France

国連 1980 発行
 切手で綴る フランス革命 (No.1)
フランス大革命
1789/7/14
バスティユ牢獄襲撃・革命勃発

大航海物語
フランス編

REPUBLIQUE FRANCAIES
バスティーユ牢獄襲撃、1789

フランス 1971 発行

グルノーブル 屋根瓦の日. 1788/6/7 フランス大革命200年記念 三部会の招集を決定, 1788/7
Day of the Tile(Barricades),Grenoble フランス 1988/6/18 発行 Assembly of the Three Estates,Vizille

フランスの人権宣言、1789

フランス人権宣言 200年 記念
フランス 1989/7/7 発行

・フランス大革命
 (French Revolution, 1789/7/14-1795/8/22)1799/11/10説有
フランス大革命はフランス王国(Kingdom of France, 987-1792)で起きたブルジョア(市民)革命。革命記念日(パリ祭)はフランス共和国の建国記念日でもあり、毎年7/14に祝われています。
---------目 (MENU) 次--------
初めに
グルノーブル屋根瓦の日(1788/6/8)
三部会の召集決定(1788/7月)
アンシャン・レジーム(旧制度)
三部会の召集(1789/5/1)
テニスコートの誓い(1789/6/20)
フランス大革命勃発(1789/7/14)
人権宣言採択(1789/8/26)

ヴェルサイユ行進(1789/10/5)
ヴァレンヌ事件(1791/6/20)
1791年憲法(1791/9/3)
革命戦争(1792-1802)
アミアンの和約(1802/3/25)
8月10日事件(1792)
共和政の成立(1792/9/21)
ルイ16世の処刑(1793/1/21)
ジャコバン独裁(1789-1794)
テルミドール9日(1794/7/27)

その後
フランス7月革命(1830)
フランス2月革命(1848)
三色旗(1794/2/15)
キリスト教
メートル法
フランス革命暦
ギロチン
人名リスト
ヴァルミーの戦い

ジョルジュ・カドゥダル
ヴァンデの反乱
-------フランス革命の流れ------
<フランスの推移>
 ・フランス立憲王国
 ・第一共和制
 ・第一帝政
 ・王政復古(ブルボン朝)
1791/09/03〜1792/09/21(ブルボン朝)
1792/09/21〜1804/05/18
1804/05/18〜1814/04/11, 1815/3/20-6/22 百日天下
1814/04/11〜1830/07
<フランス行政府の推移>
・全国三部会 1789/05/05-1789/06/17
・国民議会 1789/06/17-1789/07/09
・憲法制定国民議会 1789/07/09-1791/09/30
・立法議会 1791/10/01-1792/09/20
国民公会 1792/09/20-1798/11/02
・総裁政府(5人 1798/11/02-1799/11/10
統領政府(執政政府3人) 1799/11/10-1804/05/18
(諸説有)
・初めに
その頃の社会構造は、ヨーロッパでは14世紀以降の戦乱の続発とともに、ペスト(黒死病)の流行もあって、ヨーロッパの人口は減少したため、農民の地位は相対的に向上し、農民保有地の広がりともあいまって、農奴身分から解放されはじめていました。18世紀末のフランスはヨーロッパで最も人口の多い国(約2,600万人1789)で、1788年に国の大部分で不作が発生して農民は苦しんでいました。社会構造はというと聖職者・領主・農奴というような重農主義による封建制度は徐々に弱体化して、支配者層の国王・聖職者・貴族と、都市住民・農民という絶対王政のもとで、15世紀末のコロンブスの新大陸発見から始まった大航海時代以降のアメリカ銀(ポトシ銀山など)の西ヨーロッパへの大量流入による急激な物価上昇(価格革命)で貨幣経済が進展していました。都市住民の中にはブルジョア(商人・製造業者・専門家など)と呼ばれる庶民が裕福になっていました。ブラジルでの新しい金鉱の発見は1730年頃から価格の全般的な上昇をもたらし経済が繁栄していました。
フランス共和国の象徴
マリアンヌ女性像


フランス 1945/3/12 発行
ところが1770年頃から、この傾向は緩み、経済危機や反乱さえも頻繁になりました。ヴォルテール・ルソーなどの啓蒙思想や社会改革・政治的・社会的・経済的問題についての議論が進みはじめ、政治危機が起こりました。18世紀の戦争に伴う多額の支出に直面して、フランスの支配者の国王は、これまでほとんどの国で免除されていた貴族や聖職者に課税することで資金を調達しようとしました。それが貴族たちの反発を引き起こして100年以上も召集されていなかった三部会の開催が実現して、国王の独裁が揺るぎました。北米ではこの反発がアメリカ独立戦争を引き起こしました。アメリカ独立戦争はイギリス国王が課した税金の支払いを拒否(ボストン茶会事件)して始まりました。

・フランス大革命は何故起ったのか?
その頃のフランス国王は国民から重い税金をとって贅沢な暮らしをし、その上に戦争で大金を使い、兵士の国民を犠牲にしていました。フランスはルイ13世ルイ14世以来の対外戦争に続いて、アメリカ独立戦争への参戦で出費がかさんだにもかかわらず、王宮では贅沢な生活が続き、財政困難が表面化。ルイ16世は財政家のローヌ男爵テュルゴーや、第三身分の銀行家ネッケルなどを財政改革に当たらせるも、根本的な改善にはなりませんでした。行き詰まったルイ16世政府は全国三部会を招集して第一・第二身分に対しても課税することを要請することにしました。
      ルイ16世

ジャージー 1989/7/7 発行
それで、1789/5月に開会された三部会は革命の最初の舞台になりました。またそれまで一定の支持を受けていたネッケルを罷免したことでパリ市民に大きな不安が広がり、それが引き金となって、1789/7/14のバスティーユ襲撃事件が起きました。
フランス(ブルジョア)革命は、封建的な残留物(身分制や領主制)を一掃し、 資本主義の発展(法の下の平等・経済的自由・自由な私的所有など)、資本主義憲法の確立(人民主権・権力分立・経済的自由権などの人権保障を中心とする原理・例フランス憲法)を成し遂げました。フランス革命はアメリカ独立革命とともに、ブルジョア革命の典型的事例です。フランスでは旧支配者(宗教家・君主・貴族)の抵抗がきわめて激しかったため、諸々の階級の対立・闘争が最も表面化しました。 バスチーユ牢獄の襲撃

フランス革命200年記念
ジャージー 1989 発行
・革命への発端:〜
 ・徴税に貴族が反対
  公平な税金を払うのを嫌がった貴族が、徴税に反対して
  自分達の存在に一番必要な王政を破壊する発端を作る。
 ・三部会開催は国民議会へ
  国王を除く全ての身分の人々が、自分達の身分のために
  1614年以来開会されていなかった三部会の召集を望み、
  それに屈服する形で国王は三部会を召集。そして三部会は国民議会へ発展。
 ・ 国民議会成立
  三部会は国王と対立しながら、国民議会を成立させ、
  「テニスコートの誓い」で憲法の制定を強く誓い、
  国王は議会に対抗するため、軍隊をパリとヴェルサイユに集結させて緊張が高まる
 ・などなど。
また、フランス大革命はブルボン絶対王政(Bourbon dynasty, 1589-1793)を倒した市民(ブルジョア)革命で、封建的特権の廃止・人権宣言・王政廃止・憲法制定などを実現して共和政を実現しました。王政とそれを支えた貴族階級に代わりブルジョワ階級が権力をにぎるも、革命の過程で急進派と穏健派が分裂、ロベスピエールによる恐怖政治が行われ、周辺の君主制国家からの介入もあって革命政権は動揺し、1799年にナポレオンの軍事独裁政府が成立。革命は長期にわたり複雑な経緯を経るも、基本的にはアメリカ独立革命、そして並行して展開されたイギリス産業革命(Industrial Revolution、18世紀半から19世紀にかけて 世界最初の蒸気機関、1830

イギリス 1974 発行
起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命でそれにともなう社会構造の変革)と共に市民社会への移行で、近代の出発点としての重要な歴史的画期的な時になりました。フランスは1786年にイギリスと英仏通商条約を結び貿易の振興を図るも、すでに産業革命が始まっていたイギリスの安価な工業製品がフランスに流入してフランスの国内産業が打撃を受けていました。

・グルノーブルの屋根瓦の日
 (Day of the Tiles, 1788/6/8)
1788/6/8にグルノーブルの高等法院が国王に反発すると、王はパリ高等法院を閉鎖させ、軍隊を出動させたので、市民はこれに反発して城門を閉め、家の屋根から手当たり次第に石や瓦を軍隊に投げつけました。この勢いに軍隊は撤退しました。これが「屋根瓦の日」と呼ばれています。
グルノーブルの屋根瓦の日

・ブリエンヌの「三部会の召集」の決定
 (Assembly of the Three Estates,Vizille)
 (Brienne、Estates General, 1788/7)、三部会は国民議会に発展
旧体制(アンシャン・レジーム)最後の宰相シャルル・デ・ブリエンヌは貴族と第三身分との連合戦線の前に屈服せざるをえませんでした。1788/7月には、翌1789/5/1に国王の諮問機関の全国三部会を召集する約束をしまし
三部会の召集決定
た。しかし、このような決定も破産に瀕した国家財政を救済することはできず、ブリエンヌ宰相は病院用の基金に手をつけたり、いろいろ努力するも、国庫の支払いを停止しなければならなくなりました。1788/8/24にブリエンヌ宰相は国王に辞任を申し出ました。翌日、代わりに第三身分のネッケルが呼び戻されました。ネッケルは全国三部会は、ブリエンヌ宰相の決定した日に召集することを条件としました。宮廷はこの条件をのみました。高等法院を廃止する司法改革で自分なりの改革を行おうとした宮廷の「目論み」は、高等法院を中心とした「貴族の反乱」で完全に頓挫するも、三部会を開催しようと手を結んでいた高等法院と民衆は、三部会の召集が決定されると、とたんに対立が始まり、市内では「第三身分とはなにか」などのパンフレットが溢れ、三部会への期待が高りました。

・アンシャン・レジーム(旧制度)
 (Crisis of the Ancien Regime)16-18世紀
アンシャン・レジーム(Ancien Regime、古い体制)とは、フランス革命以前のブルボン朝、特に16〜18世紀の絶対王政期のフランスの社会・政治体制(歴史用語)で、フランスでは18世紀後半に至っても、ブルボン朝による絶対君主制の支配(アンシャン・レジーム)が続いていました。アンシャン・レジーム下では国民は三つの身分に分けられて
・第一身分の聖職者が約14万人
・第二身分の貴族が約40万人
・第三身分の平民が約2,600万人いました。
第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていました。一方でアンシャン・レジームに対する批判も、ヴォルテールやルソーといった啓蒙
ルイ14世

フランス 1970 発行
思想家を中心に高まっていました。自由と平等を謳ったアメリカ独立宣言(1776/7/4)もアンシャン・レジーム批判に大きな影響を与えました。

・三部会の召集
 (Estates-General of 1789, Versailles, 1789/5/1)
1780年代のフランスでは45億ルーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていました。赤字が膨らんだ主な原因は、ルイ14世時代以来の対外戦争の出費、アメリカ独立戦争への援助、宮廷の浪費でした。当時の国家財政の歳入は5億ルーブルであり、歳入の9倍の赤字を抱えていました。1789年6月に三部会(各身分の代表から構成される身分制議会)を召集しました。国王は三部会を主導して問題解決を目論んでいました。しかし重税に苦しむ第三身分の鬱積はすでに頂点に達しており、複雑化・多様化した国内事情ゆえ、従来の身分制では問題を解決
ラファイエット将軍

アメリカ 1977 発行

できませんでした。第一・第二身分の中には民衆に恩を売ることで、将来民衆の時代がやってきたときに権力を握ることを狙い、民衆に味方するものが少なからずいました(例ラファイエット将軍)。議決方法をめぐった討議は、40日間も堂々巡りが続きました。

・球戯場(テニスコート)の誓い
 (Tennis court oath, 1789/6/20)
議論が進まないことに愛想をつかした第三身分の代表達は、三部会に見切りをつけ、自分達だけの議会「国民議会」を発足させました。そしてヴェルサイユ宮殿の室内球戯場に集り、憲法を制定することと国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しないこととを誓いました(テニスコートの誓い)。ただし、ミラボーや一部の議員の中には、国王の承認なしに議会をフランスの代表とすることに懸念を示す者もいました。第一・第二身分代表中にもアンシャン
パリ
フランス 1938 発行
レジームが時代遅れである事を理解している者がおり、そうした者たちも国民議会に参加しました。国民議会との軋轢を避けたいルイ16世も、国民議会を正式な議会として承認し、王の説得により他の第一身分・第二身分の議員も合流しました。承認を得た国民議会は憲法制定に着手しました。内心では国民議会を承服しかねるルイ16世ではありましたが、事態を収拾し、改革の芽を残すには止むを得ない手段でした。特権貴族や王族はこれに反対し、第三身分に圧力をかけるため、軍隊をヴェルサイユとパリに集結させることを国王に強要しました。

・フランス大革命勃発
 火薬庫バスティユ牢獄襲撃
 (Storming of the Bastille, 1789/7/14)
国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、7/13に国民に人気のあったネッケルが罷免されました。これに怒った民衆は、1789/7/14に、当時は火薬庫だったバスティーユ牢獄を襲撃しました。パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火して暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生しました。
バスティーユ牢獄

フランス革命200年記念
ロシア
(ソ連) 1989/7/7 発行

・人権宣言採択
 (国民議会, 1789/8/26)
 (Declaration of the Rights of Man and of the Citizen
バスティユ牢獄襲撃などの動きを受け、国民議会は8/4に封建的特権の廃止を宣言し、8/26に人権宣言を採択しました。この時点ではまだ国王が主権者であったので、法律の制定には国王の承認が必要でした。しかしルイ16世は、民衆が主導する法令を理解出来ず、これらの宣言を承認しませんでした。マリー・アントワネット妃は第三身分を侮蔑しており、国王の周囲は強硬派で占められていたのでした。
フランスの人権宣言

・ヴェルサイユ行進
 (Women's March on Versailles, 1789/10/5)
パリで数千の女性達が武器を持って雨の中パリ市役所前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入、国王と議会に食糧を要求、ルイ16世はこの圧力により人権宣言を承認し、彼女等に連れられてパリのテュイルリー宮殿に家族と共に移り住み、これ以降、ルイ16世一家はパリ市民に監視されて暮らすことになりました。この時期の革命は穏健なミラボー伯爵ラファイエット将軍ら立憲君主制派によって指導されていました。
世界遺産 ヴェルサイユ宮殿

日本 2014 発行
市民軍は自由主義貴族のラファイエット将軍を総司令官に任命し、1790年にラファイエット将軍の提案で三色旗(現在のフランスの国旗)が革命の旗となりました。

・ヴァレンヌ事件(国王一家ヴァレンヌ逃亡)
 (Flight to Varennes, 1791/6/20-21)
革命勃発で貴族や聖職者など特権階級の多くが国外へ亡命を始めていました。1791年、国王と民衆との仲介者であったミラボー伯爵が亡くなると、過激化する革命を嫌ったルイ16世は、マリー・アントワネット妃の愛人であるスウェーデン貴族フェルゼンの助けを借り、王妃の実家であるオーストリアへ逃亡しようと企てました。6/20にルイ16世一家はパリを脱出するも、国境手前のヴァレンヌで国民に見つかり、6/25にパリへ連れ戻されました。
ヴェルサイユ宮殿の門

フランス 1952 発行
この事件はフランス国民に衝撃を与え、同時にルイ16世の反革命思考が暴露されました。革命の波及を恐れるオーストリアとプロイセンとがピルニッツ宣言(Declaration of Pillnitz, 1791/8/27)を発表し、ルイ16世の地位を保証しないと戦争をしかけると脅したので、ルイ16世は国王に留まることとなりました。しかし、それまでは比較的多数を占めていた国王擁護の国民からの支持を失いました。9月に正式に憲法が制定されました(1791憲法)。この憲法は立憲君主制を採用しており、また平民であっても一定以上の税金を納めたものには選挙権を認めました。10月になると最初の選挙が行われ、新しい議会「立法議会」が成立しました。立法議会では、立憲君主制を守ろうとする穏健勢力のフイヤン派と、国王なしの共和制を主張するジロンド派の2派が力を持ちました。ジロンド派は裕福な商工業者をはじめとした上・中層の市民階級(ブルジョワジー)を支持層としていました。

・1791年憲法(フランス最初の憲法)
 (French Constitution of 1791, 1791/9/3)憲法制定国民会議
この憲法は前文に人権宣言を持つ7編210条のフランス最初の成文憲法
1789年以来のフランス革命第一段階の成果を集大成し、
 ・旧体制を否定して自由主義と国民主権の原理を掲げ
 ・国家形態は立憲君主政、国王を認め
   行政権(議院内閣制ではない内閣)立法に対する拒否権
 ・三権分立で権力の集中を防止(モンテスキュー
    ・立法権〜議会(一院制)
    ・行政権〜国王(内閣)
    ・司法権〜裁判所(選挙人の選挙)    
共和国の象徴マリアンヌ
Marianne


フランス 1945 発行
 ・議会は制限選挙の一院制、市民は財産の有無(納税額)によって持てる者の支配を確保
  ・能動的市民〜参政権を認める(シトワイヤン・アクティヴ:citoyen 市民 citizen active)
    25才以上の男子の約70%の内の裕福な約5万人を選挙人として選び
    選挙人が議員・県議会議員・郡議会議員および裁判官を選挙する二段階方式
  ・受動的市民〜参政権は無(シトワイヤン・パッシヴ:citoyen 市民 citizen pacive)
など、フランス革命の「自由・平等・博愛」の理念を推し進める市政は見られず、後退した内容。
ようするに基本的性格は民衆の急進化を抑え、ブルジョアーの階級的支配の秩序を守るための憲法で
有権者は約430万、選挙人数は約5万人と推定。テニスコートの誓い以来、国民議会は憲法制定を表明、さらに7/9には国民議会は憲法制定国民議会と改称し、立憲体制確立に着手。7/14にバスティーユ襲撃でフランス革命が始まり、フランス人権宣言が採択され、さらに聖職者民事基本法の制定などの曲折をへて1791/9/3に初めて憲法が採択された。
フランスは立憲君主制に移行して王権神授説は放棄され、国王は「国民の代表者」とし歳費を貰う一官吏として規定された。しかし、国王は行政権をもち、内閣閣僚を議会外から任免することができ、議会の立法権に対し拒否権を持っていた。立法議会は一院制で、745人の議員から構成され、任期は2年で、選挙制度は一定の納税者(能動的市民)が5万人を選挙人として選び、選挙人が立法議員、郡・県議会議員および裁判官を選挙する制限選挙かつ間接選挙で、国民の大半を占める農民や貧民(受動的市民)は政治から排除され、彼らの不満を受けた。司法権は裁判所が有し、裁判官の売官制は廃止され公選となり、陪審制を導入。地方行政制度は、全国を83の県に分け、さらに地区、カントン、市町村に区分。後の憲法と異なり国民投票には付されず、国王の裁可で効力を持った。内容は、革命派と反革命派との妥協の産物で、革命の混乱の終息が目的の憲法。そのため、この憲法で10月には立法議会が組織されるも、革命の混乱に翻弄され、テュイルリー宮殿襲撃(1792年8月10日事件)によって、1791年憲法は事実上破綻。
・参考:〜
能動的市民と受動的市民とを分けて制限選挙を採用する1791年憲法をはじめ、新地方行政制度・アッシニア紙幣の発行・教会を国家に従属させる聖職者民事基本法(1790/7)・その他・行政や財産に関する法がひとつひとつ審議され、次々と決定された。この集成とその全体を、1791年憲法体制という。こうした自由主義的な立憲君主制が軟着陸するためには、国王側がこれに協力することが条件となっていたが、革命側からすれば、これが不確実なものと把握された。
リョン(Lyon)

フランス
 1949 発行
議会が二院制論をしりぞけ、立法府の執行府に対する優位を強調して国王拒否権に難色を示したのも、宮廷に対する疑念から発していた。事実、1789年10月の、いわゆる「ヴェルサイユ行進」(十月事件)以来、国王ルイ16世はオーストリアやスペインのブルボン朝宮廷に行動費の援助と列強による支援を要請する一方、聖職者民事基本法をめぐる宗教界の紛糾を利用してフランス国内を分裂に導こうとした。とくに1790年夏にはフランス南東のジャレスに2万5,000人におよぶ反革命の農民ゲリラが組織され、国王がリヨンに脱出するのをまって内戦にもちこむ計画が立てられた(リヨンの陰謀、Nancy affair, 1790夏)。一方、国民議会は制限選挙に反対する民主派からも攻撃を受けた。1790年6月のパリの市政改革により、従来の60地区(ディストリクト)を改変して48のセクションに行政単位が再区画されたが、従来、ディストリクトの会議に出席できたパリの民衆は、受動的市民としてセクションの会議から閉め出されたため、サン・キュロットは組織を失い、コルドリエ・クラブをはじめとする各種の人民クラブを設立し、1791年6月にはパリでその数17におよんだ。農村においても、領主制廃止が農民にとってはかなり重い有償方式を採用しているため農民解放の進捗は遅々たるものであり、それに加えて聖職者の土地財産の払下げ(第一種国有財産売却)が農民にとっては不利な競売方式だったため、1790年から農民一揆が再び各地で頻繁に発生するようになった。アッシニア債券は、1790年春から紙幣として流通し、乱発されてインフレーションとなり、物価高騰を引き起こして民衆生活は困窮の度を深めた。1790年8月のナンシー連隊の兵士反乱(ナンシー事件, 1790/8/31)は、以上のような政治的・財政的な不安定性が愛国派による革命方式の破産を露呈させる最初の事件となった。これにより、ラファイエットは支持を失い、かわってバルナーヴ、ラメット、デュポールら三頭派が主導権を握るも、そのかれらも1791/6月の国王逃亡事件(ヴァレンヌ事件)によって苦境においこまれ、三頭派の革命方式もまた破産が明白となった。

・革命戦争(1792/4/20-1802/3/25)
 (French Revolutionary Wars, 1792-1802)
 (オーストリアへ宣戦布告〜アミアンの和約
ピルニッツ宣言や王党派亡命貴族(エミグレ)による扇動活動は、革命政府に対する重大な脅迫であると受け止められました。ジロンド派内閣は革命維持のため対外戦争に踏み切りました。1792年4月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告しフランス革命戦争(1792-1802)が勃発するも、フランス軍の士官達は貴族階級
野戦砲(砲兵)

フランス 2004/6/28 発行
なので革命政府に協力的ではなく、フランス軍は各地で戦いに敗れました。マリー・アントワネットにいたっては敵方にフランス軍の作戦を漏らしていたとも伝えられています。プロイセン軍が国境を越えてフランス領内に侵入すると政府は祖国の危機を全土に訴え、それに応じてフランス各地で組織された義勇兵達(Volunteer Battalions)がパリに集結しました。このときマルセイユの義勇兵が歌っていた歌ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)は後のフランス国歌となりました。
港都マルセイユ市街地

フランス連盟切手収集協会第75会議マルセイユ開催記念
フランス 2002 発行
・アミアンの和約
 (Treaty of Amiens、1802/3/25)
アミアンの和約はナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1799-1815)中にイギリスとフランス第一共和政(French First Republic、1792-1804)との間で、フランス北部のオー・ド・フランス地方ソンム県アミアン(Amiens, Somme Department, Hauts-de-France Region, France)において締結された講和条約。詳しくはこちら

・1792年「8月10日事件」
 (Insurrection of 10 August 1792)
 別名:テュイルリー宮殿襲撃(Capture of the Tuileries Palace)
パリ市民と義勇兵は、フランス軍が負ける原因は戦争に非協力的なルイ16世にあると考え、8月10日にテュイルリー宮殿を攻撃し、王権を停止して国王一家を全員タンプル塔に幽閉しました(8/10日事件)。フランス軍はヴァルミーの戦い(9/20)を期に反攻に転じ、敵軍を国境外まで押し戻しました。この過程で義勇兵に参加した多くの下層民階級
仏エリゼー宮殿

Elysee Palace(大統領官邸)
フランス 1959 発行
サン・キュロット)の政治的発言権が急速に増大しました。サン・キュロットは急進的政策を掲げるジャコバン派を支持し、革命は左翼化して、ジャコバン派にはロベスピエール、マラー、ダントンなどが所属していました

・共和政の成立(フランス第一共和政)
 (French First Republic, 1792/9/21-1804/5/18, ナポレオンの帝政宣言まで)
1792/9月に立憲君主制の憲法である「1791年憲法」に基づいていた立法議会が廃止されました。そして財産や納税額によらず全ての男子に選挙権が与えられる普通選挙が制度化され、選挙によって新しい議会の国民公会の議員が選ばれました。国民公会は1791/9/20のヴァルミーの戦い勝利の翌日の1792/9/21に王政廃止とフランス第一共和政の樹立を宣言。共和国政府はルイ16世を革命裁判にかけました。国王が戦争の際にフランス政府と国民を裏切っていた証拠証拠が数多く得られ(実際には無策に近く、王妃の外敵通牒が響いた)、国民公会は賛成387対反対360の僅差でルイ16世の死刑を議決しました。なお、死刑猶予票は26票あり、 民衆を率いる自由の女神
La Marseillaise

フランス革命200年記念
ロシア
(ソ連) 1989/7/7 発行
これを引くと361票となり、ルイ16世の死刑採決はかなり際どかったようです。

・ルイ16世、マリー・アントワネット妃の処刑
 (Execution of Louis XVI, 1793/1/21)
市民2万人が見守る中、ルイ16世はパリ革命広場(Place de la Revolution、コンコルド広場)へ馬車(キャリッジ:carriage、仏カロス:carrosse)で連れていかれギロチン処刑されました。10月にマリー・アントワネット妃も、フランスの未亡人女性が着る無地の白ドレスを着せられて後ろ手に鎖で繋がれ開いたカート荷車(シャレット:Charrette)に座らされて市中を引き回された末にギロチン処刑されました。チャド 1971 発行)
ルイ16世
マリー・アントワネット妃

・ジャコバン独裁・恐怖政治(Reign of Terror)
 (Jacobin Club, 1789/11-1794/11/11)
ルイ16世の処刑はヨーロッパ各王国を震撼させ、イギリス・スペイン・サルデーニャ王国なども反革命に立たせることになりました。イギリスを中心に第一次対仏大同盟が結成され、各国の軍がフランス国境を越えました。革命政府は”30万人募兵”(1793/2/24)を布告するも、これへの反発から”ヴァンデの反乱”(1793/3/10-1796/3)が発生し、王党派と結
マラー、ロベスピエール、ダントン

ロシア 1989 発行
びついて拡大しました。テロリズムも続発して国内情勢は不安定になりました。これらの危機に加え、ジロンド派が下層市民の食糧危機に対して何ら政策を講じないことを宣言すると、下層市民の怒りが爆発しました。6/2に下層市民の支持するジャコバン派が国民公会からジロンド派を追放してロベスピエールが権力を掌握し、ジャコバン派は独裁政治を開始しました。仏統治機構の公安委員会(Committee of Public Safety 1793/4/7-1795/11/4)保安委員会(Committee of General Security 1792/10-1795/後半)革命裁判所(Tribunal revolutionnaire 1793/3/10-1795/5/31)などの機関を通して恐怖政治を実行し、反対派を次々とギロチンに送りました。さらにロベスピエールは、派内極左のエベール派と右派のダントン派を粛清して、自己の理想とする独立小生産者による共和政の樹立を目指しました。恐怖政治で約17,000人が死亡、10,000人が刑務所内または裁判なしで死亡したと推定。諸外国との戦争は、8/23に国家総動員を布告して徴兵制度を実施し、軍備を整え反撃に成功しました。(キブロンの戦い勝利はこちら

・テルミドール9日のクーデター日
 (Fall of Maximilien Robespierre, 1794/7/27)
 (フランス革命暦2I年テルミドール9日)
恐怖政治で自らの生命をも脅かされていた反ロベスピエール派は密かにその打倒を計画しました。1794/7/27(フランス革命暦テルミドール9日)午前11時、国民公会に側近のサン・ジュストを伴って出席したロベスピエールは議長デルボワや議員タリアン、ビョーヴァレンヌらによって糾弾されました。場内から「暴君を倒せ」と野次が上がる中、タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求し午後3時、ロベスピエール、クートン、サン・ジュスト、ル・バ、ロベスピエール弟オーギュスタンらを逮捕する決議が通過しました。翌28日にロベスピエールら22人はギロチンで処刑されました。

・その後
<行政府の推移など>
国民公会(National Convention, 1792/9/20-1795/11/3)
  ・公安委員会(Committee of Public Safety, 1793/4/7-1795/11/4)
  ・保安委員会(Committee of General Security, 1792/10-1795/後半)
  ・革命裁判所(Tribunal revolutionnaire, 1793/3/10-1795/5/31)
 ・1792年8月10日事件
  パリ市民テュイルリー宮殿襲撃、王政打倒、立法議会法令、ルイ16世王権停止
 ・共和国憲法の制定
  (共和暦3年憲法:Constitution of the Year III, 1795/8/22)国民公会
第一共和制(French First Republic, 1792/9/21-1804/5/18)
 ・総裁政府(French Directory, 1795/11/2-1799/11/10)
   総裁(5人)ブリュメール18日クーデター(Coup of 18 Brumaire, 1799/11/9)で崩壊
 ・統領(執政)政府(French Consulate, 1799/11/10-1804/5/18)
   統領(3人)ナポレオン・ルブラン・カンバセレス
・第1帝政(First French Empire, 1804/5/18-1814/4/11, 1815/3/20-6/22 百日天下)
  ナポレオン1世帝政宣言、軍事独裁政権
王政復古(1814/4/11-1830/7)
  1814年のナポレオン没落後、1830年の七月王政成立までの時代
ロベスピエール一派の粛清で革命は転換点を迎えました。過激な革命運動は沈静化し、ブルジョアジー勢力が復権しました。1795/10/26に国民公会が解散されて総裁政府が成立。そして1799年、ブリュメールのクーデターでナポレオン・ボナパルトが執政政府を樹立し独裁権を掌握。革命で生まれたフランス第一共和政は、ナポレオンによるフランス第一帝政の開始によって10年余りの短命に終わりました。さらに、ナポレオンの失脚後には革命で崩壊したブルボン王朝(House of Bourbon, 1589-1799)が復活するという事態(フランス王政復古)に至りました。こうした反動や犠牲を伴いながらも、フランスは近代民主主義国家へと着実に変貌を遂げていきました。

フランス七月革命
 (July Revolution、仏La Revolution de Juillet, 1830/7/27-7/29)
フランス7月革命はフランスで起こった市民革命で、フランスでは栄光の三日間(Trois Glorieuses)とも言う。これで、1815年の王政復古で復活したブルボン朝(Dynastie des Bourbons, 1814-1830)は再び打倒されました。ウィーン体制(Vienna Settlement, 1815-1848)で構築された正統主義は部分的に崩壊し、ブルジョワジーの推すルイ=フィリップ1世が王位に即位してオルレアン朝(Dynastie d'Orleans, 1830-1848)が復活。その影響はヨーロッパ各地に波及し、ウィーン体制を揺るがせました。
※画像:ルイ12世(Louis XII, 在位1498-1515)父オルレアン公シャルル・デ・ヴァロワ(Charles de Valois, duc d'Orleans, 1394-1465)。
オルレアン公

フランス 1965 発行

・フランス2月革命
  別名:1848年のフランス革命
 (French Revolution of 1848、仏La Revolution francaise de 1848, 1848/2/22-24)
フランス19世紀前半の七月王政はブルジョアーの推す王ルイ=フリップ1世のもとで産業革命がすすみ、広範に中産階級的なブルジョワと賃金労働者も生まれるも、限られた特権階級だけの政権になっており、広い市民層の中に普通選挙の要求を掲げた選挙法改正運動が強まる中、集会を禁止されたため改革宴会という形で運動を続けたが、政府は宴会禁止令をだして、それも取り締まろうとした。1848/2月に激昂したパリの労働者が蜂起して、ルイ=フィリップ1世を退位に追い込み、七月王政を倒し、共和政を宣言、臨時政府が成立。
この革命はそれまでのフランス革命や七月革命とは異なり、以前のブルジョワジー主体の市民革命から、プロレタリアート主体の革命へと転化。この革命には当初から社会主義者が参加しており、フランス三色旗に混じって赤旗も振られました。この時代の社会主義に対する期待の高まりがあるも、社会主義者が臨時政府の中で孤立していくと、社会主義を奉じる候補者は農民の支持を失い、翌年4月の国政選で落選。急進派の敗北は、農民がフランス革命とナポレオン戦争をへてようやく手に入れ 赤旗の例(旧ソ連の国旗)

UN 1985 発行
た土地を、社会主義者に「平等」を理由に奪われることを恐れたためでした。6月にはパリの労働者が蜂起(六月蜂起)するも、多数の犠牲者を出して失敗し、以後、革命の鎮静化とともに反動が開始し、最終的にルイ・ナポレオン3世が大統領に当選し、フランス最後の王様になりました。

・三色旗
 (Tricolore, 1790)
市民軍(フランス革命軍)は自由主義貴族のラファイエット将軍を総司令官に任命し、1790年、彼の提案により色旗(現在のフランスの国旗)が革命の旗となりました。フランスの国旗は正式には1794/2/15に制定。青は自由、白は平等、赤は博愛を表わします。赤と青はフランス革命軍が帽子に付けた帽章の色に由来し、白はブルボン朝の象徴白ゆり(アヤメ説有)に由来します。トリコロール(Tricolore, 三色の意)と呼ばれています。
フランス国旗

フランス 1964 発行

・キリスト教との関係
フランス革命では、キリスト教の聖職者は特権階級に属していたため一時は迫害の対象となり、モン・サン・ミッシェル(Mont Saint-Michel)は牢獄になりました。ロベスピエールはキリスト教に代わる崇拝の対象が必要と考え、「最高存在の祭典」なるイベントを開催するも、一度きりに終わり定着しませんでした。その後もカトリック教会との対立関係はしばらく続いたものの、1801年にナポレオン1世がローマ教皇(ピウス7世(Pius VII、第251代ローマ教皇:在位1800-
モンサンミッシェル

フランス 1998 発行
1823)とコンコルダート(Concordat:政教条約)を結んで和解しました。

・メートル法
 (Metric system)
当時のフランスでは度量衡の不統一が大きな問題となっていました。世界で共通に使える統一された単位制度としてメートル法が定められました。メートル法は定着までには時間を要しましたが、革命暦とは違って成功し、今日では世界の多くの国で用いられています。

メートル法実施

日本 1959 発行
・フランス革命暦
 (仏 Calendrier revolutionnaire francais)
 別名:共和暦(仏Calendrier republicain)
フランス革命暦は、フランス革命期にフランスとその衛星国で使われた独自の暦法。原則として十進法を用いていて、各月を平等としたのが特徴。革命暦(共和暦)は遡ってフランス革命により王政が廃止された翌日のグレゴリオ暦1792/9/22(秋分)を共和暦元年元日(紀元)とし、これに基づいて加算する紀年法。暦が採用された日はグレゴリオ暦で1793/11/24、これは革命暦では共和暦2年フリメール4日と表記されました。革命暦(共和暦)は後述の問題点により、グレゴリオ暦で1805/12/31までの12年間余りしか使用されずに廃止されました。
それは、1793年にフランス革命政府はカトリック色の強いグレゴリオ暦を廃止して新たな暦法を制定。この暦法では、1年は365日で、革命政府が指定した年が別に閏年。1年は12ヵ月、全ての月は30日で、余った5日(閏年は6日)は年の終わりに置いて休日。さらに1ヵ月を10日ずつ3つのデカード(decade:週・旬とも)に分け、従来の週 (semaine) と七曜を廃止。さらに混乱を生じたのは、年数を共和制宣言の行われた1792/9/22から数え、さらに年初もこの日(グレゴリオ暦で9/22に相当する日)にしたこと。革命暦が失敗に終わった理由として必ず挙げられることに、暦だけでなく時間の単位も変更したこと。フランス革命暦では、1週は10日、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒と全て十進法を使用(十進化時間)。合理性を追求したためなるも、これまでの生活習慣と大きく異なるものでした(同時期に考案されたメートル法は十進法を採用 クック船長時計

アンチグア 1979 発行
しているものの、正式な単位として普及)。時計はあまりにも性急に導入されたために一部を除いて普及せず(十時間時計が現存)。この暦は七曜に慣れた国民の間では不評のため、1802/3/31から七曜が復活。さらにナポレオンが皇帝となった2年後、共和暦14年雪月10日の翌日を1806/1/1として革命暦は廃止され、元のグレゴリオ暦に戻りました。これにはカトリック教会との和解という目的もありました。

・奴隷制
フランス革命の人権宣言は、フランスの植民地に住む奴隷には適用されませんでした。1793年の奴隷制廃止宣言や、1794年のジャコバン派による正式な奴隷制廃止決議は、1791年に始まったサン=ドマング(St-Domingue, 1659-1804、現ハイチ)の黒人大反乱による植民地喪失の危機から植民地を防衛するためになされたものでした。ナポレオンのトゥーサン・ルーヴェルチュール捕縛はこちら
西がハイチ

ドミニカ共和国 1900 発行

・断頭台 ギロチン
 (Guillotine, 1792-1981)
ギロチンは断頭台の一種で、13世紀頃にあったのを改良してフランス革命で受刑者の苦痛を和らげる人道目的で採用され、以後フランスでは1792年から1981年まで使用されました。フランスではギロチンが採用される以前は平民は絞首刑が適用され、斬首刑は貴族階級に対してのみ執行されていました。当時の斬首には斧や刀が使われて、死刑執行人が未熟だと一撃で斬首できず、囚人の首に何度も斬りつけるなど残酷な光景
ギロチン(断頭台)
ギロチン博士
フランス革命200年記念
コモロ諸島 1989 発行
が展開され、受刑者に多大な苦痛を与えることも多く、熟練した技量の高い死刑執行人を雇うことができる受刑者は裕福な者に限られました。フランス革命勃発後、フランスの内科医・政治家・博愛主義者のジョゼフ=イニャス・ギヨタン博士(Dr. Joseph-Ignace Guillotin, 1738-1814/3/26)が憲法制定国民議会で、受刑者に無駄な苦痛を与えずに人道性と平等性のある装置を提案して、議会で1792/4/25に正式に処刑道具として認められたので、ギヨタン博士にちなんで英語読みのギロチンと名付けられました。ギヨタン博士はこの不名誉な名称に強く抗議するも改められることはなかったので、家族は姓を変えたと伝えられています。フランスのは全高約5mのギロチンに首を約37cmの高さに挟んで固定して約40kgの刃が約4mから落下。

★フランス革命関連の人名などリスト:〜
フランス王国
ブルボン家(House of Bourbon, 1272-1792-分家有スペインなど)
仏のブルボン朝(Bourbon dynasty, 1589-1792-中断-1814-1830)
仏の復古王政(Bourbon dynasty, 1814-1830)七月革命で断絶
・国王ルイ13世、ブルボン朝第2代国王
 (Louis XIII、1601/9/27〜在位1610/5/14〜1643/5/14)
・仏国王ルイ14世、太陽王(le Roi Soleil)ブルボン朝第3代国王
 (Louis XIV、1638/9/5-在位1643/5/14-1715/9/1)
シャルル10世

アジマン 1972 発行
・仏国王ルイ16世(フランス革命で処刑38才没)
 (Luis XVI, 1754- 在位1774/5/10-1792/8/10-1793/1/21)ブルボン朝第5代国王
・仏王妃マリー・アントワネット妃ルイ16世の妃
 (Marie Antoinette, 1755-1793/10/16)ギロチン処刑
・仏国王ルイ18世
 (Louis XVIII、1755/11/17-1824/9/16)亡命(1791-1814)ブルボン朝第7代国王
 (復古王政期のブルボン朝在位1814/4/6-1815/3/20、1815/7/8-1824/9/16)
・仏国王シャルル10世
 (Charles X(Charles-Philippe、1757-在位1824/9/16-1830/8/2-1836/11/6)
 (復古王政期のブルボン朝の最後の第8代国王、七月革命でロンドン亡命)
シャルル10世は、ルイ16世とルイ18世(プロヴァンス伯)の弟。絶対王政を復活させ国民の反発を受ける。19世紀フランス・ブルボン復古王政の二代目の国王。1830年の七月革命で退位。王位継承前はアルトワ伯(comtes d'Artois)と称して革命の早い時期に亡命し、ドイツのコブレンツなどを拠点に亡命貴族(エミグレ)の中心。その後にナポレオン没落後、兄のルイ18世の王政復古後は最も反動的な王党派貴族に担がれ、その象徴となって復古王政でも極端な反動政治を敷いて七月革命を引き起こした。
・仏国王オルレアン公ルイ=フィリップ1世、ブルジョワジーの推す王(Philippe, Duc d'Orleans)
 (Louis-Philippe I、1773-在位1830/8/9-1848/2/24-1850)オルレアン朝(1830-1848
・ローヌ男爵テュルゴー
 (Jacques Turgot, Baron de l'Aulne, 1727-1781)
・ジャック・ネッケル、第三身分の銀行家
 (Jacques Necker, 1732-1804)
・シャルル・デ・ブリエンヌ、旧体制(アンシャン・レジーム)最後の宰相
 (Etienne-Charles de Lomenie de Brienne、1727-在任1788-1790-1794/2/16)
ラファイエット将軍
・ミラボー伯爵
 (Honore Gabriel Riqueti, Count de Mirabeau, 1749-1791)
・ローマ教皇、ヴァチカン市国ローマ法王庁
  ピウス7世(Pius VII、第251代ローマ教皇:在位1800-1823)

<総裁政府>(French Directory, 1795/11/2-1799/11/10)
 ・メルラン・デ・ドゥーエー
  (Philippe-Antoine, Merlin de Douai, 1754-1838/12/26)
 ・ラ・ルヴェリエール=レポー
  (Louis-Marie de La Revelliere-Lepeaux、1753-1824/3/24)
 ・ポール・バラス
  (Paul Francois Jean Nicolas, vicomte de Barras, 1755-1829/1/29)
 ・フランソワ・デ・ヌフシャトー
  (Nicolas-Louis Francois de Neufchateau, 1750-1828/1/10)
 ・ジャン=フランソワ・ルーベル
  (Jean-Francois Reubell(Rewbell)、1747-1807/11/24)

<統領政府>(French Consulate, 1799/11/10-1804/5/18)
 ・ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte、1769-1821)、第一統領
 ・ジャン=ジャック・レジ・デ・カンバセレス、第二統領
  (Jean-Jacques Regis de Cambaceres、1753-1824/3/8)
 ・シャルル=フランソワ・ルブラン、第三統領
  (Charles-Francois Lebrun, 1739-1824/6/16)
<第一帝政>
  (First French Empire, 1804/5/18-1814/4/11, 1815/3/20-7/7)
 ・フランス皇帝ナポレオン1世
   戴冠式 1804/12/2、ノートルダム大聖堂
  (Napoleon I、1769-1821)
  (在位1804/5/18-1814/4/11、1815/3/20-6/22百日天下)
  (ナポレオン対仏大同盟セントヘレナ島没)
パリ、ノートルダム大聖堂
フランス 1949 発行
・ルイ・ナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)
 (Napoleon III, 1808-第二共和政大統領1848-1852-第二帝政皇帝1852-1870-1873/1/9)
<ジロンド派>(Girondin Club)
 (フランス南西部ジロンド県:Gironde)
・議長デルボワ
 ジャン=マリー・コロー・デルボワ(九月虐殺:September Massacres, Paris, 1792/9/2)
 (Jean-Marie Collot d'Herbois、1749-1796/1/8)テルミドール派に南米ギアナ流刑、黄熱病
・タリアン、議員
 ジャン=ランベール・タリアン
 (Jean-Lambert Tallien, 1762-1820)貧窮没
・ビョーヴァレンヌ、議員
 ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ
 (Jacques Nicolas Billaud-Varenne, 1756-1819)ハイチ没。

<ジャコバン派>(Jacobin Club)
ダントン、ジャコバン派の右派、ダントン一派
 (Georges Jacques Danton, 1759-1794/4/5処刑)
マラー、ジャコバン派
 (Jean-Paul Marat, 1743-1793/7/13暗殺)
・エベール一、エベール一派・ジャコバン派の極左
 (Jacques Rene Hebert, 1757-1794/3/24処刑)
 <ロベスピエール派>
・マクシミリアン・ロベスピエール、急進的ジャコバン派
 (Maximilien Robespierre, 1758-1794/7/28処刑)
マラー、ロベスピエール、ダントン

(Marat, Robespierre, Danton)
ロシア(ソ連) 1989 発行
・オーギュスタン・ロベスピエール
 (Augustin Robespierre, 1763-1794/7/28処刑、ロベスピエールの弟)
・サン・ジュスト、側近
 (Louis Antoine Leon de Saint-Just, 1797-1794/7/28処刑)
・クートン
 ジョルジュ・クートン、政治家・弁護士、(山岳派指導者)ロベスピエールの第二の魂
 (Georges Auguste Couthon, 1755-1794/7/28処刑)
・ル・バ
 フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バ
 (Philippe-Francois-Joseph Le Bas, 1762-1794/7/28処刑)。

<その他>
・フェルゼン
 スウェーデン元帥フェルゼン伯爵
 (Count, Marshal of the Realm of Sweden, Hans Axel von Fersen the Younger, 1755-1810
・ヴォルテール(Voltaire)
 フランソワ=マリー・アルエ(仏哲学者・文学者・歴史家、啓蒙主義)
 (Francois-Marie Arouet、1694-1778)
・ルソー
 ジャン=ジャック・ルソー
 (Jean-Jacques Rousseau、1712-1778)
 (仏語圏ジュネーヴ共和国生、主に仏で活躍した哲学者・政治哲学者・作曲家)
・モンテスキュー
  シャルル・ルイ・デ・モンテスキュー男爵(啓蒙思想家、三権分立)
 (Charles Louis de Secondat, Baron de La Brede et de Montesquieu、1689-1755)。
ブルジョアジー
 (Bourgeoisie)商人・製造業者・専門家:裕福な庶民(ブルジョア)
ブルジョワジーは中産階級のことで、有産階級とも呼ばれる。特に17〜19世紀においては革命の主体になりうるほどの数と広がりを持つ階層で、貴族や農民と区別して使われた市民革命における革命の推進主体となった都市における有産の市民階級の人々。
サン・キュロット
 (Sans-culotte)下層民階級、急進的ジャコバン派
サン・キュロットは、フランス語で「キュロットをはかないひと」という意味で、フランス革命の推進力となった社会階層。主に手工業者・職人・小店主・賃金労働者などの無産市民(固定資産の無い人)を指し、当時のパリでは貧困層に属した人々
エミグレ
 (Emigre)王党派亡命者
貴族やブルジョア階級の一部など多くのフランスの反革命派が移住し、エミグレとしてフランスの北東フロンティア近くに武装集団を形成し、ヨーロッパの支配者に助けを求めました。

★<フランス革命の流れ>
・フランス革命の前段階
 ・思想的背景〜ヴォルテールやルソーなどの啓蒙思想
 ・アンシャンレジーム〜行きづまり
 ・財政問題〜対外戦争・アメリカ独立戦争参戦
・フランス革命の時期区分
ナポレオン

フランス 1972 発行
 ・第1段階 1789 〜1791 絶対王政から立憲君主政
 ・第2段階 1791 〜1792 立憲君主政から共和政
 ・第3段階 1793/1 〜94/7 急進的共和政の展開
 ・第4段階 1794/7 〜99/11 総裁政府からナポレオンの登場
フランス革命は18世紀末にフランスでおきた市民革命(1789-1799)
絶対王政を倒してアンシャン・レジームの封建的なしきたりを廃止。

・革命の始まり
絶対王政の専制政治で農民は苦しめられ,商工業者も自由な活動をさまたげられて不満が高まった。国王ルイ16世はなしくずしに近代化をくわだてるも,特権階級の反対でうまくいかず,財政は危機になった。国王は増税で財政たてなおしをはかるため三部会を召集するも,第三身分(市民など)の代表は,一部の貴族や僧と合同して国民議会をつくり,憲法の制定を要求。国王がこれを武力でおさえると,パリの民衆はバスチーユ牢獄をおそい(1789/7/14),革命が始まる。

・共和政へ
1789/8月に国民議会は封建制廃止を宣言して人権宣言をだし,1791年立憲君主制を定めた憲法を制定。オーストリアやプロイセンは,自国へ革命がおよばないようにフランスへ攻め込んだ。フランス国民は祖国と革命をまもるために,義勇兵として戦った。この間に国王は国外へ逃亡しようとして捕らえられた。1792年王権は停止され,新たに国民公会が成立して共和政を宣言。翌1793年に国王ルイ16世は処刑

・革命の急進化と終結
国王処刑の後,ロベスピエールがひきいる急進派のジャコバン派が独裁的権力をにぎり,反対派を弾圧する恐怖政治をしき,農民に無償で土地をあたえるなど徹底した変革を断行。しかし,ロベスピエールは1794年に保守派の反撃で処刑。1795年国民公会は解散され,総裁政府が成立するも,政治や社会は安定せず,ナポレオン1世が1799年クーデターで政権を奪い,フランス革命は終結。

王政復古(1814/4/6-1815/3/20、1815/7/8-1830/8/2)ルイ18世シャルル10世
七月革命(1830/7/27-7/29)
二月革命(1848/2/22-24)
(革命の混乱が最終的に収まったのは第三共和政(1870-1940)の成立時)。

・ヴァルミーの戦い
 (Bataille de Valmy, 1792/9/20)フランスの勝利
 戦場:フランス北東部グラン・テスト地方マルヌ県ヴァルミー
 対戦国:フランス立憲王国軍 vs プロイセン国軍・仏コンデ軍
ヴァルミーの戦いは、オーストリアのレオポルト2世がピルニッツ宣言を発してから、革命干渉の脅威が迫る中、フランス政府がエミグレを送還せよ(1792/3/25)という最後通牒に、3/1にレオポルド2世の没でオーストリアが応じないためフランス立憲王国が宣戦布告(1792/4)したオーストリア軍と同盟していた、プロイセン軍と
ヴァルミーの戦い, 1791/9/20

フランス 1971 発行
合流のフランス王党派貴族コンデ公ルイ5世のフランス野戦コンデ(亡命貴族エミグレ)連合軍との会戦で、フランス軍が勝利した次の日、1792/9/21にフランス立法議会が王政廃止宣言(フランス第一共和政)を発しました。1792/7月にフランスの宣戦布告でオーストリア軍がフランスに侵攻。フランス政府は「祖国危機」を宣言。続いてプロイセン連合軍もフランスに侵入。「国王夫妻に危害を加えればパリを壊滅させる」と通告し、フランス市民は憤激。両国軍は破竹の進撃を続け、8/23にはロンウィが陥落。9/2にはヴェルダンが降伏してパリは動揺。9/19に仏北方軍デュムリエ軍にメッス
からの仏南方軍ヴァルミー公爵ケレルマン軍が、サント・ムヌーで合流してフランス軍は5万人の兵力になました。対するプロイセン軍は3,4000人で、初めてフランスが優勢になり、フランス軍兵士のほとんどは募集したばかりの1792年ボランティア(Volunteer Battalions "La Marseillaise")だったので素人対プロの戦いになりました。1792/9/20アルゴンヌの丘(Forest of Argonne)のヴァルミーで悪天候の中、フランス軍へプロイセン元帥ブラウンシュヴァイク公指揮のプロイセン軍の熟練砲兵がヴァルミーの砲撃(Cannonade of Valmy) 民衆を率いる自由の女神
ラ・マルセイエーズ

フランス革命200年記念
で猛攻撃すると、フランス軍は多数の犠牲者を出すものの新式大砲グリボーバル・システム開発者グリボーヴァル中将整備の砲兵隊大砲の威力が功を奏し、プロイセン軍を退却に追い込んで、勝利。

★参考:〜・地名※人名・など
・フランス立憲王国(ブルボン朝)国王ルイ16世
 (Constitutional Cabinet of Louis XVI, 1791/9/3-1792/9/21
・オーストリア軍(ハプスブルク帝国)
 (Habsburg Monarchy, 1282?1918)
・プロイセン軍
 (Kingdom of Prussia, 1701-1918)
・フランス北東グラン・テスト地方(Grand Est Region)
  ・マルヌ県ヴァルミー(Valmy, Marne department)
パリ、凱旋門
フランス 1938 発行
  ・マルヌ県サント・ムヌー(Sainte-Menehould, Marne Department)
  ・ムーズ県ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ(Varennes-en-Argonne, Meuse department)
  ・ムーズ県ヴェルダン(Verdun, Meuse department)
  ・モゼル県メッス(Metz, Moselle department)
  ・ムルト=エ=モゼル県ロンウィ(Longwy, Lorraine, Meurthe-et-Mosellee department)
・フランス南東オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地方
 (Auvergne-Rhone-Alpes Region)
  ・イゼール県グルノーブル(Grenoble, Isere department)リヨンから約100km
  ・メトロポール・ド・リヨン県リヨン(Lyon, Metropolis of Lyon department)
  ・アルデシュ県ジャレス(Jaures, Ardeche department)
・フランス南東プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方ヴァール県ツーロン
 (Toulon, Var department, Provence-Alpes-Cote d'Azur Region)
・フランス北部オー=ド=フランス地方ノール県リール、ベルギーと国境を接する
 (Lille, Nord department, Hauts-de-France region)
・フランス北西ブルターニュ地方モルビアン県ロリエント地区プルヴィニェール町ブレック街
 (Brech city, Pluvigner township, Lorient district, Morbihan department, Bretagne region
・フランス西部ブルターニュ半島西端ブルターニュ地方フィニステール県ブレスト
 (Brest, Finistere department, Brittany region, France)
・フランス西部ペイ・ド・ラ・ロワール地方(Pays de la Loire region)
  ・大西洋に面するヴァンデ県(Vendee department)
  ・ロワール=アトランティック県ナント(Nantes, Loire-Atlantique department)
  ・サルト県ル・マン(Le Mans, Sarthe department)
  ・メーヌ=エ=ロワール県ショレ(Cholet, Maine-et-Loire)
  ・メーヌ=エ=ロワール県アンジェ(Angers, Maine-et-Loire)
・フランス首都イル=ド=フランス地方パリ県パリ(巴里)
 (Paris, Paris department, Ile-de-France Region)。
※フランス王党派貴族コンデ公ルイ5世
 (Louis V Joseph de Bourbon-Conde, 1736-1818)
※フランス野戦コンデ軍
 (Army of Conde)亡命貴族エミグレ
リョン(Lyon)

フランス
 1949 発行
※プロイセン元帥ブラウンシュヴァイク公カール二世
 (Generalfeldmarschall of Brandenburg-Prussia, Karl II.
  Wilhelm Ferdinandvon Braunschweig-Wolfenbuttel, 1735-1806)
※フランス北方軍デュムリエ軍
 (Charles Francois du Perrier du Mouriez、1739-1823)
※フランス南方軍ヴァルミー公爵ケレルマン軍
 (Francois Christophe Kellermann, 1st Duke of Valmy、1735-1820)
※グリボーヴァル中将
 (Jean-Baptiste Vaquette de Gribeauval、1715-1789)。
★参考HP:〜
ラ・マルセイエーズ(切手「民衆を率いる自由の女神」画の下部に武器を取る民衆が有)
 「1792年のボランティア3月」(ラ・マルセイエーズ)
 (Francois Rude, 1833, Arc the Triomphe de l'Etoile, Paris, France)
仏ヴァルミーの場所地図
仏ペイ・ド・ラ・ロワール地方の地図(県別)

・元帥ジョルジュ・カドゥダル将軍
 (General Georges Cadoudal, 1771-1804/6/25)
カドゥダル将軍は、フランス北西ブルターニュ地方ブレックで生まれたカトリック信者で、革命開始時には王党派ふくろう党指導者の一人でしたが、1804年に逮捕されてギロチンで処刑され、断頭台の露と消えました。王政復古で、1814年にルイ18世に、戦いから戻った戦士(カドゥダル)としてフランス陸軍元帥(Marshal)に叙任されました。
カドゥダル将軍は、フランス革命の最中にフランス西部地方で
カドゥダルのギロチン処刑

ジャージー 1991 発行
王党派ゲリラ組織ふくろう党のリーダーとなって、1804年に処刑されるまで様々な事件の裏で活動しました。1793年にフランス第一共和制国民公会に対してふくろう党のベンディーン反逆者モルビアンの反乱を組織。それはすぐに鎮圧されたので、ヴァンデ地方の反乱に加わり、1793/12月にルマンの戦いとサヴネの戦いに参加。モルビアンに戻って逮捕され、ブレストで投獄されるも、脱獄に成功して革命派との闘いを続けました。1803/8/24にナポレオン暗殺未遂事件マルメゾン道の陰謀で逃亡6ヵ月後に逮捕され、有罪判決を受けて死刑を宣告されても恩赦を求めず、11人の仲間と共にパリにてギロチン処刑されました。
<関わった事件など>
1799年ジャージー島東セント・マーチン地区(St. Martin Parishe)のモンオルゲイユ城(Mount Orgueil Castle)を、イギリスのドーヴェルニュ提督に会うために、定期的に訪れました。
・王党派ふくろう党
 (Chouannerie, 1794-1804)
ふくろう党ベンディーン反逆者
 (Chouannerie Vendeen rebels)
モンオルゲイユ城

ジャージー 1969/10/1 発行
・モルビアンの反乱
 (Rebellion Morbihan, 1793/3-1796/3、共和国軍勝利)
ヴァンデ地方の反乱(1793/3-1796/3、共和国軍勝利)
・サン・ニケーズ街の陰謀
 (Rue Saint-Nicaise, 1800/12/24、パリでのナポレオン暗殺未遂事件)、再びイギリスへ逃亡
・マルメゾン道の陰謀
 (Malmaison road, 1803/8/24、マルメゾン道でのナポレオン暗殺未遂事件)
  別名:ブリッグ艦ヴィンセホ号事件
 (Brig HMS Vincejo 18gn, 290tn、1804にキベロン湾で仏が捕獲)
イギリスの小ピット政権は、この王党派の陰謀に100万ポンドを資金提供し、カドゥーダル将軍らの一派がイギリスからフランスへ帰国する際の輸送船ヴィンセホ号を提供。1803/8/23夜にヴィンセホ号は、仏ノルマンディー地方マンシュ県ビヴィル(Biville, Manche department, Normandy region)の崖のふもとに反革命活動家チョウアン(ふくろう:Chouan)を上陸させ、共謀者らはマルメゾン道(Malmaison)への道のりでボナパルトに新たな暗殺を試みました。ところが、警察の監視下で失敗するも、カドゥーダル将軍は6ヵ月間追跡を逃れましたが逮捕されました。


・ヴァンデ地方の反乱
 (Rebellion Vendeenne, 1793/3-1796/3、共和国軍勝利)
 別名:ヴァンデ戦争(英 War in the Vendee、仏 Guerre de Vendee)
 戦場:ペイ・デ・ラ・ロワール地方(ヴァンデ県など)
共和国の紋章
ガリアの雄鶏


Gallic rooster
フランス 1965 発行
中世の領主の館
要塞シュリー=シュル=ロワール城


14世紀末建設 Chateau de Sully-sur-Loire
フランス 1961 発行
ブルボン家の紋章
フルール=デ=リス


Fleur-de-lis
フランス 1944 発行
フランス革命でルイ16世のブルボン家紋章フルール=デ=リス(アヤメ)が共和国のガリアの雄鶏に変更
ヴァンデの反乱は、ジャコバン派独裁政権が、対外戦争に備えて30万人募兵令(Levee en 300,000 hommes(男300,000人採用)1793/2/24)を布告して事実上の徴兵制が開始されたことで始まりました。農民にとって王政時代にもクジ引きなどでの徴兵があり、それが生活を圧迫していたが、革命政府の徴兵は富裕者は代理人を出すことが許され、また役人は兵役が免除されていたことから、農民は著しく不利だと受け止められました。以前から都市に対する農村の不満も背景になった。さらに、農民の中に浸透していたカトリック教会への信仰心で、フランス革命で聖職者基本法を制定(1790)して教会を国家統治下に置き、全ての聖職者に憲法とこの基本法への宣誓を強制。これにヴァチカンのローマ教皇が強く反発し、国内の聖職者の多くも宣誓を拒否、教区の教会を追われることになりました。農民は教区が統廃合されて共同体が破壊されること、先祖代々信仰していた教会の司祭が追放されたことに強い憤りを感じました。

1793/3月に、この不平等な30万人募兵令に反発しフランス各地で農民蜂起が起こりました。大抵はすぐに鎮圧されるも、フランス西部ペイ・デ・ラ・ロワール地方4県(ヴァンデ県など)の農民たちは軍事経験の豊富な貴族たちを指導者に立て、優秀な指導者の一人のカドゥダル将軍はヴァンデ反乱ふくろう党(ベンディーン 反逆者:Vendeen rebels)のカトリック王党軍(Catholic and Royal Army, 1793-1800)を編成するなど、農民蜂起軍を組織化してカトリック王党軍と名乗って王党派農民が蜂起しました。国民公会は法令を制定して徹底した弾圧を行って、内乱の戦争に発展しました。なかなか鎮圧されない農民蜂起は国民公会の脅威となり、1793/8月に「ヴァンデの絶滅」法令を制定し、共和国軍は少しずつ蜂起の地域を包囲しはじめました。そして、共和国軍に追われるカトリック王党軍は度重なる戦い・飢餓・赤痢・冬の寒さ・弾薬不足などで弱体化していき、サヴネの戦いを最後にカトリック王党軍の主力軍は壊滅しました。
<主な戦い>
・ブレシュイールの戦い
 (Battle of Bressuire, 1793/5/3)王党軍勝利
・トゥアールの戦い
 (Battle of Thouars, May 5th, 1793/5/3)王党軍勝利
・フォントネー・ル・コントの戦い
 (Battle of Fontenay-le-Comte, 1793/5/25)王党軍勝利
・第一次シャティヨンの戦い
 (First Battle of Chatillon, 1793/7/5)王党軍勝利
・ソーミュールの戦い
 (Battle of Saumur, 1793/6/9)王党軍勝利
・ナントの戦い
 (Battle of Nantes, 1793/6/24)共和国軍勝利
・ヴィイエールの戦い
 (Battle of Vihiers, 1793/7/18)王党軍勝利
・ルソンの戦い
 (Battle of Lucon, 1793/7/15-8/14)共和国軍勝利
・モンテギューの戦い
 (Battle of Montaigu, 1793/9/21)王党軍勝利
・ティフォージュの戦い
 (Battle of Tiffauges, 1793/9/19)王党軍勝利
・第二次シャティヨンの戦い
 (Second Battle of Chatillon, 1793/10/11)引分
・トランブレイの戦い、於:ショレ
 (Battle of Tremblaye, 1793/10/15)共和国軍勝利
・ルマンの戦い
 (Battle of Le Mans , 1793/12/12-13、共和国軍勝利)
・サヴネの戦い
 (Battle of Savenay, 1793/12/23)共和国軍勝利、王党軍主力壊滅。

1794/1/21以後、国民公会は地獄部隊(Infernal Columns)を組織し、ヴァンデ地方で無差別な虐殺や放火をそれまで以上に激しく断行しました。その結果、正確な数は不明なるも犠牲者は30〜40万人とも伝わっています。なお、フランス革命はパリという都市のブルジョアジーが封建制度の打破を目指して起こした革命でしたが、都市の下層民(サンキュロット)のエネルギーを吸収して激化し、王政を倒し共和国を樹立。農村でも封建領主が襲撃されました。革命政権が革命の防衛のために徴兵制を布こうとしたことでヴァンデの農民は革命の行方に疑問を持ち、革命は自分たちの生活を脅かし、教会と領主を一体とした共同体を破壊しようとしている。そのような都市住民による農村破壊に対する異議申し立てでヴァンデの反乱が起ったともいわれています。そして、革命はヴァンデの農民を圧殺するも、根元的な反革命の力を完全に封じ込めることができず、テルミドールの反動が起りました。フランスは次にナポレオン時代(第1帝政)到来の後、復古王政となって農村共同体を基盤とする社会が復活しました。

なお、ふくろう(チョウアン:Chouan)党の軍は:〜
・カトリック王党軍(Catholic & Royal Army, 1793-1800)
・レンヌとフジェールのチョウアン軍(Chouan Army of Rennes & Fougeres, 1795-1800)
・王党派亡命者軍エミグレ(Emigre, 1789-1815)
などが有。

★参考HP:〜
ヴァンデ反乱の地図(王党軍の進路)


こちらで
フランス
フランス七月革命
ファントム・アイランド(サンディ島)
・フランス大革命遭遇の
 ・デェスタイン提督
 ・ラファイエット将軍
 ・ロシャンボー将軍
 ・ケルゲレン提督
 ・ブーゲンヴィル提督
 ・ダントルカストー提督(ニューカレドニア島没後に副艦長がスラバヤで革命勃発を知る)
 ・サフレン提督(没翌年に革命勃発)
 ・ペルーズ船長(革命勃発前年に消息不明でダントルカストー提督が捜索に出帆)
 ・バウダン船長(革命勃発はモーリシャス島などで探検調査中)
切手コレクションの
・フランス世界遺産
フランスの王と王族 (肖像画)
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
全米50州アメリカ
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.4/3/22(2022)追記

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