Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)アステカ帝国征服(IV-10)
フアン・デ・フーカ船長 1542 伝説のアニアン海峡を発見か(?) |
大航海物語 スペイン編★ |
オルテリュウスの古地図 世界の舞台(Orbis Terraum, 1570) |
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1522 マゼランの世界一周航海480年記念 2002 フィリピン 2002 発行 |
ギリシャ生まれのフアン・デ・フーカ船長は、1592年に新スペインのベラスコ副王の命で北アメリカ大陸北西岸を探検航海し、北米大陸の北を迂回して東アジアとヨーロッパを最短距離でつなぐ伝説の天然運河アニアン海峡を発見したと報告しました。 |
・フアン・デ・フーカ船長 (Captain Juan de Fuca, 1536〜1602) 別名:イオアンネス・フォーカス(Ioannis Phokas)洗礼名 本名:アポストロス・ヴァレリアノス(Apostolos Valerianos) <生い立ちの記> フーカ船長の祖父エマヌエル・フォーカス(Emmanouil Phokas)は、1453年の東ローマ帝国(Eastern Roman Empire(ビザンチン帝国:Byzantine Empire)395-1453)首都コンスタンティノープル(現トルコのイスタンブール)の陥落(Fall of Constantinople, 1453/4/6-(53days)-5/29)時に兄弟のアンドロニコス(Andronikos)と共々ギリシャへ逃亡しました。2人はギリシャ本土南のペロポネソス半島に居住するも、1470年エマヌエルはイオニア諸島ケファロニア島ヴァレリアノス村(Valerianos, Cephalonia Island, Ionian Islands, Greece)へ移住しました。そこでフーカの父、イアコヴォス(Iakovos)はヴァレリアノス村で独立した家を立て、兄弟と区別するためにヴァレリアノスのフォーカス(Phokas)と呼ばれるようになりました。フーカはヴァレリアノス村で1536年に生まれ、アポストロスと名付けられ、1555年20才頃にスペイン王のフェリペ2世に出仕しました。 <フーカ船長の大航海>:〜
・第1回航海 フーカ船長はスペイン王家の艦隊で働き、中国、フィリピン、ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン:現メキシコ)などへ航海して熟練した海のパイロット(Maritime Pilot, Navigator:航海士)となり、スペイン艦隊の水先案内人を務めるようになりました。そしてスペイン艦隊の西インド諸島への水先案内人(パイロット)に指名されて新スペインのアカプルコへ渡りまました。当時、北米の北西岸へは大英帝国が進出してきて緊張状態が続いていたので、ヌエバ・エスパーニャ第2代副王の子息ルイス・ド・ベラスコ(在任1590-1595)の命を受けて、大西洋と太平洋を結ぶ北西航路の一部であると信じられていたアニアン海峡を見つけるための探検航海隊の船隊長兼水先案内人として小型船3隻に、スペイン陸軍大尉の指揮下の兵士200人を乗船させて、アカプルコを出帆しました。この探検は失敗に終わったと伝えられるところでは、船長の不当行為が原因で、兵士たちが反抗してカリフォルニアに帰ったためであると伝えられています。この時期、スペインの戦闘教義では、軍将校(Army officer)の軍事司令官(Military commander)と船乗り(Sailor)の航海司令官(Sailing & navigation commander)の間で、船隊(Ships)と艦隊(Fleet)の支配権が別れていたので、船長の命令が不当だとして反抗したことによる失敗とも伝えられています。 ・第2回航海 1587年51才頃にガレオン船サンタ・アナ号(Galleon Santa Ana)でバハ・カリフォルニア方面へ航海してサンルーカス岬沖(Cabo San Lucas, Baja California Peninsula, Mexico)でイギリスの私掠船キャヴェンディッシュ船長に拿捕され、メキシコに上陸させられました。 ・第3回航海 1592年56才頃に再度、ルイス・ド・ベラスコ福王の命で北アメリカ大陸北西岸(現在のカナダ西岸)を探検しました。この航海で、フーカ船長は成功しました。キャラベル船(Caravel)とピンネス船(Pinnace)に少数の海兵隊員(Armed Marines)を乗船させて北へ航海した後、アカプルコに戻りました。そして大きな島の北緯47度付近に入口がある海峡を見つけて、それが太平洋と大西洋とを結んでいる」伝説の海峡のアニアン海峡たと主張する報告をしました。しかしそれは後にファンデフーカ海峡と名付けられました。現在のファンデフーカ海峡は実際には北緯48度前後にあるも、フーカ船長の航海についての説明は現実とは異なり、実際に存在していた地域とはかなり異なる地域を表していました。フーカ船長はまた、航海中に「高峰または尖頭岩」を見つけました。それはワシントン州の北西端のファンデフーカ海峡の近くにあるフラッタリー岬の西岸にあるほぼ長方形の高さのある岩であった可能性があり、この岩は現在フーカの柱(Fuca Pillar)と呼ばれています。ただ、フーカ船長はその岩は海峡の反対側にあると報告しました。帰港後、ベラスコ福王は約束の報酬が巨額のため支払いませんでした。 ・その後 1594年、フーカ船長はスペインを訪れ、スペイン王フェリペ2世に謁見して、ベラスコ福王の報酬の未払いを直接法廷に訴えましたが埒が明きませんでした。年老いたギリシャ人船長は再び失望し、スペインにうんざりして、故郷ケファロニア島の自宅に引退することを決心するも、1596年にイギリスの商人で旅行者で北西航路を探すフロビッシャー船長の航海の主な後援者だったマイケル・ローク(Michael Locke, c.1532-c.1621)から、スペインの大敵であるイギリスのエリザベス1世女王に仕えるよう提案されました。この話は進展せずも、フーカ船長の話がイギリスに伝わったのはロークを通してでした。フーカ船長は1602年に故郷ギリシャのイオニア諸島ケファロニア島ヴァレリアノス村で亡くなりました なお、フーカ船長は、スペインで40年働いたといっていますが、スペインの公文書には、彼の名前や地位、あるいは王宮への訪問の記録は存在しない説があるも、フーカ船長の航海に関する文字による証拠にはロークの著述書がありました。フーカ船長は実在しない人物だとする何人かの学者もいて、クック船長は、フーカ船長が発見したと主張するアニアン海峡の存在自体を強く疑って、ファンデフーカ海峡を通過せずに航海してバンクーバー島の西海岸のヌトカ湾に寄港したといわれています。しかし、その後のイギリスによる探検と定住で、フーカ船長の主張は信頼できるものとしてヴァンクーヴァー船長などの、さらなる探検航海が試みられました。1859年にはアメリカの研究者が、イオニア諸島のアメリカ領事館の助力で、フーカ船長が実在したことや、彼の家族と歴史がケファロニア島でよく知られていたことを証明しました。
※Strait:Vancouver Island (British Columbia, Canada) and Olympic Peninsula, northwestern Washington state, USA) また、ファンデフーカ海嶺(uan de Fuca Ridge)とファンデフカプレート(Juan de Fuca Plate)は、ファンデフーカ海峡に由来しています。 参考HP:〜 ・アニアン海峡の場所地図(1687年) (ハドソン湾に向かって伸びるアニアン海峡の可能性がある島として バハカリフォルニアを示す地図) ・アニアン海峡の場所地図(1610年) (ベーリング海峡のおおよその所にあるアニアン海峡を示す地図) ・ペロポネソス半島の地図(ギリシャ) ・ファンデフーカ海峡の場所地図(Strait of Juan de Fuca) こちらで ・アニアン海峡 ・ファントム・アイランド(別名:幻島) ・シボラの七都市 ・シリー諸島 ・日本の黄金切手 世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・サンマリノ (イタリアの中のサンマリノ共和国) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.3/6/21 (2021) |