Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)アステカ帝国征服(IV-4)
副王 メンドーザ 1535 新大陸の初代副王 エンコミエンダ制・アウディエンシア統治・メキシコ総督・ペルー総督 |
大航海物語 スペイン編★ |
ESPANA メンドーサ副王 スペイン 1966 発行 |
MEXICO メキシコ地図 メキシコ 1915-16 発行 |
MEXICO メキシコ 1939 発行 |
ESPANA 新大陸からスペインへお宝を運んだ スパニッシュ・キャラック船 Spanish Carrack スペインから新大陸へは人と物資を輸送 スペイン 1964/7/16 発行 |
MEXICO ヌエバ・エスパーニャ古地図、1579 ニュースペイン(メキシコ) |
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カリフォルニア半島 |
←スパニッシュ ガレオン船 ←フロリダ ←キューバ ←ユカタン半島 ←ベリーズ ←グアテマラ ←ホンジュラス |
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メキシコ 1979 発行 |
メンドーサは1535年45才でヌエバ・エスパーニャ初代副王として大西洋を横断して新大陸へ渡りました。メキシコのサカテカス銀山を発見する幸運に恵まれましたが、初期の困難な植民地統治を15年の長きに渡り勤めあげ、国王の権威を確立しました。本国への帰国を希望しましたが受け入れられず、第3代副王として混乱の続くペルーへ61才で派遣されました。本国スペインへ帰ることなく病に倒れ、62才で同地で亡くなりました。 |
アントニオ・ド・メンドーサ副王 Antonio de Mendoza(1490〜1552、副王在位1535〜1552) メンドーサ副王はスペイン・グラナダ近郷の最も由緒アル家柄に生まれ、スペイン国王カルロス1世の廷臣となりました。イタリアへの外交使節として多くの業績をあげた後、国王によりヌエバ・エスパーニャ初代副王に任命されました。副王制度は新大陸で300年間存続しました。1535年新大陸ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)へ渡りました。時に、よわい45才でした。 メンドーサがメキシコに着いた時は、エルナン・コルテスがアステカ帝国を征服して、既に14年が経過しており、総督としてのコルテスに名声・人望・権力・富が集中していました。メンドーサには国王の権威の確立、傲慢な役人の悪弊の是正、征服したインディオの帰順と改宗の促進、国王財政への最大利益収納のための植民地経済の発展などの困難な使命が託されていました。メンドーサは大胆、堅実で、しかも勤勉な副王として、その使命を達成したと伝えられています。原住民に対しては家父長の如く接して、その待遇や法的地位の改善に大いに努力したといわれています。メキシコに赴任して、7年後の1542年に、ドミニコ会のラスカサス修道士などの働きで制定された”インディアス新法”(エンコミエンダ制)には経済的混乱を引き起こしスペイン人の反発を招くだけだと反対して実施を見合わせました。 メンドーサは原住民の反乱鎮圧の際に、偶然にも1546年”サカテカス銀山”を発見しました。この銀山はペルー副王領ボリビアの”ポトシ銀山”と共に、国王の財政に大きく貢献しました。さらに、産業の振興に務め、小麦、オリーブ、絹、牛、などのヨーロッパ産その他の産物の生産を奨励しました。探検踏査についても情熱をそそぎ、まずは太平洋探検の船隊を送り出しました。そして1540年にはコロナードの探検隊を”シボラの7つの都”発見のために北方へ遠征隊を派遣しました。(なお、コロナードは1540年にグランド・キャニオンを発見しています)。メンドーサはアステカ帝国よりも強大な帝国の存在を信じていましたが、それは夢と終りました。 15年にわたる多彩な任務を実直に務めて疲れきった副王は余生をスペインで送りたいと願い出ましたが聞き入れられず、それどころか有能で勤勉実直であるが故に、未だ反乱後の混乱の続くペルーへ、1551年61才で、第3代ペルー副王として派遣され、ペルーでは国王の権威の回復に努め、息子を各地の鉱山に派遣してインディオの労働条件を報告させましたが、志なかばにして病に倒れ、1552年62才で母国スペインに帰ることも無くペルーで亡くなりました。 なお、メキシコでは、1546-48年の間にメキシコのサカテカスとグアナフアトで銀山が発見され、1555年にメキシコで水銀アマルガム法(灰吹法)という精錬法が発明されて銀の採掘に使用され産出量が飛躍的に増加しました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和6年 2024/9/23 |
エンコミエンダ制 スペイン人の初期の植民地支配 |
エンコミエンダ制によるインディオ(原住民)の搾取 コロンブスが発見した新世界”インディアス”では莫大な金を手に入れるこどは夢物語に過ぎず、それどころか毎日の食料にも事欠く有様で、反乱を起こす者まででました。コロンブスは事態を収拾するため、食料をはじめ生活に必要な物資を入手し、住居や町を建設したり、黄金をはじめ貴金属を採掘するため、スペイン人入植者に一定数のインディアオを分配しました。これはレパルティミエント(分配)と呼よばれる制度て、これによりスペイン人は必要な労働力としてインディオを使役しました。そしてスペイン人はインディオを一ヵ所に集めて原始的な生活から文化的な生活へと改善しょうとしましたが、インディオは伝統的な生活慣習を破壊された上に、苛酷な労働や虐待のために死亡して、さらに旧世界からもたらされた疫病の流行もあって人口は減少の一途を辿りました。失われた労働力を補うための近隣の島々への奴隷狩りも行われました。 当時のスペイン、カスティリヤ・レオン王国は大々的に海外事業を行おうとしましたが、羊毛以外の産業はほとんど無く、しかも”レコンキスタ”(国土回復戦争)を約800年も戦い続けてきた王室には、投機的性格の強い探検航海に投資する資本の余裕が有りませんでした。そこで遠征を計画する者にさまざまな特権を与え、その代り発見された財宝や土地管理権の五分の一を王室に収めさめるという「協約書」を締結させました。すなわちスペインの海外事業は民間人が国王の許可を得て、自分の生命財産を掛けて行う私的事業だったわけです。 1502年ニコラス・デ・オバントが総督として赴任して来て「スペイン国王がローマ教皇から委ねられた原住民のキリスト教化を実現するためとスペイン人植民者の生活を保障しインディアスからの歳入増加を図るため」にエンコミエンダ制の導入をイサベラ女王に提案し許可を受けました。エンコミエンダ制とは征服者や入植者にその功績や身分に応じて一定数のインディオを割り当て、一定期間その労働力として使役する権利を与えると共に、彼らを保護しキリスト教徒に改宗させることを義務付けるものでした。エンコミエンダを下賜されたたスペイン人はエンコメンデロと呼ばれました。エンコメンデロはインディオを使役できる期間が限られていましたので、彼らを酷使して自分の蓄財に励むこととなり、ヨーロッパから持ち込まれた疫病の流行もあってインディオを死なせ、ますます人口が減ってゆきました。原住民の改宗を使命とするフランシコ会やドミニコ会の伝道師はインディオの置かれている状況に気づくと、エンコミエンダ制に猛烈に反対してインディオを擁護しました。そして1512年最初の植民法の「ブルゴス法」が制定されましたが、植民地では実効は得られませんでした。1523年6月にはスペイン国王カルロス1世がコルテスに対してエンコミエンダ制の導入禁止を発布しましたが、コルテスはすでにスペイン人にエンコミエンダを与えていて、その必要性を国王に書簡で書き送ったと伝えられています。 スペイン人によるインディアスの植民は始めはイスパニョ−ラ島ではじめられ、次いでキューバ島やプエルトリコ島へと拡大され、コルテスのアステカ帝国征服によりメキシコへ、そしてピサロのインカ帝国征服により南米へとさらに拡大してゆきました。それと共にエンコミエンダ制も広く実施されました。国王はインディオを悲惨な状況から救うべく、また権力が征服者個人に集中するのを恐れて、何度かエンコミエンダ制禁止令を出しましたが実効はありませんでした。ところがインディオの人口減少(絶滅)により消滅する事となりました。 |
エンコミエンダ制関連年表 | ||||
年 | 氏 名 | 記 事 | 備 考 | |
1492 | 10/12 | クリストファー・コロンブス | ワットリング島到達 | 新世界の発見 |
1496 | 8月 | バルトロメ・コロン | サント・ドミンゴ市建設 | ・ |
1497 | ・ | フランシスコ・ロルダン | イスパニョ−ラ島で反乱を起こす | ・ |
1498 | ・ | コロンブス | レパルティミエント(分配)制度実施 | ・ |
1499 | 5月 | フランシスコ・デ・ボバディリャ | インディアス総特となり、1500/8来島 | コロンブス逮捕 |
1500 | 6月 | イサベラ女王 | インディオを自由な臣下と宣言 | ・ |
1502 | ・ | ニコラス・デ・オバンド | 総督としてイスパニョ−ラ島へ来島 | ・ |
1503 | 12月 | >同上 | エンコミエンダ制の導入 | ・ |
1511 | ・ | ドミニコ会修道士 | 征服戦争やエンコミエンダ制を糾弾 | ラスカサス |
1512 | ・ | 国王 | ブルゴス法を制定 | 実行力無し |
1516 | ・ | カルロス1世 | >スペイン国王に即位 | ・ |
1519 | ・ | カール5世 | カルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝に選出 | ・ |
1519 | ー1521 | エルナン・コルテス | >アステカ帝国を征服、エンコミエンダ制導入 | ・ |
1523 | 6月 | 国王 | メキシコのエンコミエンダ制を禁止 | 実行力無し |
1528 | 5月 | 国王 | メキシコのエンコミエンダの世襲化を承認 | ・ |
1530 | 7月 | 国王 | エンコミエンダの段階的廃止を決定 | ・ |
1531 | -1533 | フランシコ・ピサロ | インカ帝国を征服、エンコミエンダ制導入 | ・ |
1536 | ・ | 国王 | エンコミエンダの2世代所有を認める | ・ |
1542 | 11月 | 国王 | 「インディアス新法」を制定 | 翌年6月公布 |
1544 | ・ | ゴンサロ・ピサロ | ペルーで「新法」反対の反乱を起こす | 1548/4/10処刑 |
1545 | 10月 | 国王 | 「新法」のエンコミエンダ撤廃条項を撤回 | ・ |
1549 | 2月 | 国王 | エンコミエンダを労役制から貢納制へ転換 インディオの私的労役を禁止する勅令発布 |
実行力無し |
1550 | ・ | メキシコ・ペルー | エンコメンデロが世襲化を求める運動展開 | ・ |
1556 | ・ | フェリペ2世 | ペルーのエンコミエンダの世襲化を決定 | のちに撤回 |
エンコミエンダ制 |
アウディエンシア統治 スペイン人の植民地支配 |
副王領の行政組織としてのアウディエンシア統治 コロンブス以来の探検航海で新世界の各地が次々と発見され、征服も行われるに至りました。そうするとスペインから遠くはなれた領土の統治がおよばなくなって、征服者などのスペイン人の権限が強大になる事を恐れた国王は、スペイン本国で1524年にインディアス諮問会議を組織しました。諮問会議はアメリカ植民地の問題を監督し、国王に植民地の諸事項を報告し、助言する事となりました。かつてスペイン・アラゴン王国が地中海とイタリアの領土を統治するために考案されていた「福王制」がアメリカ植民地に導入される事となり、メキシコシティとリマを基地とする広大な2大副王領に分割されました。最初の副王は1535年にアントニオ・ド・メンドーサがヌエバ・エスパーニャへ派遣されました。副王は国王の政策を実行し、国王の財務と教会および司法の問題を監督する責任を負っていました。副王領が広大であったため、いくつかの行政単位に分けられ「アウディエンシアの統治」とされました。16世紀中に10のアウディエンシアが設置されました。 最初は1511年のイスパニョ−ラ島周辺を統治するサント・ドミンゴのアウディエンシアでした。1528メキシコシティ、1538パナマ、1542リマ、1542グァテマラ、1548ヌエバ・ガリシア(メキシコ北部)、1549サンタフェ・デ・ボゴタ、1559チャルカス(ポトシ付近)、1563キトー、1565チリ、に設置されました。 メキシコシティとリマのアウディエンシアは特に強力な組織でした。議長および数人のオイドールと呼ばれる判事で構成される最高裁判所で、その法廷はインディアスでの適正な法律の遵守を確立する責任をおっていて、さらに行政的な機能を持ち、行政の執行も行う強力な法廷でした。副王に助言し、副王が死亡した場合はその政務を肩代わりしました。アウディエンシアの治世下はさらに小さな単位に細分され、ゴペルナシオン(行政区)があり、その下位にコレヒミエント(メキシコではアルカルティーア・マヨール)が地方に置かれ、その行政単位の長はコレヒドール(メキシコではアルカルデ・マヨール)と呼ばれました。 |
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★スペイン | メキシコ総督・副王列伝 ヌエバ・エスパーニャ |
大航海物語★ |
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コルテス |
メンドーサ |
身分 | 年 | 氏 名 | 備考 |
総督 | 1522-26 | エルナン・コルテス (フェルナンド) Hernan Cortes (Fernando) |
アステカ帝国征服 |
議長 | 1528-30 | アウディエンシア統治 | ・ |
議長 | 1530-35 | アウディエンシア統治 | ・ |
副王 | 1535-50 | アントニオ・ド・メンドーサ Antonio de Mendoza |
初代副王 |
副王 | 1550-64 | ルイス・ド・ベラスコ Luis de Velasco |
・ |
議長 | 1564-66 | アウディエンシア統治 | ・ |
副王 | 1566-68 | ガストン・ド・ベラルタ Gaston de Peralta |
ファルセス侯 Marques de Falces |
副王 | 1568-80 | マルティン・エンリケス・ド・アルマンサ Martin Enriquez de Almansa |
・ |
副王 | 1580-83 | ロレンソ・スワレス・ド・メンドーサ Lorenzo Suarez de Mendoza |
コルーニャ伯 Conde de Coruna |
副王 | 1584-85 | ペドロ・モヤ・イ・ド・コントレーラス Pedro Moya y de Contreras |
兼大司教 |
副王 | 1585-90 | アルバロ・マンリケ・ド・スニガ Alvaro Manrique de Zuniga |
ビリャマンリケ侯 Marques de Villamanrique |
副王 | 1590-95 | ルイス・ド・ベラスコ Luis de Velasco |
2代目副王の子 |
副王 | 1595-03 | ガスパル・ド・スニガ・イ・アセベード Gaspar de Zuniga y Acevedo |
モンテレイ伯 Conde de Monterre |
ヌエバ・エスパーニャ | |||
16世紀当時のメキシコ副王領は「ヌエバ・エスパーニャ」(新スペイン)と呼ばれて、現在の中央アメリカのメキシコ・ホンジュラスから、北アメリカのカリフォルニア・テキサス・バージニア・フロリダにいたる広大な地域を総括していました。 |
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★スペイン | ペルー 総督・副王列伝 |
大航海物語★ |
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ピサロ |
ガスカ |
トレド |
身分 | 年 | 氏 名 | 備考 |
総督 | 1532-41 | フランシスコ・ピサロ Francisco Pizarro |
インカ帝国征服 |
総督 | 1541-44 | リストバル・ヴァカ・ド・カストロ Cristobal Vaca de Castro |
・ |
副王 | 1544-46 | ブラスコ・ヌニェス・ド・ベラ Blasco Nunez de Vela |
初代副王 |
副王 | 1547-50 | ペドロ・デ・ラ・ガスカ Pedro de la Gasca |
ペルー反乱平定 |
副王 | 1551-52 | アントニオ・ド・メンドーサ Antonio de Mendoza |
ヌエバ・エスパニャ 初代副王 |
議長 | 1552-56 | アウディエンシア統治 | ・ |
副王 | 1556-60 | アンドレス・ウルタード・ド・メンドーサ Andres Hurtado de Mendoza |
カニェーテ侯 Marques de Canete |
副王 | 1561-64 | ディエゴ・ロペス・ド・スニガ・イ・ベラスコ Diego Lopez de Zuniga y Velasco |
ラ・ニェーバ伯 Conde de La Nieva |
総督 | 1564-69 | ローペ・ガルシア・ド・カストロ Lope Garcia de Castro |
・ |
副王 | 1569-81 | フランシスコ・ド・トレド Francisco de Toledo |
・ |
副王 | 1581-83 | マルティン・エンリケス・ド・アルマンサ Martin Enriquez de Almansa |
ヌエバ・エスパーニャ 第4代副王 |
議長 | 1583-85 | アウディエンシア統治 | ・ |
副王 | 1585-89 | フェルナンド・ド・トレス・イ・ポルトガル Fernando de Torres y Portugal |
ビリャール伯ドン・パルド Conde de Villar Don Pardo |
副王 | 1589-96 | ガルシア・ウルタード・ド・メンドーサ Garcia Hurtado de Mendoza |
カニェーテ侯 Marques de Canete |
副王 | 1596-04 | ルイス・ド・ベラスコ Luis de Velasco |
ヌエバ・エスパーニャ 第8代副王 |
ペ ル ー | |||
16世紀当時のペルー副王領は中米のパナマ付近から、南米のコロンビア・エクアドル・ペルー・ボリビア・ベネズエラ・ブラジル西部・チリにいたる広大な地域を総括していました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 |