Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)財宝輸送と対外戦争(VII-6
フンボルト男爵
1799
ラテン・アメリカ探検
アマゾン河

大航海物語
 スペイン編

MEXICO
フンボルトト男爵

1799 フンボルトの探検200年 1999
メキシコ 1999 発行


ECUADOR
アッパー(源流域)アマゾン河水系の地図
フェリペ2
1564 キト王立最高裁判所400年記念 1964
エクアドル 1964/12/6 発行
VENEZUELA
コロンビアエクアドルペルーヴェネズエラ
アマゾン河水系の地図


ヴェネズエラ 1969/12/16 発行
SURINAME
オリノコ河を描く、スリナム最初の地図

1671”W.Mogg”の古地図
スリナム 1971/10/27 発行
ECUADOR
南米とアマゾン河水系の地図

エクアドル 1961/2/27 発行
ESPANA
オリノコ川の古地図

スペイン 1968/10/12 発行

フンボルト男爵はドイツの博物学者兼探検家、地理学者。プロシアの教育相、内相であり言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトの弟で、1799年から1804年に帰国するまで南米を探検し、その体験に基づいて近代地理学の金字塔といわれる大著「コスモス」を20年かけて著し、カール・リッターとともに、近代地理学の祖とされています。また、ゲーテやシラーや、ヨーロッパ滞在中のシモン・ボリバルなどとも親交があったと伝えられています。

アレクサンダー・フォン・フンボルト男爵
 Friedrich Heinrich Alexander, Baron von Humboldt(1769/9/14〜1859/5/6)
  (Friedrich Wilhelm Heinrich Alexander Freiherr von Humboldt)
フンボルト男爵はドイツのベルリンでプロシア貴族の家に生まれ、1779年(10才)に父が亡くなり母の手で、ゲッティンゲン大学、フライベルク鉱山専門学校で学びました。ゲッティンゲン大学で、クック船長の第2回探検隊の民間人隊員だった植物学のゲオルク・フォルスター(Johann Georg Adam Forster 1754-1794)と知り合い、1790年の夏にフォルスターとロンドン(#59)に、1792年と1797年にウィーン(Vienna)に、1795年にはスイスとイタリアに地質学植物学的な、いづれも短い旅行をし、世界探検へと旅立たせるきっかけとなりました。1796/11/19に 母親が莫大な遺産を残して亡くなると、本格的な探検調査に乗り出しました。

▼フンボルト男爵の大航海と探検調査研究紀行
ラテン・アメリカ探検:〜
 (1799/6/5:ラ・コルーニャ(#12)出帆〜1804/8/3:ボルドー(#11)(帰港)
・1799〜スペイン出帆、オリノコ河とネグロ河がアマゾン河につがっているのを証明
・1800〜キューバ、カルタヘナ(#5)、マグダレーナ河、キト(#15)、リマ、アマゾン源流
・1803〜メキシコのアカプルコ(#21)、メキシコ・シティ(#32)、グァナワット(#16)、
       ヴェラクルズ(#29)、ハヴァナ(#2)、米国フィラデルフィアから帰国
ロシア探検:〜1829〜
・1829〜モスクワ、オビ河(#7)、アルタイ山脈、ヴォルガ河、ドン河からモスクワ

▼フンボルト男爵の探検遠征大航海とラテン・アメリカ調査研究紀行
  (Latin American expedition)
1799年にフンボルト男爵は公式に招かれたニコラ・バウダン船長の世界一周航海の延期で、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征(1798-1801)に参加することを望んで、フランスの探検家、植物学者のエメ・ボンプラン(Aime Jacques Alexandre Bonpland、1773-1858)と共に、マルセイユ(#89)へ向けてパリ(#53)を出発しました。しかし乗船する船が無かったので、スペインのマドリード(#14)に何とかたどり着き、スペイン首相ルイス・ド・アルキジョ(Mariano Luis de Urquijo y Muga 1768-1817)の後援を受けて、当時のスペイン領アメリカ(ニュースペイン(メキシコ)1787-1803)へ向かうことになりました。ところが、1792年に開始されたフランス革命戦争から断続的に戦争状態が続いており、おりしもナポレオン戦争(Napoleonic Wars 1803-1815)の序盤戦で第1次対仏大同盟戦争(1793-1797、第2次1798-1801、第3次1805-1806、〜第7次1815)の英仏戦争の影響で、英海軍がスペインの沿岸を封鎖中だったので、スペイン北西部の大西洋に面したガリシア州(#12)港湾都市ラ・コルーニャ(La Coruna)を、1799/6/5に嵐をついて荒れ狂う大西洋へと、フンボルトは友人で植物学の共同研究者エメ・ボンプラン(Aime Jacques Alexandre Bonpland、1773-1858)と、ピサロ号(Pizarro)でキューバへと出帆し、航海中は魚類・海藻・クラゲを採集して調査研究しました。

41日後にカナリヤ諸島テネリフ島サンタ・クルス港に到着、6日間滞在して、テネリフ島で流星雨の観察を行い、その周期性の研究は今日の天体観測の基礎となりましたが、テネリフ島の標高3718mの火山ピコ・デ・テイデ山(Pico de Teide、スペイン最高峰の国立公園でユネスコ世界遺産)の海抜1200mの所まで登頂。気温ー11℃なのに火口壁が90℃だったのに驚きました。

ヴェネズエラまであと1週間の所付近の海上で3等船客に熱病が発生。医者だったボンプランが治療にあたり、彼の勧めでマラリアの特効薬だったキニーネを求めて、行き先をキューバから、最寄りの港のヴェネズエラ北東部スクレ州(#18)クマナーに変更。この当時のキューバではペストが流行していて難を逃れました。

1799/7/16にクマナー港に到着。ヴェネズエラ東方モナガス州(#15)カリペ(Caripe)の教会を訪問して、洞窟内におる夜行性の全長45cmの鳥アブラヨタカ(油夜鷹、oil-bird)を発見 "Steatornis caripensis" と命名。クマナーに戻って、11/11-12に「しし座流星群」(レオニード、Leonids)を観察。その後、海岸線の調査を実施して世界最初の正確な地図を完成しました。ボンプランと共にカラカス(#25)へ行き、1800/2月に海岸部を離れ、4ヵ月で2,776kmにおよぶ人跡未踏のオリノコ川探検に出発し、オリノコ河とアマゾン河水系の調査・確立という偉業を成し遂げました。

参考HP:〜
ヴェネズエラ北東部スクレ州クマナーの地図(Cumana)
フンボルトのラテンアメリカ探検地図(1799-1804)






★フンボルト物語
1800、オリノコ河とネグロ河が
カシキアレ川で
アマゾン河に繋がっていることを証明

大航海物語
  スペイン★
DHUTSCHE BUNDESPOST
フンボルト男爵

1859 フンボルト没後100年記念 1959
ドイツ 1959/5/6 発行

フンボルトの大アリクイ親子


フンボルトのパロット魚
COLOMBIA
フンボルトの蜘蛛サル


フンボルトのナマケモノ
1859 フンボルト没後100年記念 1959
コロンビア 1960/2/12 発行

▼オリノコ河からネグロ川を探検調査:〜
1800/2月にフンボルト男爵は海岸地帯を離れ、オリノコ川へと出発。
南米大陸の奥地で、オリノコ川とアマゾン川が支流で結ばれていると断定し、様々な動植物の調査を行いながら、陸上をロバに荷物を積んで西方のヴェネズエラ・カラカス(#25)へ、そして大平原(草原)を南へ横断、オリノコ河支流アプーレ川畔のサン・フェルナンド村(#3)に到着。オリノコ河がネグロ川に合流して、アマゾン河に繋がっているのを確かめるため、村を出発。乾燥サバンナ草原(雨季は湿地帯)を抜けて、1800/3月(クマナー(#18)到着の8ヵ月
アマゾン河源流域の地図
後)にオリノコ河に到着。1800/3/19頃にデンキウナギ(電気鰻Electrophorus electricus、エレクトリック・イール:Electric eel)に感電ショックしながら捕獲・解剖して電気発生細胞を発見しました。オリノコ河を伝って進みながら、フンボルト男爵は川幅を正確に測り(4km〜雨季は11km)、ボンプランは植物採集(3500種を発見、当時の種が2倍になる)を続けました。オリノコ河上流の小さな島の砂州に70kg位の亀が産卵に集まっているのを観察、100万匹はいると計算。さらに上流域は325人のスペイン人が50年前に道に迷って13人しか生還できなかったカシキアレ(グァヤキル)川の存在を報告したことや、200年前にスペイン兵ローベ・ド・アギーレが航行したり、1639年にクリストバル・デ・アクーニャ神父が確かめたとの情報を得ていたので、確信をもって溯上を続け、カシキアレ川に着き、川を昼は屋根なしの筏風ボートで進み、夜は川岸でキャンプしながら進みました。

数日後、丸木船(9mx90cm)に乗り換え、オリノコ川上流の急流では丸木舟を担いで進む。アタバポ川で本流から離れ、黄色い水のピミチン川へ行き、黒い水のネグロ河に到着。カシキアレ川へと進み、カシキアレ川は北緯2度0分4秒でオリノコ河と合流と測定。その後、ネグロ河に着きました。南方のポルトガル領が危険だと警告を受けていたので、ネグロ河沿いにアマゾン河に行くのを止めて、アギーレのルートでクマーナへ戻ることにしました。帰途で、オリノコ河に出てアトリベで「死者の洞窟」を調査、標本用人骨を収集していると、随行のインディオが恐怖に震えおののいていました。途中でボンプランがマラリアに感染し、フンボルト男爵はチフスに感染、熱に浮かされながらもクマーナに到着し オリノコ河の地図
ました。冒険旅行で採集した標本を4隻の船に分けて欧州へ発送するも、植物の標本を積んだ1隻のスペイン船は遭難で到着せず、他の船の生きた標本は全部が死んでしまっていました。フンボルト男爵の指示で数ヵ月かけてコピーを作成していたのが、後に役立ちました。

オリノコ河の冒険旅行後の1802/11/24にキューバへ渡り数か月過ごして、コロンビアのカルタヘナ(#5)へ戻りました。雨季で大増水したマグダレナ川(Rio Magdalena)を調査し、その後、アンデスへ行くことにしてコロンビアからアンデス山脈伝いにペルーまで困難な探検を行い、エクアドルではアンデス山系コルディレラ・リール(Cordillera Real、別名:キトのコルディレラ:Cordillera of Quito)と呼ばれる火山帯を調査しました。アンデス山脈のエクアドル最高峰で首都キトから南南西に150kmの赤道直下の凍てついた山チンボラソ火山(Pichincha Volcano、標高6,310m)に登頂するも18mある深い割れ目に遭遇して、あと450mという所(5,700m、当時の世界最高登山記録の地点)で引き返し、1802/1/6にエクアドルの首都キト(#15)に到着。困難な調査旅行のすえに、リマに戻り、かつてのインカの都カハマルカを訪問しました。そして港湾都市カヤオ(Callao)へ行き、1802/11/9に水星の日面通過(Transit of Mercury)を観察。海岸地帯でグァノ(guano)の標本を採集。その後、フンボルト寒流を調査、これがペルー海岸低地の「湿った深い霧、深い気候」の原因であることを発見確認して、リマの地理学的調査を実施。エクアドル南西部のグゥワヤキルでのコトパクシ火山の噴火を目撃しました。そして、ペルー沿岸を流れる海流の調査をしたことに因んで、フンボルト海流(Humboldt Current、別名ペルー海流: Peru Current)の名がつけられました。

その後、大嵐に遭遇しながらメキシコへ行き、1年間留まり各都市を訪問して「新スペイン王国の政治論考」を著述。そして米国への短期旅行に行きアメリカではトマス・ジェファーソンの客人で3週間滞在。デラウェア川(Delaware River)河口のフィラデルフィア港から出帆して、大西洋を横断しフランスのジロンド県(#11)のボルドーに1804/8/3に帰港・上陸しました。

▼その後
南米からの帰国後、フンボルトはイタリアのベスビオ火山の調査研究を行い、1807年にベルリンで「自然の風景」を出版、それまでの研究成果をまとめるためにパリに居を定めて定住し、美しい文章で20巻の著述(旅行記)「コスモス」を20年かかって書きあげました。これこそがラテン・アメリカでの体験を活かして、従来は互いに独立していた思われていた動植物の分布と、緯度や経度あるいは気候などの地理的な要因との関係を説き、近代地理学の方法論の先駆的業績(Achievements of the Latin American expedition)ともいえるものそのものでした。この頃になると、フンボルトの名声はヨーロッパ中にとどろき、ナポレオンに次いで有名な人物とも言われました。大著のコスモス(Cosmos)の第1巻は1845年に、第2巻は1847年に発表されました。

既に1794年までにフンボルトは、全ての生命の形態と自然環境との関係を説く「世界の自然」を考えていたといわれており、彼は熱帯アメリカの山地における調査によって自然地理学と地球物理学の基礎を築きました。フンボルトは地形、気象、地磁気の研究に様々な化学的器具を用い、植物とその環境との関係を調査して6万種に及ぶ膨大な標本を収集しましたが、その中には数千種に及ぶ新しい種や属が含まれていました。フンボルトの写実的記録が科学の分野に大きな功績を残したことに疑う余地はなく、等温線図の作成(1817年)により、彼は様々な国の気候条件を比較する考えや方法を示し、また初めて海抜高度の増大に伴う気温の減少率を明らかにし、あるいは熱帯性暴風雨の起源を追求して高緯度での大気の擾乱を支配する複雑な法則を発見する手がかりを得ました。さらに植物学に関する彼の論文は、有機体の分布が異なる自然条件に影響されるという、当時としては全く新しい考えに基づいたものでした。また、地球の磁力の強さが極から赤道に向かって減少することを発見したのもフンボルトでした。

1857/2/24に脳梗塞(のうこうそく、cerebral infarction/stroke、別名:脳軟化症)で倒れ、1859年にベルリンで89才の生涯をとじて亡くなり、国葬が執り行われました。

▼その後のボンプラン
エメ・ボンプラン(Aime Jacques Alexandre Bonpland、1773-1858)は自然史の教授となるためにブエノスアイレス(#1)に渡り、アルゼンチンで農場を始めるも、またもや南アメリカ中部の探検に向かいました。1821年にボリヴィアを旅行中にパラグアイの独裁者のホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア(Jose Gaspar Rodriguez de Francia y Velasco、1766-1840)の軍隊に捕まり拘束されました。パラグアイのミシオネス県(#14)サンタ・マリーア村に1831年まで10年間も拘留され、1829年に放免となりました。解放された後、アルゼンチンのコリエンテス(Corrientes)州(#7)のサン・ボルガル(San Borga)に住み、1853年にサンタ・アナ(Santa Ana)に移りました。その後、フランスに帰国して、60才のフンボルトと再開。その後にまたもや再度南米へ渡り、1858年にアルゼンチンのコリエンテス(San Francisco de Borja:Corrientes、#7)にて84才で亡くなりました。

参考:〜
・カシキアレ川
 Casiquiare canal

カシキアレ川はオリノコ河(Orinoco)から南流してネグロ河(Rio Negro)に流れ込みアマゾン河 (Amazon)に合流、オリノコ河とアマゾン河の間のユニークな自然の運河を形成。ネグロ河はマナウスでアマゾン河に合流。

1600年頃にカシキアレ川をスペインのローベ・ド・アギーレが航行に成功。1639年には旅行者クリストバル・デ・アクーニャ(Cristobal Diatristan de Acuna、1597-1676、Spanish missionary and explorer.)がこの川の存在を確認。

1750年頃に325人のスペインの探検隊がオリノコ河とネグロ河の合流点を探しに行き、生存者の13人が生還。
オリノコ川の地図

参考HP:〜
・コロンビアのマグダレナ川の地図
オリノコ河の地図
カシキアレ川(自然の運河)の地図:〜オリノコ川とネグロ河を繋ぐ自然の運河(赤)
ネグロ河の地図
アマゾン河の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2009/6/30、令和7年 2025/5/25
スタンプ・メイツ
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