United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)探検大航海(V-8
エドワード・エドワーズ艦長
1791
バウンティ号を追跡中、パンドラ号が遭難
ロツマ島
大航海物語
 イギリス編

Niuafo'ou
パンドラ号のエドワーズ艦長


パンドラ号のバウンティ号捜索の航路地図
エドワ|ズ艦長



ブライ艦長




ニウアフォウ島はトンガ王国の最北端の島
ニウアフォウ 1991 発行
TOKLAU
パンドラ号

トケラウ諸島(現NZ領) 1999 発行
Toklau Islands
パンドラ号

トケラウ諸島のヌクノヌ島の地図
トケラウ諸島 1970 発行

Norfolk Island
豪州クイーンズランド海岸の地図と
座礁したパンドラ号

ノーフォーク島 1991/8/28 発行
FIJI
太平洋と世界地図

フィジー 1977/4/12 発行

提督エドワード・エドワーズ艦長
  Admiral Edward Edwards (1742〜1815/4/13)73才没
エドワーズ艦長は1742年にイギリスのケンブリッジシャー州ピーターバラ (Peterborough, #1A14)で生まれました。イギリス海軍の艦長でしたが、バウンティ号の反乱(Mutiny on Bounty)で一躍有名になりました。

1790/3/15にバウンティ号ブライ艦長達がイギリスに戻って反乱を報告したので、バウンティ号(HMAV Bounty)の反乱者を捜索することになりました。エドワーズ艦長は1779/5/17に英海軍フリゲートパンドラ号(HMS Pandora, 24-gun frigate、134men)の艦長となり、海軍よりバウンティ号の追跡を命じられて、元バウンティ号の乗組員でブライ艦長と一緒に帰国したトーマス・ヘイワード少尉の案内(協力)で、1790/11月にイギリスを出帆しました。
1791/3/23にタヒチ島に到着し、14人の元バウンティ号乗組員(大部分は非反乱者)を逮捕し、1791/5/8に反乱者を収監してタヒチ島を出帆しました。パンドラ号には牢がなかったので「パンドラの箱」とあだ名される臨時の牢獄を造って、足に鉄の鎖をして反乱者たちを収監していました。赤道直下での窓のない「箱の中」は強烈な熱さと異臭に満ちていたと伝えられています。 タヒチ島に到着したパンドラ号

ノーフォーク島 1991 発行







エドワード・エドワーズ艦長
1791
フィジー諸島のロツマ島を発見


Fiji
ロツマ島発見 ロツマ島上陸 ロツマ酋長夫妻とロツマ島
1791 パンドラ号のロツマ(ROTUMA)発見175年記念 1966
フィジー 1966/8/25 発行

パンドラ号は、1791/6/12にトケラウ諸島ヌクノヌ島(Nukunonu,Tokelau)を発見してクラレンス公爵島(Duke of Clarence's Island)と名付けて上陸。サモア諸島トンガ島を捜索してからフィジー諸島の北部にあるロツマ(ROTUMA)島を発見、上陸し捜索しました。この島はキロスが発見して、ツアモコ島(Tuamaco)と呼ばれていたので、エドワーズ艦長がパンドラ号で再発見したわけです。その後、ソロモン諸島のサンタクルーズ諸島(SantaCruz Islands)のヴァニコロ諸島(Vanikolo Islands)を望見してピッツ島(Pitt's Island)と名付けました。
その後もバウンティ号の捜索を2ヵ月ものあいだ反乱者のクリスチャン副長たちを探しましたが、ようとして、行方がわらず、オーストラリアグレートバリアリーフ(Great Barrier Reef)から、トレス海峡(Torres Strait)へ向けて航海中の、1791/8/29にグレートバリアリーフ近くのクイーンズランド海岸で、暗礁に乗り上げ座礁・難破し、翌8/30に沈没してしまいました。 座礁したパンドラ号
難破したパンドラ号の乗組員は135人の内、31人の乗組員と4人の囚人が水死しました。1792/7月と8月にパンドラ号の78人が4隻のボートでチモール島に到達しました。89人の船員と10人の囚人が、別の軍艦で本国送還となり、パンドラ号に代わって反乱者(10人)を収監したゴーゴン号(HMS Gorgon、44 gun 5th rate frigate、911t)が、1792/6/19にポーツマス港( #1B21)に到着し、イギリスに戻り帰国できました。 チモール島

その後、パンドラ号のエドワーズ艦長と士官達は戦艦ヘクター号(HMS Hector、74-gun ship)での軍法会議にかけられ無罪・放免となりました。

エドワーズ艦長はその後の数年間は退役軍人名簿(Half pay list)入りとなり、給料が半額になりました。しかしながら苦節数年を経てアーガイル号(HMS Argyle)と、ハル号(HMS Hull)の艦長になり、ついに1809年に副提督(准将、Vice Admiral)となり、最期にイギリス海軍の白色艦隊の提督(少将:Rear Admiral)となりました。エドワーズ艦長は1815年に亡くなり、リンカンシャー州スタンフォード(Stamford, #1C31)近くケンブリッジシャー州ウォーター・ニュートン(Water Newton、Huntingdonshire、Cambridgeshire, #1A14)の聖レミギュウス教会(St Remigius Church)に葬られました。
大英帝国三層甲板戦艦
Engrish Three Decker


1782年当時の3層甲板軍艦
砲列甲板が3重構造

参考地図HP:〜
トレス海峡
トケラウ諸島
ヴァニコロ島
サンタクルーズ諸島

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2008/1/30、2018/6/18、令和7年 2025/12/5
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