切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage) | |||
United Kingdom 国連 1983 発行 |
ブロートン艦長
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大航海物語 イギリス編★ |
Kribati
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Isle of Man
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FIJI 太平洋と世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
ESPANA Costa Septentrional de California 北アメリカ西岸・カリフォルニア海岸 アメリカ 1967/10/12 発行 |
ESPANA |
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ヌトカ海岸の古地図 |
ヌトカ・サウンド |
アラスカ |
スペイン 1976/3/1 発行 |
ブロートン艦長はヴァンクーヴァー遠征隊に参加して、太平洋探検をなし、1791年チャタム諸島を発見し、北米ヴァンクーヴァー島付近を探検し、プロヴィデンス号艦長となり、1795年キリバスのカロライン島を発見。 |
・ウィリアム・ロバート・ブロートン艦長 (1762〜1821/3/12) Lieutenant William Robert Broughton ブロートンは1762年イギリスのチェシャー(Cheshire)州で生れました。ブロートンの名前は、1774/5/1に船長の使用人(Cabin boy)としてヨットのキャサリン号の乗船者名簿に登場したのが初めでした。ブロートンの最初の遠洋航海は1774/11/18、ジョン・リンジー艦長(Captain John Linzee)のブリッグ・スループのファルコン号(10-gun, Brig-sloop, Falcon)に艦長従卒で乗艦して北米に向けて航海した時でした。 アメリカ独立戦争中(1775-83)は、1777/2/14にジョン・ナイト艦長(Lieutenant John Knight, 1747-1831)のハーレム号に乗艦して士官候補生(Officer cadet)で従軍しました。1778/7/1にイントレピッド級戦列艦(Intrepid class ships of the line)のイーグル号(64-gun Ship, HMS Eagle)に少尉候補生(Midshipman)で転属・乗艦。1778/12月にスパーブ号に航海士で転属、極東地域での任務を開始。1782/1/12、少尉に任官してピーター・レーニア艦長(Captain Peter Rainier, 1741-1808)が指揮するバーフォード号に乗艦。乗組み中に極東地域でフランスのサフレン艦隊と遭遇し戦火を交えました。1784/7/19にバーフォード号を退艦後、除隊して上陸してほぼ4年間は陸上生活でした。 1788/6/23に、マンリー・ディクソン艦長(Captain Manley Dixon, 1760?-1837)のスループ艦オレステス号に乗艦して海軍に復帰。英仏海峡とその後は地中海で勤務しました。1790年にはビクトリー号(HMS Victory, 3,500t)に乗組み、ナイト艦長に再会しました。1790/12/18、ブリッグ艦チャタム号の艦長を拝命して乗艦し、初めて軍艦の指揮官になりました。 ブロートン艦長の大航海:〜 ・1791〜1794、ヴァンクーヴァー探検隊の僚船チャタム号船長で太平洋を探検航海 ・1793〜1799、プロヴィデンス号船長で太平洋を探検航海 1791/1/1にブロートン艦長はヴァンクーヴァー艦長(George Vancouver, 1757-1798)の太平洋探検隊(ヴァンクーヴァー遠征隊、Vancouver Expedition 1791-1795)にブリッグ型帆船チャタム号(HMS Chatham 135t 4guns)の艦長として参加を命じられました。 1791/4/1にディスカヴァリー号(HMS Discovery, 337t)とチャタム号は英国を出帆し、4/28にカナリア諸島のテネリフ島のサンタ・クルーズに到着しました。5/7にそこを出帆、チャタム号は6/6にケープタウンに到着、ディスカヴァリー号は2日後に到着しました。必需品と水の補給後に、8/17に両船は出帆しました。9/28に西オーストラリアの海岸に上陸し、そこをヴァンクーヴァー艦長がキング・ジョージ砂州(King George Sound)と名づけました。オーストラリアの南岸をすばやく航海して、ダスキー砂州(Dusky Sound)に上陸しました。11/2にニュージーランドに補給と休養のために寄航して、チャタム号は11/21に出帆しました。1791年11月に南太平洋探検中にニュージランド東南方のチャタム諸島(Chatham Islands)をヨーロッパ人として最初に発見(望見)しました。11/26にタヒチ島に到着し、ディスカヴァリー号は3日後に到着しました。タヒチ島でバウンティ号の反乱を聞いて厳正な規律をもって過ごした後、ハワイ諸島方面の探検に向かい、カメハメハ1世(Kamehameha I、1758頃-1819)に大英帝国艦隊の実力を誇示して、冬季の補給を行い探検遠征航海を続けました。 北ヴァンクーヴァー島とコロンビア川の探検調査をして、1791/11/25にカリフォルニアのモンテレイ湾(Monterey)を出帆して帰国しました。1792/8/17、北緯39度に達し、8/29にグレイ船長(Robert Gray 1755-1806)のスループ型帆船コロンビア・レディヴィヴァ号(Columbia Rediviva)に出会いました。 1792年10月に北米北西海岸探検中に、ワシントン州とオレゴン州方面の探検を命ぜられ、ヴァンクーヴァー島からはるか遠くのコロンビア・ジョージ川(Columbia River Gorge)まで遡上して探検調査し、オレゴン州ポートランド東のマルトマ郡(Multnomah County)東に上陸し、そこの山を英国艦隊司令官フッド提督の名に因んで「フッド山」と名づけました。その後、さらに北上して北緯56度のアラスカ・シトカ南方付近に達し、ロシア人やスペイン船、ポルトガル船に遭遇しながら南下し、ヴァンクーヴァー島付近の探検をしてから、11/14に太平洋とサンフランシスコ湾を結ぶゴーデンゲイト海峡を抜けてサンフランシスコに到着し、スペイン船のクゥワドラ船長がヌトカ問題を解決するために使者をメキシコ経由で大西洋から本国へ派遣して欲しいと要請しました。そこへ、チャタム号が11/26に到着しましたので、ブロートン艦長にその使者の役を命じ、ブロートン艦長はイギリスへと出発しました。ディスカヴァリー号とプゲット(Puget)が船長で乗船したチャタム号は、そこで休養と補給をした後に、冬を過ごすため、ハワイへと航海しました。その後、ヴァンクーヴァー探検隊はハワイを出帆し、15年前にクック船長が発見していたヌトカ・サウンドを探検調査しました。1794/5/5に探検艦隊の両船はセントヘレナを出帆し、1794/10/17にチャタム号はイギリスに帰国しましたが、ディスカヴァリー号は嵐に遭って南米のホーン岬方面へ流されてしまいました。 イギリスに戻っていたブロートン艦長は、1793/10/3にプロヴィデンス号(HMS Providence)の艦長に指名されました。1795年にブロートン艦長はプロヴィデンス号でヴァンクーヴァー艦長の太平洋の探検航海の支援のためにイギリス・プリマス港を出帆し、太平洋を探検中に1795/12/16にキリバスのカロライン環礁島(カロリン、Caroline Atoll)を再発見しました。そこは1606/2/21にキロス船長が発見していました。なお、1795/10/20にはディスカヴァリー号は無事に任務を終えてイギリスに帰還しました。 1796年にもブロートン艦長はプロヴィデンス号でモンテレイ湾に航海して、ヴァンクーバー島の探検調査をしました。その後、太平洋を横断して黄海から朝鮮に行き、朝鮮を訪問した最初の英国人となり、千島列島(Kuril Islands)の中部にあるシムシル島(Simushir、新知島)に寄航(1796年頃説有)し、日本近海付近を探検して北海道の海岸を調査し、マカオに行きました。そこでスクーナー型帆船プリンス・W・ヘンリー号(schooner, Prince William Henry)を購入しました。1797/5/16にプロヴィデンス号は台湾近海(宮古島)の珊瑚礁(プロビデンスリーフ:Providence Reef (現 Yae Bishi) 八重干瀬)で難破・沈没しました。乗組員は全員がプリンス・W・ヘンリー号に救助されてマカオに到着しました。ほとんどの乗組員は他の船に移りましたが、ブロートン艦長はプリンス・W・ヘンリー号で探検を再開しました。 日本の本州の東海岸に沿って北に進んで北海道を通過して、遠征隊はサハリンの西海岸に沿って間宮海峡に向かって北に航海しました。タタール湾(Gulf of Tartary)北端に広大な浅瀬を見つけたので、サハリンは本土の一部であると誤って結論付けました(よくある間違い説有)。 1798/5にプリンス・W・ヘンリー号はセイロン島のトリンコマリ(Trincomalee)に到着し探検航海は修了しました。その後、船を失ったことで軍法会議にかけられて無罪判決を受けるなど紆余曲折の後に、1799年2月にイギリスに帰国できました。1804年にはプロヴィデンス号での「1795〜98年の探検」を詳細に記述した「北太平洋の探検航海記」を出版しました。 1803年にペネロープ号(HMS Penelope)の艦長となり、ヤーマス港(Yarmouth)を出帆、北海でフランス艦隊と戦いました。翌年には安全航海違反を疑われて軍法会議にかけられましたが、無罪放免となり、1804/5にオランダのオステンド(Ostend)でペネロープ号での任務を終えました。1809年にはガンビア提督(Admiral John James Gambier, 1st Baron Gambier RN, 1756-1833)司令官のもとでイラストリアス号(HMS Illustrious, 74gun)を指揮して、フランス・ブレスト艦隊攻撃(Battle of Basque Roads, 1809/4/11夜)に従軍して勝利しました。1810年にイラストリアス号で西インド航海に従事しました。1811年ジャバ遠征隊に参加を命ぜられ、同地でストップフォード提督(Ad. Robert Stopford, 1768-1847)と衝突して軍務をはずされました。彼は帰国して海軍大臣に訴えましたが、聞き入れられず海軍を除隊しました。 1815年53才でトーマス男爵(Sir Thomas Delves Broughton, baronet)の娘ジェミーナ(従妹)と結婚して3女1男の子供をもうけました。1819/3/12に海軍に復帰して海兵隊大佐となりました。1821年にイタリイのフィレンツェ(Florence)に移動を命ぜられ、そこに着任後に狭心症で、1821/3/12に59才で急逝しました。 ・ブロートン艦長の略年表
・プロビデンス号の装備:〜 HMS Providence、1791
参考:〜: カナダのヴァンクーヴァー島と本土のブリティッシュ・コロンビアとの間のクィーン・シャーロット海峡(Queen Charlotte Strait)にブロートン入江(Broughton Archipelago)とブロートン島(Broughton Island)に彼の名前が残されています。 参考HP〜 ・チェシャー州 (イギリスの地図) ・太平洋の島々の地図 ・キリバスのカロリン環礁島の地図 ・カロリン環礁付近の日付変更線地図 ・ヴァンクーヴァー島とヌートカ・サウンドの地図 ・コロンビア・ジョージ川 (カナダのブリティッシュコロンビア州の川) ・オランダのオステンド。 こちらで ・コロンブス (スペイン) ・マゼラン (スペイン) ・バスコ・ダ・ガマ (ポルトガル) ・カルティエ (フランス) ・バレンツ (オランダ) ・ベーリング (ロシア) ・クック船長 (イギリス) 世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0111 07/4/20、08/8/8追記、令和 R.3/2/3 (2021) |