大航海物語
クロノメーター
1735
CHRONOMETER

参考資

ST.HLENA
クック船長の第2回航海(1772−75)で”クロノメーター”時計が実証されました。
レゾリューション号と第2回航海のルート・マップ(航海地図)


セント・ヘレナ 1999 発行

BARBUDA
クック船長と
レゾリューション号のクロノメーター


アンチグアにバーブダ加刷 1979 発行
PITCAIRN ISLANDS
  ブライ艦長と懐中時計
バウンティ号のクロノメーター


ピトケーン 1969/9/17 発行

・クロノメーター(正確な時計)
  Chronometer (Watch)
クロノメーターは、名称はギリシア神話の時間の神”クロノス”に由来しますが、一般にスイスのクロノメーター検定協会(COSC)による検定に合格した高精度の機械式時計(ゼンマイ時計)のことで、その認定を受けたものを「クロノメーター」と呼びます。COSC以外にも各地の天文台などで認定を行っています。

クロノメーターはスイスのクロノメーター検査協会(COSC)が定めた厳しい精度試験に合格したムーブメントだけに与えられる称号で、クロノメーターに認定されたムーブメントを搭載した時計はいわば「高い精度を持つ一流の時計」であることの証明でもあるのです。実際に公認クロノメーターに認定されている時計は、スイスで生産される全時計のわずか3%というのが実情です。ジョン・ハリソン・ウールマッハー・クロノメーター検定は、設置位置や温度を変化させて機械式時計の精度を見るもので、すべての環境で日差”−4秒〜+6秒”以内に誤差が収まったものに認定が与えられます。なお、クォーツ時計は月に数秒程度の誤差が一般的ですが、機械式時計の場合はこの程度の誤差でも十分精度が高いものとみなされます。

クロノメーターの起源は大航海時代です。外洋航海が増加し多発する海難事故を防ぐために、海上での正しい経度測定法が求められました。1714年、英国議会が経度法を制定し、揺れる船舶の上でも正しい時を刻む高精度の時計が必要とされたのがクロノメーター誕生のきっかけでした。18世紀初頭、もっとも精度の高い時計は振り子時計でしたが、波による揺れの影響の大きい海上では機能しませんでした。

この問題を解決するため、イギリス人のカーペンター(Carpenter木工職人)のジョン・ハリソン(John Harrison、1693/3/24-1776/3/24)は30年にわたって研究・改良し、頑丈な梁に揺れや温度変化を吸収するバネを取り付け、ねじを巻いている間も機械が作動し、ねじが巻かれた当初と緩んだ後でも時計の回転力が一定になる装置を備え、温度や揺れに強い置時計を製作し、1735年「クロノメーター」と名づけました。その後、1759年には直径5インチの懐中時計を4号機(クロノメーターH4)として年差にして30秒という高性能なものを製作しました。こうして「クロノメーター」が高精度な時計の代名詞となりました。ジョン・ハリソンは1728年から7年をかけていろいろな技術を開発しH1を製作しました。その後も改良した時計を製作しましたが、天文学的方法による経度測定法にこだわる天文学者によって公正な評価を得られず、経度委員会からの賞金がえられたのは最晩年になってからのことでした。

ただ、当時は高価だったので、同機の複製品はイギリス海軍々艦に配備され、ジェームズ・クックの第2回航海の時に、その実用性が改めて確認され、英国海軍の作戦実行に大幅な改善をもたらし、作戦遂行能力を向上させ、イギリス海洋帝国の基礎作りに貢献しました。

・緯度と経度;〜外洋航海がさかんになった16世紀以降において、航海中の自分の船の位置を知ることは安全な航海において重要になりました。緯度は太陽の高さなどで比較的知り易いのに対し、経度は基準の経度の街の時間を正確に表示し続ける時計が入手できなかった時代には極めて困難でした。多くの国で、経度の決定法の開発について懸賞がかけられました。ガリレオ は木星の衛星イオ の食の周期を自然の時計として用いる方法を提案し、トバイアス・マイヤー の月運行表も、もともとは地上の地図の作成に使われたものでしたが、海上での経度の決定法として賞金を得ています。18世紀のジョン・ハリソンによる揺れる船上、温暖の差の激しい航海でも正確な時を刻むクロノメーター 開発に関する物語はデーヴァ・ソベルの「経度への挑戦」に興味深く描かれています。

・経度”0”とは:〜
大航海時代後半の16世紀末までは各国とも共通してカナリア沖を経度0(本所子午線)としていました。これが世界が探索され、新大陸の開発もどんどん進んでくる17世紀になると様相が変わり、イギリスはロンドンに、フランスはパリに子午線を変更して使用を始めます。このようにまだこの時代は有力国は各国ともそれぞれ勝手に地図によって変えていたのですね。 これでは技術の進歩により不都合が出てくるのは当然で、後にクロノメーターの発明と経度測定法により次第に正確な経度が測定できるようになると、各国で統一性を欠く子午線の決め方では支障をきたすようになって来ました。 そこで1875年、国際地理学会はパリを経度0の基準子午線にする決定をします。 ところがコレに最後まで異を唱えたのが仇敵イギリス。 フランス案を受け入れずに押し通し、結局当時の大英帝国海軍の力と海上交易の実力・世界中にある植民地の裏づけもあり、1884年にワシントンで再度開かれた会議によってロンドンのグリニッジ天文台を本初子午線とすることが決定されて現在に至りました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.3/1/19 (2021)追記

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