大航海物語 France

国連 1980 発行
切手で綴る 冒険大航海(Great Adventure Voyage)
フレンチ・インディアン戦争(1)
French and Iroquois Wars

ビーバーの毛皮争奪戦で、別名 “ビーバー戦争” と呼ばれる
United Kingdom

国連 1983 発行
参考資料

CANADA
 1867 カナダの地図 1927

カナダ 昭和2年 1927 発行
黒い所がフランス領だ
った
ビーバー

カナダ 1954 発行
イロコイ族和平300年記念
Great Peace of Montreal, 1701

モントリオール和平条約300年記念
カナダ 2001 発行

(I)序章:ビーバー戦争の発端
それは、1497年にイギリスジョン・カボットニューファウンドランドを発見し、その航海ではさしたる収穫もなかったので、その後は大西洋を横断してアジアへ行こうという航海は取りやめとなり、先進国の財宝輸送船を襲撃・掠奪する”私掠船”を出すようになるも、1534年にフランスジャック・カルティエがニューファウンドランドに上陸した時から始まったといっても過言ではありません。カルティエはセントローレンス河々口地方のイロコイ族インディアンと接触していたのでした。
ジョン・カボット

ニュファウンドランド
明治30年1897発行

(II)フランスの事情。
カルティエ以降、フランスからは新大陸のヌーベル・フランスへ多くの移住者が渡航しました。1603年にはサミュエル・ドゥ・シャンプランがフランスから毛皮遠征隊の一員として新大陸へ渡って行き、ケベック植民地を建設して「ヌーベル・フランスの父」と言われるようになりましたが、1608年にニューヨークでイロコイ族インディアンと戦闘を交えました。これが、その後100年に渡るインディアン戦争の始まりになったといわれ、

カルチエ
ケベック殖民300年記念

カナダ 明治41年 1908 発行



ャンプラン
ジャン・ニコレは1634年にオハイオ北西領土(5大湖の南西地域)を探検してミシガン湖に到達しましたし、マルケット神父は1673年に5大湖からミシシッピ河を探検し、1682年にはラ・サールミシシッピー河を縦漕してヴァージニア殖民地をフランス国王に献上。キャディラックエリー湖から1701年にデトロイトに上陸して砦を作り、これが現デトロイトの起源となりました。 ルイジアナ100年記念

アメリカ 明治37年1904 発行
※1701年「モントリオール和平条約」がフランスとイギリスとイロコイ族との間で締結。
1698年頃からイロコイ族はこの戦争が本質的にイギリスが焚きつけたものであり、自分達が都合の良い「贖罪のヤギ」になっていると見るようになり、戦争を終わらせたいと考えるようになりました。一方のフランスは、イロコイ族をヌーベル・フランスと南のイギリスとの間の防塁にして置きたかったので、両者の利害が一致して「偉大なる平和」(Grande Paix)が締結されるために、 モントリオール和平条約
1701年にモントリオールで31人の酋長達とフランス及びイギリスの代表が署名し、一時的に平和が訪れました。この条約ではイロコイ族が略奪を止め、五大湖地方の避難民が東部に戻ることを承認。結果的にショーニー族はオハイオ郡と低地アレゲニー川の支配権を回復しました。 五大湖

アメリカ 1966 発行

(III)イギリスの事情。
イギリスはジョン・カボットが1497年にニューファウンドランドを発見して以来、途絶えていた入植の試みは、ハンフリー・ギルバートが1583年にニューファウンドランドに上陸してイギリスの植民地と宣言し、サー・ウォルター・ローリーは1584年にノース・カロライナのロアノークに入植し、1607年にはジョン・スミス船長がヴァージニア州チェサピーク湾の海岸に上陸してジェームス・タウンを建設して以降、多くの船団で多数の移住者が新大陸へと渡航。 ジョン・スミス船長

USA明治40年(1907)発行

(IV)オランダの事情。
オランダは1581年にスペインからの独立を勝ち取って、オランダ東インド会社が派遣したヘンリー・バドソンが1607年から4度の”北西航路”の探険航海に出帆し、ハドソン河やニューアムステルダム湾を発見、1610年の航海でカナダ北部でハドソン湾を発見して、ハドソン川を遡って流域一帯をオランダ領ニューネーデルラントと宣言して入植地を建設しました。1626年にオランダ総督がマンハッタン島をインディアンから買い取り、その南に集落を作ったのが現ニューヨークの始まりとなりましたが、やがてイギリス人が進出征服し、1664年にサー・ジョージ・カートレットの領地となりニュージャージーと名付けられました。 ハドソン船長

ブルガリア 1990 発行

(V)そして開戦。
1758年6月、イギリス艦隊がセントローレンス湾の入り口を制するブルトン岬島にあったフランス側の強固なルイスバーグ要塞の沖に姿を現しました。フランス軍は港の入口に艦船4隻を自沈させてイギリス艦隊の針路を阻もうとしましたが、港内のフランス艦隊は失火から5隻を失い、炎と煙の合間からイギリス軍のボート隊の侵入を許してしまいました。別方面ではジェームズ・
ルイズバーグ要塞

カナダ 1985 発行
ウルフの率いる4個大隊が上陸を果たしており、フランス軍3600人はやむなく降伏。陸上でもいくつかの戦火が交えられ、「フレンチ・インディアン戦争」のそもそもの勃発点であるフォート・デュケーヌを占領した英将フォーブス将軍はこの町を本国の宰相にちなんで「ピッツバーグ」と改名。フォーブス軍にはジョージ・ワシントンも従っていました。付近のインディアン部族の一部がフランスから離反。イギリス植民地南部でフランス軍に呼応して反乱を起こしていたクリーク族やチェロキー族も撃破され、特にチェロキー族は全戦士の半数を失うという打撃をうけました。
(VI)モヒカン族の最期。
はるばると大西洋を越えて大航海して、二人の将軍がフランス植民地「ヌーベルフランス」にやってきました。一人はフランス植民地軍を率いる司令官”ルイス・ドゥ・モンカム将軍”(切手の左)で、もう一人はイギリス軍を率いる司令官”ジェームス・ウォルフ将軍”(切手の右)でした。両将軍はセントローレンス河の攻防戦で幾度もあいまみえて戦い、タイコンデロガ砦の包囲攻撃に際しては「モヒカン族の最期」という小説も
モンカム ケベック300年記念

カナダ 明治41年 1908 発行
ウルフ
書かれ、それは原住民のインディアンを巻き込んで、勝ったり負けたりの「血で血を洗う凄惨な戦い」を繰り返しました。そして両者は1759年にケベック近郷のアブラハム平原で最期の決戦を闘い両将軍が戦死するという激戦の結果イギリス軍が勝利し「ヌーベルフランス」の滅亡となり、やがてイギリスの新大陸での覇権が確定することとなりました。

(VII)終章。イギリスの勝利とアメリカ独立戦争の勃発。
1763年2月10日、「パリ条約」が結ばれました。フランスは北大西洋ニューファウンドランド島沖のサン・ピエールとミケロンという2つの小島、カリブ海のマルティニーク島・グアドループ島・サントドミンゴ島及びいくつかの小島、インドのポンディシェリーをなんとか返してもらったものの、カナダの全部とルイジアナのミシシッピー河以東を失いました。スペインはキューバ島のハバナとフィリピンを返還されましたがフロリダをイギリスに割譲しました。ただスペインは同盟国フランスからの詫びとしてルイジアナのミシシッピー河以西を譲られました。
こうして、イギリスは1607年にジョン・スミス船長がジェームス・タウンに上陸して砦を建設したことに端を発して以来、それまで百数十年かけて全世界に広げた大植民地帝国となりました。1588年のスペインとの戦いではアルマダとの海戦に勝利し、3度の英蘭戦争と4度の対仏植民地戦争を戦い抜き、最終的に勝利して、イギリス帝国の隆盛を勝ち取りましたが、そこには早くも深刻な翳りがさしていました。それはアメリカ独立の動きでした。
ヴィクトリア女王時代イギリス領

カナダ 明治15年 1898 発行
アメリカ独立戦争の勃発はフレンチ・インディアン戦争終結から僅か12年後でした。

・フランスとアメリカ独立戦争。
フランスはアメリカ独立戦争(1775-1783)では独立軍を支援して、ブーゲンビル船長ラ・ペルーズ船長ラファイエット将軍ロシャンポー伯爵グラス提督デェスタイン提督バウダン船長などの率いるフランス艦隊を大西洋を越えて新大陸へと派遣し、サフレン提督艦隊を喜望峰を回ってインド洋へと派遣しました。     ラ・ペルーズの戦い→

(VIII)詳細メモへ、天然痘へ。
アメリカ独立戦争200年記念

ポリネシア 1976 発行

こちらで
切手コレクションの
フランスの王と王族 (肖像画)
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.4/5/5(2022))追記       
スタンプ・メイツ
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