アラスカ Alaska |
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アラスカ州の鳥・ライチョウ Willow Ptarmigan アラスカ州の花・ワスレナグサ Forgot-Me-Not USA 発行 |
USA アラスカ州の旗、49番州 北斗7星(Big Dipper) USA 1976/2/23 発行 |
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SEYCHELLES アラスカ・パーチェイス、1867
セイシェル 1976/12/21 発行 |
USA アラスカ・クロンダイクのゴールドラッシュ、1898 クロンダイクへの国境のチルクック峠越え ゴールドラッシュ 100年 記念 USA 1998/8/21 発行 |
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アラスカ Alaska 面積:1,481,346 ku、人口:710,231人(2010)、USAの49番目の州(1959/1/3州昇格) アラスカ(Alaska)は、1648年にロシアのセミョン・デジニョフがアラスカに到達した最初のヨーロッパ人とも言われていますが、デジニョフの航海は19世紀後半まで忘れられており、1728/8/16にヴィトゥス・ベーリングが再発見・命名したとされています。1867年にアメリカ(USA)へ720万ドル(1ku当り$5ドル・計約100億円)で売却されました。当時のロシア領アラスカではアザラシの毛皮の運送費がかさむ上に、アザラシが乱獲で激減し毛皮事業がなりたたなくなってきていたことや、クリミア戦争(1854〜1856)後の財政難などの理由による資金調達のため、クリミア戦争の中立国であったアメリカ合衆国に売却されました。アラスカ購入の交渉をまとめたのはアメリカ国務長官だったウィリアム・スワードでした。 1648年、ロシアのデジニョフ船長がベーリング海峡のダイオミード島に到着 1728/8/16、ロシアのベーリング船長とチリコフ船長が再発見・命名 1732年、ロシアの地理学者ミハイル・グヴォーズデフ(Mikhail Gvozdev 1704-1759)が アラスカの最西端プリンスオブウェールズ岬(Cape Prince of Wales)を望見 1763年、ロシアの毛皮商人ステパン・グロトフがカムチャッカからアリューシャン列島を経て 探検航海してきて島の現地人のことを調査 1778年、クック船長がアリューシャン列島からアラスカに到達、アンカレッジ湾内を航海 1779年、キング船長がクック船長の没後にベーリング海峡を探検航海 1784年、ロシアのシェリコフ船長がアラスカ南岸沖のコディアック島に入植して居住地を建設 1792年、ロシアのバラノフがコディアック島植民地の中心を北東部のコディアック(Kodiak)に移し そこがロシアの毛皮交易の中心地になり、ロシア領アメリカの首都となる 1799年、ロシアのバラノフが初代アラスカ総督に就任 1804年、「シトカの戦い」が勃発 1815年、ロシア最初の世界1周航海でクルーゼンシュテルン提督がベーリング海峡を探検調査し ベーリング海峡の中間にある諸島でアメリカ合衆国アラスカ領のリトル・ダイオミード島は ロシア語でクルーゼンシュテルン島(Krusenstern Island)と提督の名に因んで命名 1816年、ロシアのコツェブー船長が極東アジア探検航海の途上、ベーリング海峡を探検調査 1827年、ロシアのリュトケ船長が極東アジア探検航海の途上、海峡を探検調査 1867年、ロシアがアメリカ(USA)へアラスカを720万ドルで売却(アラスカ買収) 1896年、カナダのユーコン準州で金が発見される 1898年、アラスカ州クロンダイクでゴールドラッシュが起る 1912年、カトマイ火山(Katmai(Novarupta)volcano 841m)が大噴火 1964/3/28、アラスカ地震(Alaska earthquake、Good Friday Earthquake、M8.5)が起き、 地震と津波で沿岸の町が甚大な被害を蒙る 1959/1/3、アメリカ合衆国の49番目の州に昇格。 ・アラスカ州には29の郡(borough)他州の郡(county)相当の地域有 非自治郡を1郡と数えて19の”borough”とすることもある 01.アリューシャンズ・イースト郡〜列島の東とアラスカ半島 (Aleutians East Borough) 02.アリューシャンズ・ウエスト国勢調査地域 (Aleutians West Census Area)〜アリューシャン列島の西側部分(列島のほとんど) 03.アンカレッジ自治市 (Municipality of Anchorage) 04.ベスル国勢調査地域 (Bethel Census Area) 05.ブリストル・ベイ郡 (Bristol Bay Borough) 06.デナリ郡 (Denali Borough) 07.ディリンガム国勢調査地域 (Dillingham Census Area) 08.フェアバンクス・ノース・スター郡 (Fairbanks North Star Borough) 09.ヘインズ郡 (Haines Borough) 10.フーナー=アングーン国勢調査地域 (Hoonah-Angoon Census Area) 11.ジュノー市郡 (Juneau City and Borough) 12.ケナイ・ペニンシュラ郡〜ケナイ半島 (Kenai Peninsula Borough) 13.ケチカン・ゲートウェイ郡 (Ketchikan Gateway Borough) 14.コディアック・アイランド郡〜コディアック島 (Kodiak Island Borough) 15.レイク・アンド・ペニンシュラ郡 (Lake and Peninsula Borough)〜アラスカ半島の東部分 16.マタヌスカ=スシトナ郡 (Matanuska-Susitna Borough) 17.ノーム国勢調査地域 (Nome Census Area) 18.ノース・スロープ郡 (North Slope Borough) 19.ノースウエスト・アークティック郡 (Northwest Arctic Borough) 20.ピーターズバーグ国勢調査地域 (Petersburg Census Area) 21.プリンス・オブ・ウェールズ=アウター・ケチカン国勢調査地域 (Prince of Wales-Outer Ketchikan Census Area) 22.シトカ市郡 (Sitka City and Borough) 23.サウスイースト・フェアバンクス国勢調査地域 (Southeast Fairbanks Census Area) 24.スカグウェイ郡自治市 (Municipality of Skagway Borough) 25.ヴァルデス=コルドヴァ国勢調査地域 (Valdez-Cordova Census Area) 26.ウェイド・ハンプトン国勢調査地域 (Wade Hampton Census Area) 27.ランゲル市郡〜ロシアのウランゲル船長に因んで命名 City and Borough of Wrangell) 28.ヤクタト市郡 (Yakutat City and Borough) 29.ユーコン=コユクック国勢調査地域 (Yukon-Koyukuk Census Area) 参考HP:〜 ・アラスカの地図(日本語) ・アラスカの地図(拡大有) ・アラスカ地区別の場所地図(拡大有) ・アラスカ州の郡区分地図 ・セワード半島の場所地図(デジニョフ岬〜ダイオミード島〜プリンスオブウェールズ岬が有) ・アリューシャン列島とアラスカ半島の場所地図(火山の詳細名称有) ・アラスカ地区別の場所地図(シトカ付近) ・アラスカ半島の地図 参考:〜
1861年に共和党のリンカーン大統領がスワードを国務長官(US Secretary of State)に指名し、1869年まで続けました。国務省(US Department of State)の長官(Secretary)として「合衆国は西部に拡大すべきだ」と主張、アラスカ購入(purchase of Alaska)の交渉に尽力しました。1867/3/30に、1,518,800 kuの土地を720万ドルでロシアから購入。これはテキサス州の2倍以上の広さにあたり、購入価格は1エーカー(約4000u)当り約2セントでした。この辺境の地を購入したことで大衆からは「スワードの愚行」(Seward's Folly)とか「スワードの冷蔵庫」(Seward's Icebox)とかアンドリュー・ジョンソンの「ホッキョクグマ庭園」(Andrew Johnson's "polar bear garden")などと嘲られました。今日アラスカ州では3月の最後の月曜日を「スワードの日」として祝祭日になっています。スワードは他にもデンマーク領ヴァージン諸島とドミニカのサマナ湾を併合し、またパナマをアメリカの統治下に置くことを画策しましたが、上院はこれらの条約を批准しませんでした。南北戦争(1861/4/12-1865/4/19)中はリンカーン大統領の戦時内閣の一員で働き、外国の介入阻止に尽力しました。 1865/4/14にリンカーン大統領暗殺と同じ夜の同じ時間に、犯人のジョン・ブース(John Wilkes Booth, 1838-1865)とその仲間の犯人グループはこのとき政府高官を同時殺害する計画を立てており、ルイス・パウエル(Lewis Thornton Powell 1844-1865)がスワード長官を暗殺しようと屋敷に行きました。4/5に馬車の事故で負傷して家で養生していたスワード長官の召使いのウィリアム・ベル(servant, William Bell)に、「薬を持って来た」と騙して邸内に侵入。犯人パウエルが2階に向うと、次男の国務次官補(Assistant Secretary)フレデリック(Frederick William Seward 1830-1915)が出てきて、パウエルの行動を不審に思い、父親は寝ているので帰って欲しいとパウエルに言いました。すると、パウエルは階段を降りるふりをして突然振り向き突進、フレデリックの頭に目掛けてピストル(pistol)を撃ちましたが、不発でパニックになって、フレデリックの頭をピストルで何度も殴打、フレデリックは脳震盪をおこして倒れ込みました。続いて、スワード長官の寝室に跳び込み、スワード長官の顔と首を何度か刃物で刺しました。パウエルはスワード長官の他の子供2人、長男オーガスタス(Augustus Henry Seward 1826-1876) )と娘のファニー(Frances Adeline "Fanny" Seward 1844-1866)、そして看護兵で勤務していたロビンソン軍曹(nurse Sgt. George Robinson)、そこに丁度来た電報配達人ハンセル(messenger Emerick Hansell)にも傷を負わせました。襲撃の時に、スワード長官は前の事故に対する手当てのために顎の添え木を着けていて、それで命を助かったと言われています。顔の傷跡は終生残りました。この夜の出来事で夫人や娘ファニーはショック(stress)を受け、フランシス夫人は同年6月に亡くなり、娘ファニーは翌年10月に結核で亡くなりました。パウエルは翌日逮捕され、1865/7/7にリンカーン暗殺計画に加担した他の3人、ヘロルド(David Edgar Herold 1842-1865)、アッツェロット(George Andreas Atzerodt 1835-1865)、メアリー・サラット(Mary Elizabeth Jenkins Surratt 1823-1865)と共に、暗殺の罪で四人が絞首刑にされました。 スワード長官は南北戦争の英雄グラント将軍(Ulysses Simpson Grant, 1822-1885)が第18代大統領になると国務長官を辞任しました。スワードは晩年、旅行を楽しみ著作を執筆。1870/7〜1871/9月に、14ヵ月と2日で世界一周旅行を果たしました。1872/10/10にニューヨーク州オーバーンの自宅で呼吸困難で亡くなりました。オーバーンのスワードの家は博物館として公開されています。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/3/3 |