United Kingdom 国連 1983 発行 |
United Kingdom of Great Britain and Northern Irelan (XI)イギリス人の南極探検大航海 Great Voyage of Britain |
大航海物語 イギリス編★ |
極地探検家 | |||
ロス大尉 |
スコット大佐 |
ROSS DEPENDENCY シャックルトン郷・スコット大佐 NZ領ロス・ディペンデンシイ 1957 発行 |
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イギリス 1972 発行 |
BRITISH ANTARCTIC TERRITORY | ||
クック船長 |
シャックルトン郷 |
ロス大尉 |
ウェッデル船長 |
ビスコウ船長 |
ライミル博士 |
イギリス南極地方 1973 発行 |
・イギリス人の南極探検大航海 コロンブスがインド到達の新航路発見のためにイギリススへ援助を申し出ましたが、時の国王ヘンリー7世は断りました。それでポルトガル、スペインと比べて新大陸への進出がとても出遅れました。なおその上にジョン・カボットが1497年ヘンリー7世の命でインドへのコロンブスとは別ルート「北西航路の探検・発見」のため、イギリス・ブリストルを出帆、カナダのニューファウンドランドへ到達、無事帰港しました。しかし、その航海では金銀財宝などの収穫もなかったので、その後大西洋を横断してジパンゴ(日本)やアジアを発見しようという話しは沙汰やみとなりました。1517年にはトマス・モアの義弟ジョン・ラステルがアメリカ渡航を企てるも準備段階で頓挫した経緯もありましたし、1527年にはジョン・ラットが大西洋を北に進み、北緯64度から針路を南に変えてスペイン領のサント・ドミンゴ島(現ハイチとドミニカのあるイスパニョーラ島)まで航海しました。これがイギリス船のカリブ海に入った最初であるとされています。ただ、この頃のイギリスはスペインと友好関係にあったことからカリブ海の島や大陸部のスペイン領にスペイン船に乗って出かけるイギリス人もかなりいました。イギリスでは、1509年、ヘンリ7世が亡くなり、その子ヘンリ8世が即位しました。1534年ヘンリ8世は王妃との離婚をカトリック教会の総本山であるローマ教皇に認めて貰えなかったことから、ローマと絶縁、独自のキリスト教会である「イギリス国教会」を創設しました。このことがローマ教皇に忠実なスペインを怒らせ、英西両国の関係は次第に悪化していったのでした。ただ、この時点ではまだ全面戦争といった事態には至っていませんが、フランスとの戦いに備えて海軍を創設し、港湾設備を整備しました。ヘンリ8世死後の1553年、エドワード6世時代にはスカンジナヴィア半島の北、すなわち北極海を通って「北西航路の発見」で中国に到達しようとの試みがなされましたが、航海そのものは失敗に終ったものの、なんとかモスクワ公国(後のロシア帝国)にたどり着いて通商の許可を得ることはできました。1563年にはプロビジャーがカナダ北部を探検航海してプロビシャー湾を発見したり、また、この前後数年間には複数の航海者が西アフリカへと繰り出し、交易や略奪で金や胡椒を手に入れました。この頃からイギリス商人による貿易や交易が盛かんとなり、先発国のポルトガル・スペインとの間で西アフリカやカリブ海で摩擦が起こってきました。中には先発国の船から掠奪を働く”私掠船”という海賊まがいの武装商船(国王が免許状を与えたものあった)も活発に出没してきました。なお、「北西航路の探検・発見」のための試みは1777年にキャップテン・クックが帆船での通過可能な航路が存在しないことを証明するまで続けられました。 参考HP:〜 ・北西航路の場所地図(現在のバフィン湾からベーリング海峡への地図) こちらで
・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.2/11/16(2020)追記 |
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グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 (XI)
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