イスラエル
 
State of Israel
ISRAEL
イスラエルの地図

イスラエル 1951/4/30 発行
ISRAEL
20世紀のハイファ港

イスラエル 1969 発行
ALGERIE
アラブの領土を主張する
パレスチナ(イスラエル)の地図


アルジェリア 1976/7/16 発行

ISRAEL
17世紀のハイファ港とカルメル山(Mt. Carmel)

イスラエル 1980/9/28 発行
イベリア半島
ISRAEL
スペインがユダヤ人を追放

1492 スペインのユダヤ人追放500年記念 1992
イスラエル 1992/4/26 発行
パレスチナ

イスラエル
 Israel (the State of Israel)

面積:2.2万ku(日本の四国ほど、東エルサレム及びゴラン高原を含)、人口:約705万人(2006)、首都 エルサレム、民族:ユダヤ人(約76%)、アラブ人その他(約24%)、2006)、言語:ヘブライ語、アラビア語、宗教:ユダヤ教(76.8%)、イスラム教(15.5%)、キリスト教(1.7%)、ドルーズ(1.6%)、2005)、通貨:新シェケル(ILS)、1番切手:1948/5/16発行。
なお、日本の四国は面積:18,803.87ku、人口:4,128,476人(2006)。

イスラエル、正式名称「イスラエル国」はヨーロッパにおけるシオニズム運動の結果、主としてユダヤ人によって、紀元前のイスラエル王国にちなんだ「シオンの地」(パレスチナ)に、1948年イギリスから独立して建設された国家で、首都はエルサレムと、1950年にイスラエルが東西エルサレムを総称して宣言したものの、国連では認められず、各国の公館はテルアビブに集中している。

1948/5/15、イスラエル国として独立宣言、ダヴィド・ベン=グリオン(David Ben-Gurion)初代首相
1948/5/15〜1949/7月、第1次中東戦争、国連決議で広範囲な土地をイスラエルが占領
1949/5/11、国際連合に加盟
1956/07月、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言
1956/10/29〜1957/5月、第2次中東戦争、エジプトのスエズ運河国有化宣言に対応して、
        英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻、米・ソの仲介により3国は撤退
1967/6/5〜1967/6/10、第3次中東戦争(6日間戦争)、
        エジプトのナセル大統領による紅海のティラン海峡封鎖が引き金となり、
        イスラエルが「先制攻撃」を実施して6日間でイスラエルの圧倒的勝利で終結
        エジプトからシナイ半島とガザ地区を、同戦争に参戦したシリアからゴラン高原を、
        ヨルダンから東エルサレムとヨルダン川西岸全域を奪取
1972/9/5、旧西ドイツで、ミュンヘンオリンピック・テロ事件
       パレスチナ武装組織・黒い9月(ブラック・セプテンバー)がイスラエル選手村襲撃
       選手・コーチを人質に捕り、パレスチナ人の解放を要求、選手・コーチ11人が犠牲
       報復としてイスラエルはパレスチナ・ゲリラの基地を空爆
1973/10/6〜10/26、第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)
       エジプトのサダト大統領がシナイ半島奪還を目的としてユダヤ教祝日「大贖罪の日
       (ヨム・キプール)」にイスラエル軍に攻撃を開始。イスラエル軍の不敗神話が崩壊、
       その後、アリエル・シャロン将軍が復帰、スエズ渡河作戦を実行して形勢は逆転、
       10/16のスエズ渡河から17日で停戦、10/10からはシリアに反撃しダマスカスに迫る
1973年、戦後に石油危機(石油ショック)が起こり、世界経済にも深刻な影響を与える、
      遠く離れた日本では「トイレットペ−パー騒ぎ」が発生〜第1次オイルショック(oil crisis)
1975/6月、第3次中東戦争以来停止していたスエズ運河の通行が8年ぶりに再開
1976年、エンテベ人質救出作戦、唯一の犠牲者ヨナタン・ネタニヤフ中佐にちなんでオペレーション
      ヨナタンと呼び、パレスチナ過激派がエールフランス機をハイジャック、
      ユダヤ人またはイスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸。同国の
      アミン大統領の庇護のもと膠着状態が続くが、イスラエルのラビン首相は特殊部隊で
      犯人全員を射殺して人質奪回に成功
1977年、エジプトのサダト大統領がエルサレム訪問
1979年、イスラエル・エジプト平和条約締結。イスラエルが占領していたシナイ半島を返還
1981年、イラク原子炉爆撃事件、フランスの技術協力を得てバグダッド郊外に原爆開発用に
      建設中の原子炉をイスラエル空軍が爆撃
1982年、レバノン侵攻(ガリラヤ平和作戦)、アリエル・シャロン国防相が辞任
1991年、湾岸戦争、テル・アヴィヴを標的としたイラクによるスカッドミサイルの攻撃有
1992年、米国の主導により、マドリッド会議開催、PLOとの顔合わせ
1993年、オスロ協定成立、PLOがヨルダン川西岸とガザ地区の自治を開始
1995年、ユダヤ人過激派によりラビン首相が射殺される
2006年、イスラム武装組織ヒズボラ鎮圧を目的にレバノンに再侵攻(レバノン侵攻)
2012年、イスラエル首相がイランの核開発を避難して、空爆も辞さないと発言。

スペインがユダヤ人を追放 (1492/3/31)
スペインでイスラムに対するレコンキスタ(国土回復運動)の進展によりスペインのイスラム勢力がキリスト教勢力に追われ、イスラム教国に協力したとされたユダヤ教徒が弾圧されました。一部はキリスト教に改宗し、1492年異端審問所で改宗を拒否したユダヤ人は追放され、多数が地中海周辺の都市に移住。改宗したユダヤ人(ユダヤ教を偽装棄教し表面上キリスト教徒となったユダヤ人)は、スペインでは差別はなくならず、マラーノ(Marranos)と呼ばれ蔑まれました。この時、経済力を持ったユダヤ人の入植地がいくつも破壊されたために、その後の数10年に渡って深刻な経
スペインのユダヤ人追放
済不況がスペインを襲うことになりました。1492/3/31(4/29布告、猶予期間は3ヵ月。その間にユダヤ人は不動産や動産を処分し、携帯することが許されましたが、貴金属だけは国外へ持ち出すことが認めらず)にユダヤ人の追放令にカスティーリア王国のイサベラ女王がグラナダのアルハンブラ宮殿で署名(1391年にセビリアの虐殺事件が生起)。1492/8/2に最後のユダヤ人がスペインから去りました。6〜7万人がポルトガルへ、3万人が南部の港からイタリア、北アフリカ、オスマントルコへ、そして1万人が北方のナバル王国へ向かいました。追放の理由は、当時新興国だったオスマントルコのサルタン(国王)は経済が興隆するので、喜んでスペインから逃げてきたセファルディム系ユダヤ人を受け入れました。一方、ユダヤ人を追放したスペインでは、経済の基盤が衰退して、メキシコの銀で潤った16世紀を除くと、その後は衰退していきました。ユダヤ人はポルトガル、オランダ、イタリア、フランス、オスマントルコ(バルカン半島を含)、北アフリカなどへ逃げたとされています。

切手シートの図案はマルコ・ポーロも利用したといわれているアブラハム・クレスケス(Abraham Cresques 生年不詳-1387)のカタラン地図(Catalan Atlas 1375)を背景に、アラゴン裁判所(court of Peter of Aragon)での審判などを描いています。

参考HP:〜
イスラエルの地図(日本語)
日本の四国の場所地図

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     08/12/28、12/3/12

スタンプ・メイツ
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