★イギリス |
アラン・ガーディナー師 1842/3/22 パタゴニアへ布教 |
大航海物語★ |
ガーディナー師 schooner Allen Gardiner スクーナー船アラン・ガーディナー号 1844 フォークランド到着150年記念 1994 フォークランド諸島 1994/12/1 発行 |
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現在の地図 マゼラン海峡の地図 |
パタゴニアの民 | |
マゼラン海峡地帯拡大地図 |
←マゼラン海峡 ←フェゴ島 ←ルマール海峡 ←ピクトン島 ←ホーン岬 ←ドレーク海峡 |
フェゴ島民(Fuejian)の一族 South American Missionary Society |
チリ 1944/3/2 発行 | フォークランド諸島 1994/12/1 発行 |
ガーディナ師ーは若き日にはイギリス海軍大尉として軍艦で活躍後、イギリスの植民地の実情を知るに及んで、現地人を神の教義で救うことを決意して、宣教師となり、南アフリカのナタールで伝道活動に携わりましたが、政情不安となり、帰国しました。その後、南アメリカのパタゴニア地方の伝道に出発、フォークランドへ大航海した後に、パタゴニアへ渡り伝動しましたが、ミッショナリー協会からの十分な援助が受けられず、食糧が尽きて母国へ帰ることも無く現地(ピクトン島)で亡くなりました。 |
アラン・ガーディナー師 (1794/1/28〜1851/9/6) Allen Francis Gardiner (海軍大尉 RN officer、パタゴニア宣教師 missionary to Patagonia) ガーディナーはイギリスのオックスフォードシャー州クームベ・ロッジ(Coombe Lodge, Oxfordshire)でサムエル・ガーディナー(Samuel、Mary Gardiner)夫妻の5番目の息子として生まれました。1808年に15才でポーツマスの海軍学校(Royal Naval College)に入学。1810/6/ 20に17才でフォーチューン号(H.M.S. Fortune)に乗組んで海へ出ました。1814/8月に少尉候補生(midshipman )で、アメリカのフリゲート艦エセックス号(frigate Essex)に捕えられて捕虜になりました。イギリスへ送還されて、ギャニメイド号(Ganymede)に乗組んで、1821/12/13に海軍少尉になり、リーンダー号(Leander)、ドーントレス号(Dauntless)に乗艦して軍務につき世界中を回って、1822/10/31にポーツマス港に帰港しました。1823/7/1にジュリア・スザンナ(Julia Susanna)と結婚しましたが、1834/5/23に彼女はワイト島(Isle of Wight)で亡くなりました。 1824年にジュピター号(Jupiter)の海軍中尉で、ニューファウンドランドに大航海して行きました。1825年にクリンカー号(Clinker)でイギリスに戻り、1826/9/13に海軍大尉(commander)に昇進しました。海軍での軍務について海外勤務をしている内に、異教徒の国でのキリスト教の伝道活動に身を捧げようと決心し、1834年にアフリカ東岸のナタール港(Port Natal 現:ダーバン Durban)に大航海して渡りました。そしてアフリカ東岸最初の宣教師基地から、現:南アフリカ共和国のズールー王国(Zulu country)を探検しながら伝道活動を続けました。1834〜1838年の間、ズールー国(Zululand)に教会を建設して精力的にキリスト教の伝道を続けました。ところがズールー族の政治的活動が活発となり騒乱状態になりだしたので、やむなくアフリカを離れました。その後にズールー戦争(Anglo-Zulu War、1879/1/11〜7/4)が勃発し、ズールー王国が滅亡しました。1836/10/7にエリザベス・リディア(Elizabeth Lydia)と再婚しました。 1838〜1843年の間はチリの原住民に伝道をするため、南アメリカ南部(パタゴニア地方)の島々を渡り歩いて伝道しました。ところが彼の努力にもかかわらず各国の利害が入り乱れている地域だったので、思うようには活動できませんでした。1842/3/22にサウス・アメリカン・ミッショナリー・ソサイエティ(南アメリカ宣教師協会、South American Missionary Society)の要請で、フォークランドからスクーナー帆船モンゴメリー号(schooner Montgomery)でパタゴニア地区(Patagonia)への伝道のため、チリ領フェゴ島(Tierra del Fuego)のオアジィ港(Oazy harbour)へ最初の上陸を果たしました。 英国聖公会宣教協会(英国教会伝道協会、Church Mission Society)や英国ウェスレアン宣教師会(English Wesleyan Mission)やロンドン宣教師協会(London Missionary Society)なども宣教師を送り込みました。そして1844年、ついに南アメリカに「パタゴニア宣教師協会」(Patagonian Missionary Society)が設立されました。ロバート・ハント(Robert Hunt)がガーディナー師に付き添われて派遣されましたが、伝道に失敗して、1845/6月にロンドンに戻りました。しかしガーディナー師はくじけずに、再度、1845/6/23にスペインのプロテスタント牧師フェデリコ・ゴンザレス(Federico Gonzales)とロンドンを出帆しました。ゴンザレス牧師にスペイン語を習ったガーディナー師はボリビアに行き、ポトシ(Potosi)で伝道しましたが、カトリックからの妨害も多く、ゴンザレス牧師はイギリスへ戻り、1844/2/8にサザンプトン港(Southampton)着きました。 1848年にガーディナー師はフェゴ島の調査をしながら伝道して大変苦労しました。モラヴィア兄弟団(Moravian Brethren)とスコットランド国教会の海外任務隊(Foreign Missions of the Church of Scotland)も進出していましたが、なんの援助も受けられませんでした。ところが好運にも、イギリスはグロスターシャー州チェルトナム(Cheltenham)の貴婦人から£700ポンドの援助を受けましたのでリチャード・ウィリアムス外科医(Richard Williams、surgeon)に率いられた、ヨーゼフ・アーウィン船大工(Joseph Erwin、ship-carpenter)、ジョン・メイドメント教義問答師(John Maidment, catechist)、コーニス漁民(Cornish fishermen)のピアース(Pearce)、バッドコック(Badcock)、ブライヤン(Bryant)の3人との一行6人が、1850/9/7にオーシャン・クゥイーン号(Ocean Queen)でリバプール港を出帆し、アルゼンチン領フェゴ島南沖のビーグル海峡のチリ領ピクトン島(Picton Island)に1850/12/5に到着しました。ガーディナー師は2隻の約8m(26 feet)のランチ船(launches)に6ヵ月分の食料を保存しました。地元のヤーガン族(Yahgan)は敵対し、物資を盗んだりしました。その島の気候は寒くて厳しく、土地は不毛の地でした。その後の補給物資はフォークランドに補給船が無くて、6ヵ月も来ませんでしたので、伝道者たちは餓えて弱って亡くなって行きました。ガーディナー師自身も、1851/9/6に58才で食料の欠乏で亡くなったものとみなされました。 1851/10/21にジョン・デヴィソン(John Davison)が救助隊を送り、1852/1/6にディド号(H.M.S. Dido)が寄航しましたが、遺体は埋葬され、記録は持ち去られていました。2年後の1854年に88屯の宣教師船スクーナー型帆船アラン・ガーディナー号(Allen Gardiner, 88 ton schooner)がパタゴニアへ派遣されました。また、1856年にはガーディナー師(Captain Gardiner)の一人息子のアラン・W・ガーディナー(Allen W. Gardiner)が宣教師として同地へ行きました。 参考HP:〜 ・南アフリカの地図(ダーバン港) ・ピクトン島付近の地図 ・マゼラン海峡付近の詳細地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/3/3 |