴気」(世界最大)を感心して眺めたと伝えられています。 1798〜99年にはフリンダースと共にタスマニアをトムサム号(Tom Thumb.)という小型船(ボート程度)で周航して、タスマニアが大陸と繋がらないことを確認しました。そして、1798年にはバス海峡を確認・再発見しました。 イギリスへ帰国して、バスの船友達のリライアンス号ウォターハウス艦長(Henry Waterhouse)の妹のエリザベス(Elizabeth)と結婚し、3ヵ月後にはまた探検航海へと出帆しました。1801年の早春にフナクイムシ対策に銅版で船底を覆った新造船ヴィーナス号(Venus)のオーナー船長として、貿易品を満載してオーストラリアのポート・ジャックソン(Port Jackson)へと向かいました。到着してから積荷が水を被っていることが判明しましたが、キング総督に5割引で引き取ってもらいました。キング総督が、シドニーが食料の欠乏で困っていたので、バス船長にタヒチ島からの塩漬け豚肉の緊急輸送の契約を申し込んできました。豚肉は品薄で値上がりしていましたが、ポリネシア諸島のソサイエティ諸島(Society Islands )では未だ豊富にありました。バスの買い付け値段は「豚肉1ポンド」が6ペンスでしたのに、総督は1シリング(12d)で買いましたので、とても利益を上げることが出来ました。その資金で、食糧難で困っているシドニーに食糧を輸入しょうと準備しました。当時はタヒチ島方面以外は、南米の大西洋岸からスペイン船が物資を運んできていましたが、相当な高値になっていました。 ジョージ・バスは1803/2/5にヴィーナス号で食料の買い付けにシドニーを出帆しましたが、タヒチ島には現れず、スペイン領チリ方面へ航行したのではないかと思われましたが、ようとして行方が知れず、ついに消息不明となりました。イギリスでは1806/1月に海軍大臣の遭難者名簿に搭載されることになり、バスの休職給期間の終わりを1803/6月にさかのぼって、エリザベス夫人が未亡人財団から年金受給を許可されました。だから、バスは32才で亡くなったことになり、1803/7月からの年金支給となったわけですね。 ・トムサム号の装備:〜 Tom Thumb、1798、(親指トム号)
参考〜
右の切手は、オーストラリアとタスマニア島との間の「海底ケーブル開通記念」切手で、海の神ポセイドンの妃アムピトリーテが海底ケーブルを支持している図案になっています。 09/10/20追記 参考HP:〜 ・リンカンシャー州の場所地図 ・バス海峡の地図 ・バス船長の航海地図 ・バス海峡の場所地図(上:オーストラリア、下:タスマニア島)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/6/26追記、令和6年 2024/2/25 |