United Kingdom ![]() 国連 1983 発行  | 
      切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)探検大航海(V-31) ジョゼフ・バンクス準男爵 1770 ボタニー湾に上陸 バンクシア  | 
      大航海物語 イギリス編★  | 
    

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| AUSTRALIA バンクシア ![]() オーストラリア 1986/3/12 発行  | 
      NEW ZEALAND クック船長の第1回探検の乗船 エンデバー号 1768-1771 ![]() HM Bark Endeavour ニュージランド 1995/2/9 発行  | 
    
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       イングランドのロンドン生まれのバンクス準男爵は若くして巨額の遺産を相続し、自らクック船長の太平洋探検に同行して博物学を実地研究し、その後も多くの探検隊の後援をなし、自然科学の発展に貢献しました。王立協会々長となり、王立植物園キューガーデン顧問になると、世界各地に探検家と植物学者を派遣して植物を収集し、キューガーデンを世界屈指の植物園に育て上げ、多くの植物が西欧に紹介されました。オーストラリア囚人流刑植民地(ニューサウスウェールズ)建設にも自らの体験をもとに情報提供して貢献しました。  | 
    
| ・ジョゼフ・バンクス準男爵  (1743/2/13〜1820/6/19) Sir Joseph Banks, 1st Baronet、バス勲章(GCB)、王立協会々長(FRS) バンクス準男爵はイギリスの庶民院議員(House of Commons of the United Kingdom)で大地主のウィリアム・バンクス(William Banks)とサラ夫人(Sarah、ウィリアム・ベイツ(William Bate)の娘)夫妻の長男としてロンドンで生まれました。ハーロー校(Harrow School)に入学し、イートン・カレッジ(Eton College)に転校後、17才で天然痘の療養をきっかけに退学しました。当時の友人にサンドウィッチ伯爵(Lord Sandwich 1718-1792)がいました。1760年にオックスフォード(#1B24)のクライスト・チャーチ(Christ Church(The House)University of Oxford)の特別自費生になり、講義にほとんど出席せず、博物学を勉強しました。1761年に父が亡くなり、3年後に21才で巨額の遺産を相続しました。 1763/12月にチェルシー(Chelsea、#1H61)に転居、1794年に学位を取らぬまま退学するまでオックスフォードに在籍。1764年にオックスフォードでは開講していなかった植物学の講義を受けることを決意し、ケンブリッジ(#1A14)の植物学者イズラエル・ライオンズ(Israel Lyons the younger 1739-1775)に私費を提供して個人講義を受けました。チェルシーの自宅でも科学への関心を持ち、チェルシー・フィジック・ガーデン(Chelsea Physic Garden)や大英博物館(British Museum)に頻繁に出入りし、ソランダー博士をはじめとする、多くの科学者と親しくなり、ソランダー博士を通してリンネ博士の知己を得ました。 1766年にロイヤル・ソサイエティ(FRS:Royal Society of London、王立協会、1660年創立)の会員に選ばれました。同年に学友のコンスタンティン・フィップス男爵(Constantine John Phipps, 2nd Baron Mulgrave, PC, FRS, 1744-1792)と共に、自然史科学調査でカナダのニューファンドランド・ラブラドール(#NL)へ、フリゲート艦ニジェール号(5th rate frigate HMS Niger, 26gn, 220mn)で出帆。同地で収集したオオウミガラス(Great auk、1844絶滅)などの動植物について、リンネ博士の分類体系に従がって記載した論文を出版しました。 
 1774年にロイヤル・ソサイエティの評議員にはじめて選出され、その後1778/11月にロイヤル・ソサイエティ(FRS:王立協会)の会長に選出されると、その後41年間、亡くなるまで会長職を続けました。1781年には準男爵(Baronet)の称号を授与されました。王立協会々長のバンクス準男爵は、イギリス科学界の牽引者の1人となりました。特にジョージ3世のアドバイザーとして、1773年に王立植物園キューガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew、1759創立、2003ユネスコ世界遺産登録)の顧問となったのをきっかけに同園の発展に尽力し、世界各地に探検家と植物学者を派遣して植物を収集し、キューガーデンを世界屈指の植物園に育て上げました。多くの植物がキューガーデンの収集活動を通じて、西欧に紹介されました。このためにバンクーバー船長やブライ船長らの多くの探検航海を企画しました。ブライ船長がニューサウスウエールズ(#A)の総督になるように彼を推薦しました。他にも地理学者ウィリアム・スミス(William Smith, geologist,1769-1839)の、10年に渡るイングランド(#1)全図作成事業を財政的に支えました。 77才でロンドンで亡くなりましたが、子供はいませんでした。バンクス準男爵はオーストラリアに対して終生、強い思い入れがあり、ニューサウスウェールズ入植地のもっとも強力な擁護者でした。1779年にバンクス準男爵は下院議会で証言を行ない、「自分の考えでは本国の囚人の受け入れ先として最も条件に適うのはニューホランド(オーストラリア)沿岸地域のボタニー湾である」と主張し、その後の1778年のアーサー・フィリップ提督によるオーストラリア囚人流刑植民地建設(シドニー, #A)で実現しました。 
 参考HP:〜 ・バンクシアの写真 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/7/27、令和7年 2025/12/3  |