大航海物語 | イギリス(United Kingdom)国王 ハノーバー朝
ヴィクトリア 女王 在位 1837〜1901 |
参考資料 |
ヴィクトリア女王 イギリス 天保10年 1840/5/6 発行の 世界最初の郵便切手 ”ブラック・ペニー” |
晩年のヴィクトリア女王 バーブダ 1970/10/15 発行 |
クゥィンズランド州100年記念 オーストラリア 1960/11/2 発行 |
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ヴィクリア女王 (1819/5/24〜在位1837/6/20〜1901/1/22) Queen Alexandrina Victoria Wettin ヴィクトリア女王は初代インド女帝(在位:1877/1/1〜1901/1/22)で、ジョージ3世の四男ケント公エドワードの一人娘。ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツのハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていたが、ハノーファーではサリカ法典による継承法を取っており、女性の統治が認められなかったため、ヴィクトリアはハノーファー王位を継承せず、叔父エルンスト・アウグストがその地位を継ぎました。ファーストネームであるアレクサンドリナの名は代父であるロシア皇帝アレクサンドル1世に名付けられ、ヴィクトリアは母親の名でした。1820/1/23に、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公が亡くなりました。母ケント公夫人ヴィクトリアはドイツ語を母語とし、ヴィクトリアは3才までドイツ語のみを話す生活を送り、そのためかヴィクトリア個人は生涯ドイツびいきでした。ウィリアム4世の死後にヴィクトリアは18才で即位し、首相ウィリアム・ラムの助言により政治を行いました。 ヴィクトリア女王の時代には、イギリスでもっとも輝かしい時代が訪れ、その時代はヴィクトリア朝と呼ばれています。それは世界中の王室のモデルとなりました。その時代にイギリスは世界各地を植民地化して一大植民地帝国を築き上げ、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号も得ています。「君臨すれども統治せず」によって議会制民主主義を貫き、彼女の寵愛するベンジャミン・ディズレーリ、そして良き夫であるアルバートの助言によってイギリス帝国は繁栄しました。ヴィクトリアが母方の従弟に当たるザクセン・コーブルク・ゴータ公子アルバートと初めて会ったのは16才のときでした。血縁関係の他に2人は同じ主治医にかかっており、そこから交際が深まりました。ちなみに、女王に求婚することは許されなかったので、ヴィクトリアは自分からアルバートに求婚しました。結婚式は21才の時の1840/2/10に行われました。アルバートが政治に関ろうとしたため、2人の間にははじめ軋轢があったものの間もなく妥協が成立し、2人の結婚生活は極めて成功した幸福なものとなりました。趣味は乗馬と日記でした。乗馬好きが高じて馬産も手がけ、1849年にはハンプトンコート王室牧場を再開しました。競走馬は持たないという夫との約束で生産した馬はすべて売却していましたが、英牝馬三冠を制した名馬ラフレッシュ号の生産者としても名を残しています。 結婚21年目(1861/12/14)に42才で夫アルバートが亡くなりました。夫の没後は悲嘆にくれ、王室牧場も1894年に閉鎖、常に喪服を着用し、公の場に出ることは殆どなくなりました。1899年にヴィクトリア&アルバート美術館建築に着手しました。1901年に81才で亡くなりました。その在位64年間はイギリス史上最長です。子供達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるに至りました。しかし女王自身が血友病の因子を持っており、ロシア皇太子アレクセイを始めとする男子が次々と発病しました。ヴィクトリア女王の傍系の親族には血友病保因者はいないため、ヴィクトリア女王が血友病の突然変異を持って生まれたといわれています。 なお、1840/5/6にはサー・ローランド・ヒルの手によって世界最初の郵便切手”ブラック・ペニー”が発行されました。 こちらで ・エリザベス1世 (英国王:イングランド国王(Kingdom of England)国王) 世界遺産の ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/12/20 |