United States 国連 1981 発行 |
切手で綴る アメリカ(USA)
シトカ 1799 Sitka, Alaska, USA |
大航海物語 参考資料 ★地図編★ |
ESPANA アラスカ南部のシトカ スペイン 1976/3/1 発行 |
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US AIR MAIL アラスカ州の地図 アラスカ州昇格記念 アメリカ 1959/1/3 発行 |
←シトカ |
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ラッコ(Sea Ota) ソ連 1971/8/12 発行 |
クラカケアザラシ ソ連 1971/8/12 発行 |
シトカ (Sitka, Alaska)、創建1799年 アメリカ合衆国アラスカ州アレキサンダー諸島バラノフ島西岸、アラスカ最初の市。 シトカ市郡(City and Borough of Sitka)はアメリカ合衆国アラスカ州のアレキサンダー諸島のバラノフ島西岸にある市郡(市であり郡の自治体、2005年の推定人口8,986人)で、アラスカで4番目の人口とアメリカで最大の行政面積があります。シトカという地名は先住民族のトリンギット族の言葉で「海のほとりの人々」という意味の「シーアテッィカ」(Shee At'ika)から来ており、シトカ・バイ・ザ・シー(Sitka-by-the-Sea)とも呼ばれています。1799年にロシア領アメリカの初代総督アレクサンドル・バラノフ(在任1799-1818)がアラスカを南下して移民団を新たな入植地バラノフ島に送り込んで、サンクト・ミカエル砦(Redoubt Saint Michael)を建設。そこをミハイロフスク(Mikhailovsk、現オールドシトカ)と命名したのがシトカ市の始まりとされています。 1741/7/15、ロシアのチリコフ船長が現在のシトカ市付近に到達したとされている 1775年、ボデガ・イ・クァドラ船長が北西航路探検の途上に来航して上陸、スペイン領を宣言 1778年、クック船長が第3回探検航海で北西航路を求める航海の途上に来航 1794年、ヴァンクーヴァー船長が世界一周航海で北西航路を求める探検航海の途上に来航 1795年、ロシア領アメリカのバラノフ総督がアラスカを南下して南東部の島(現バラノフ島)で 現地のトリンギット族(Tlingit)から土地の使用権を安く買いとる 1799年、バラノフ総督がコディアックから移民団をバラノフ島に送り込み、 新たな入植地サンクト・ミカエル砦を建設、ミハイロフスクと命名 1802年、トリンギット族の一派がサンクト・ミカエル砦(Saint Michael's Castle)を襲撃、 多数のロシア人を殺害、生存者がイギリス船ユニコーン号でコディアクへ戻る 1804年、バラノフ総督がロシア艦隊(ネヴァ号他)でシトカに戻り、 トリンギット族を砲撃してシトカの戦いが勃発、バラノフ総督が重傷を負うも勝利して、 ノボ・アルハンゲリスク(Novo-Arkhangelsk、現シトカ市)居住地を建設 1808年、バラノフ総督がシトカをロシア領アメリカの首都とする 1809年、クスコフ船長がカリフォルニアのボデガ湾からラッコ毛皮を持って帰港 1840年、アリューシャン列島・カムチャツカ半島・千島列島などで活躍したインノケンティ主教が シトカに移住して、教育に大変熱心で家を校舎として使用する (現在「ロシア僧正の家」としてアメリカ合衆国々立歴史公園に指定されている) 1840年、インノケンティ主教がロシアと緊密な関係のスウェーデンとフィンランドの協力で 太平洋沿岸で最初のプロテスタント教会のシトカ・ルーテル教会を建設 1848年、インノケンティ主教(後のモスクワ府主教)がセント・ミカエル大聖堂を創建 1860年代、徐々にラッコの毛皮貿易がすたれる 1867/10/18、アラスカ購入が成立、シトカもアメリカ領となる シトカはアラスカ準州の首都となり、 税関監査官1人がシトカ駐在のアメリカ政府職員となる プロテスタントの影響が以前よりも強まる 1868/9/19、バーニー・レイガン(Barney O.Ragan)が準州初の新聞シトカタイムズを創刊 1897年、クロンダイク・ゴールドラッシュで町は金鉱業と魚の製缶業で初期発展を遂げる 1900年、セント・ピーター・バイ・ザ・シー聖公会がアラスカ大聖堂に改名される 1906年、ジュノー(Juneau)へ首都が移転 1940年、第2次世界大戦が起こるとアメリカ海軍がヤポンスキー島に航空基地を建設、 その3万人の作業員を含めてシトカが管轄する 1963/9/24、シトカ一帯が大シトカ市として統合される 1966/1/2、セント・ミカエル大聖堂(聖ミハイル大聖堂)が火事で焼け落ちる、後に再建 1971/12/2、シトカ市郡の地方自治が承認される 2008/3/25、シトカで12年ぶりの殺人事件が起こる、 9人が何者かにより刺され、内4人が死亡の大量虐殺事件が起きる 街に住むジェイソン・アボット(18才)が容疑者として浮上。 現在、シトカには22の建物と史跡がアメリカ合衆国々定史跡に指定されており、空港はバラノフ島からジョン・オコンネル橋を渡ったヤポンスキー島にシトカ・ロッキー・グティエレス空港があって、航空機はアラスカ航空とハリス航空機サービスの2社が運行するも、よく天候による欠航や遅れが発生しています。
キクスアディ部族の勝利後に、部族のシャーマン・ストゥノークゥ呪術師(Shaman Stoonookw)がロシアの報復が近いと告げたので、水の補給が出来て、大砲火に抵抗する能力がある強力で頑丈な新しい砦シスキィノーゥ砦(Shis'ki Noow=Young Saplings:若い苗木)を造りました。それは73x50mの砦で、サウンドに向かって長く拡がる小石浜を利用して、浅瀬に邪魔されてロシア艦が射程内に近づけないと思われるインディアン川の河口近くに水際高く堅固に建設。14の建物とそれを取り囲む厚い木柵壁を造るために約1,000本の頑丈なトウヒ材(Picea sitchensis、シトカ松:Sitka Spruce)が使われました。キクスアディ部族の作戦は単純なもので、シスキィノーゥ砦でロシア軍の強さと意志をはかって打って出て、堅固で安全な難攻不落の新しい砦に戦略的な退却を行うというものでした。また、近隣の島々のトリンギット族に応援を求める使者を送りましたが、彼らに他所者カルガ(outsiders' kalga、奴隷)と蔑まれていたせいか、それとも狩猟の腕前の見事さ由に嫉(ねた)まれていたのか、何の音沙汰もありませんでした。 ・戦いの経過 The Battle (Sitka)
・2日目〜 バラノフ総督が重症で、ネヴァ号のリシャンスキー艦長が代わりに指揮を執ることになり、ネヴァ号からキクスアディ部族のシスキィノーゥ砦に向けて艦砲射撃の開始を命じました。最初の砲弾は距離を測るもので、最適な砲撃条件を決めようとしました。弾幕砲撃を開始後に、ネヴァ号の砲弾では砦の防護柵を破れないことが分かり、午後早くに砲撃を止め、休戦旗(flag of truce)を持った使者を上陸させました。ロシアの伝令の要求は降伏でしたので、キクスアディ部族の者達はニベもなく拒絶。キクスアディ部族はロシア軍こそ降伏すべきだと返事を伝えるも、拒否されました。ロシアの砲撃が再開され、日没まで続きました。夜になって、キクスアディ部族はその事態を検討する会議を開きました。キクスアディ部族の弾薬の量が限られていたために包囲攻撃戦に耐えられるのも限界があることと、そのために究極的な勝利の見込が薄いことが問題でした。キクスアディ部族は戦術の変更が望ましいという結論になりました。ロシア軍は森の中では戦ってこないと感じていたので、全員で周りの森の中に隠れてしまって、島の北方に新たな集落を作り上げてしまうという戦術をとりました。 ・3日目〜 日の出とともに、ネヴァ号がバイダルカ船を随伴して、キクスアディ部族のシスキィノーゥ砦への砲撃を開始しました。キクスアディ部族は休戦の使者を送ってきて、捕虜の交換、協議の継続、降伏の可能性すら仄めかしました。ロシア軍が知らない内に、一族の老人と子供達は、すでにガヤー・ヘーン(Gajaa Heen=Old Sitka:オールド・シトカ)への移動を始めていました。夜になって、族長達が再び集まり、バラノフ島を横切る移動について話し合い、乳飲み子持ちの女親は翌朝出発することにしました。 ・4日目〜 夜明けとともにネヴァ号からの艦砲射撃が始められましたが、時々はキクスアディ部族に対するロシア軍の休戦の申し出を行うために砲撃を止めました。停戦申し出はそのたびに拒絶されました。午後、トリンギット族からの反応があり、「戦争に飽きてきたからロシアの要求に従って、明日シスキィノーゥ砦を明け渡す」と言ってきました。日が沈むと、キクスアディ部族はシスキィノーゥ砦で最後の会合を開き、部族の長老達が恐ろしい敵に対してキクスアディ部族の土地を守り抜いた一族の者達を褒め称えました。一族は集まって「最後の歌」(last song)を歌い、最後は騒々しい太鼓の連打と、苦悩の号級(wail of anguish)で終わりました。ロシア軍はそれを降伏の合図だと解釈しました。キクスアディ部族は闇に紛れて見とがめられることもなく脱出して行きました。 ・その後〜 10/7に キクスアディ部族が「白鳥の歌」(Swan song)を謳いながら、キクスアディ族の「シトカ・キクスアディ・サヴァイヴァル・マーチ」(Sitka Kiks.adi Survival March:生き残りの行進曲)と呼ばれる船出をして出発した後、ロシア軍は海岸を確保し、シスキィノーゥ砦の周りを偵察しました。ロシア軍は現住民が誰も居ないことを知って驚きました。 10/8に リシャンスキー艦長が放棄されたキクスアディ部族のシスキィノーゥ砦に行ってみると、現住民が人っ子一人も居ませんでしたし、赤ん坊や犬の声でも聞こえるのではないかと森の中を探っても、キクスアディ部族の人々はそれら全てに死を与えているかのように静まり返っていました。全体の雰囲気から判断すると砦には少なくとも800人の男ばかりが居たと思われました。砦は2度とロシアに反攻するのに使われないように、徹底的に破壊されました。 11/10に ネヴァ号がシトカ・サウンドを出帆して、太平洋の探検航海の途に着きました。 ・トリンギット族キクスアディ部族のその後〜 シトカ・キクスアディ・サヴァイヴァル・マーチ (Sitka Kiks.adi Survival March)、シトカ・キクスアディ生き残り行進曲 ロシアの最初の攻撃時に総司令官バラノフ総督が重傷を負って反撃されたので、海軍の応援を頼み、キクスアディ部族の新しい砦”シスキィノーゥ砦”に艦砲射撃を加え、数日間後に周辺の森の中にキクスアディ部族を追い出しました。ロシアの勝利は決定的なものでしたので、キクスアディ部族は先祖伝来の土地から永久的に追い出される結果となり、北方に逃げ延びて隣接するチチャゴフ島に新しい集落を造りました。 その行程は、徒歩でシスキィノーゥ砦からガヤー・ヘーン(Gajaa Heen)を経て、伝統的な現住民の食料の「数の子」(ヘリングロー:Herring roe)を毎年5月に収穫するナクワシナ湾(Nakwasina Sound)の漁場のあるダヘイト(Daxeit)へ行くことでした。そこから、山地を横切って北のチャートル・カーノーウ(Chaatl Kaa Noow)に至りました。チャートル・カーノーウにはペリル海峡(Peril Strait))のポイント・クレイブン(Point Craven)にあるキクスアディ部族のハリバット砦(Halibut Fort)がありました。しかし、バラノフ島の北西にある湾を回る海岸ルートが島の深い森を避けられそうなコースでした。それは後にシトカ・クワーン(Sheet'ka Kwaan、シトカ族)に行われた調査で裏付けられています。アカスギ(red cedar、米杉:Thuja plicata)の幹で作られたカヌー(Canoes)であれば、チチャゴフ島までの海洋も航海できました。戦闘の後も、幾らかの戦士がノーウ・トライン砦の近辺に後衛として残され、ロシア人開拓者に嫌がらせを行い、またキクスアディ部族が北へ逃げ延びる間、ロシア軍の追跡を防ぎました。その後間もなくアレウト族罠猟師8人がジェイムズタウン湾で殺害され、またノボ・アルハンゲリスク(ニューアークエンジェル)の近くの森で撃たれた者も出ました。その時から後は、ロシアの猟師の一隊が大勢で出かけるようにして、それ以上の攻撃が無いように警戒しました。キクスアディ部族は他のトリンギット族にいかなる場合もロシア軍と接触しないように勧め警告しました。 ・ロシア領アラスカの再建:〜 ノーウ・トライン砦のケコール(kekoor:丘)の上には、ロシア軍が自軍の砦(krepost)を建設して、現地人トリンギット族の攻撃に備えて、高い木の柵壁(wooden palisade)と3基の望楼(watchtowers)、32門の大砲を備えつけました。1805年の夏までに、砦の中には作業場、宿舎そして総督の邸宅(Governor's Residence)など、8棟の建物が建設されました。キクスアディ部族は毎年インディアン川河口近くの「ヘリング・ロック(Herring Rock)に遠征を行う他は、1821年まで拡大する植民地との問題を避けていました。ロシアは先住民族の巧みな狩猟技術を利用して、利益を得ることを期待し、開拓地に対する散発的な襲撃を終わらせたいと考え、トリンギット族にシトカに戻るよう要請しました。1808年にシトカがロシア領アメリカの首都に指定されました。シトカに戻ることを選んだキクスアディ部族は「基地の丘」(Blockhouse Hill)のしっかりと守られた防御柵の直ぐ下の集落の一部(そこは1965年頃迄ランチェ(Ranche)と呼ばれる)に住むことを許可されました。ロシア軍の砲兵隊はシスキィノーゥ砦で敗北したこと忘れないように、常に訓練されていました。キクスアディ部族は入植者に栽培法を教えられたトウモロコシなどの食料やラッコの毛皮をロシア人に供給し、入植者はトリンギット族にロシアの文化やロシア正教会(Russian Orthodox Church)の様々な事柄を教えました。トリンギット族による反攻はときたま起こり、1855年の重大な武装蜂起の後、1858年までに終息しました。ロシア領アメリカが1867年にアメリカ合衆国に売却され、ロシアの財産は全て、ロシア・アメリカ会社(露米会社)とともに清算されました。この領有権移行に伴い、土地のトリンギット族の多くの長老はロシアが売却できる権利があるのはキャッスル・ヒル(Castle Hill)だけだと主張しました。トリンギット族の主張は20世紀後半まで放置され、1971年のアラスカ先住民権益措置法(Alaska Native Claims Settlement Act)で決着しました。1880年の国勢調査(Census)では、キクスアディ部族の伝統的な夏の漁場であるインディアン川近くに住んでいたキクスアディ部族は43人でした。 アメリカ合衆国第23代大統領ベンジャミン・ハリソン(Benjamin Harrison 1833-1901)は1890年に「シスキィノーゥ」を公的な用途に使うものと指定。1972/10/18に「アラスカにおけるトリンギット族とロシアの経験を記念するために」戦場跡がシトカ国定歴史公園(Sitka National Historical Park)に指定されました。今ではトリンギット族の犠牲者の栄誉を称え、シスキィノーゥの地にカルヤーン・ポール(K'alyaan Pole=トーテムポール)が建てられていますし、戦いで戦死したロシア軍水兵の記念のために、タ・エートル(Ta Eetl)がロシア軍が上陸したインディアン川の向こう岸に置かれています。2004/9月に戦いから200年を記念して両軍の戦闘員の子孫が集い、トリンギット族の伝統的な「泣きの儀式」(Cry Ceremony)を行って、亡くなった先祖を公式に弔い、翌日キクスアディ部族が悲しみの2世紀を「取り払う」(put away)という和解の儀式を行いました。 ・アレキサンダー諸島 Alexander Archipelago アレキサンダー諸島はUSAのアラスカ州南東部の沿岸にある諸島で、ロシアの探検家で初代アラスカ総督に就任(1790)したアレクサンドル・バラノフに因んで命名。 1741年、ロシアのベーリング船長が探検航海、その後イギリス、スペイン、アメリカが探検 1775年、スペインのボデガ・イ・クァドラ艦長が探検航海 水先案内人のフランシスコ・モーレルがプリンスオブウェールス島のブカレリ湾を発見 1778年、クック船長が第3回探検航海で北西航路を求める航海の途上に探検航海 1786年、ラ・ペルーズ船長がアラスカ探検航海の途上に探検航海 1790年、アメリカのイングラハム船長がクィーン・シャーロッテ島で原住民と毛皮取引 1793年、イギリスのヴァンクーバー船長が探検航海 1867年、アメリカがアラスカを購入して、アメリカ領となる 主な島々:〜 ・チチャゴフ島(Chichagof Island)〜 ロシアの探検家ワシリー・チチャゴフ(Vasili Chichagov 1726-1809)に因んで命名 ・バラノフ島(Baranof Island)〜シトカ有 アレクサンドル・バラノフに因んで命名 ・ヤポンスキー島(Japonski Island)〜 1805年に日本の北海道の漁民がこの島に漂着したのに因んで命名 ・ベイカー島(Baker Island)〜 1741年ベーリング第2次探検隊のチリコフ船長が到達 ・プリンスオブウェールズ島(Prince of Wales Island)、ブカレリ湾(Bucareli Bay)有 ・スエメズ島(Suemez Island)〜 1774年スペインのペレス(Juan Perez, 1725-1775)がメキシコのラ・パスからボートで到達 ・アドミラルティ島(Admiralty Island) ・クプリアノフ島(Kupreanof Island) ・ランゲル島(Wrangell Island)〜ロシアのウランゲル提督に因んで命名 ・レビジャヒヘド島(Revillagigedo Island) ・ダル島(Dall Island) ・グラヴィナ諸島(Gravina Islands):〜 ・グラヴィナ島(Gravina Islandand) ・アネット島(Annette Island,) ・デューク島(Duke Island) など。
1799年にロシア・アメリカ会社(露米会社)のアレクサンダー・バラノフ支配人がヨーロッパ人として初めて入植しました。その後に建設されたシトカが、ロシア領アメリカの首都となり、毛皮貿易(ラッコの毛皮など)の中心地として繁栄。島は先住民族のトリンギット族(Tlingit)から、シートカザートル(Sheet’-ka X'aat'l)と呼ばれていました。島の名前は、1805年にロシアのユーリ・リシンスキー船長(Yuri Fyodorovich Lisyansky 1773-1837)がアレクサンダー・バラノフに因んで命名し、アレキサンダー諸島も彼の名前から命名されました。アレキサンダー諸島北部にあるアドミラルティ島(Admiralty Island)、バラノフ島(Baranof Island)、チチャゴフ島(Chichagof Island)の3島がABC諸島(ABC Islands)と呼ばれています。 参考HP:〜 ・シトカ市の地図(現在の地図) ・アレキサンダー諸島の地図(BARANOF Island:バラノフ島=シトカ島有) ・ABC諸島の場所地図 ・バラノフ島の地図 ・シトカ・サウンドの場所地図(拡大有) ・アラスカ・パンハンドルの地図(Alaska Panhandle、キクスアディ部族が住んでいた所) ・トリンギット地区の地図(トリンキット族と近隣諸族の分布地図) ・シトカ松の分布地図(トウヒ材:Picea sitchensis、シトカ松:Sitka Spruce) ・ロシア領アメリカの地図(詳細地図) ・探検航海の世界地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)有) (ペテルブルグ〜喜望峰〜バタヴィア〜マニラ〜(マカオ・カントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク) (ペトロパブロフスク〜ウナラスカ〜コディアク〜シトカ〜ヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス) ・アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、 (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)有) こちらで ・マゼラン (海峡) ・スパイス (香辛料) ・コーヒー (嗜好飲料) ・ピラミッド (エジプト)世界遺産 ・パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産 ・法隆寺 (日本)世界遺産 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/4/11、令和 R.2.2020/4/20 |