Russian Federation 国連 1989 発行 |
切手で綴る 海軍大航海 (Naval Voyage)
ドミトリー・セニャーヴィン提督 1807 アトス沖の海戦 ナポレオン戦争 |
大航海物語 ロシア編★ |
E∧∧∧Σ |
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ドゥブロヴニク→ アドリア海→ オトラント海峡→ |
ギリシャの地図 ギリシャ 1930 発行 |
←黒海 ←ボスポラス海峡 ←マルマラ海 ←ダーダネルス海峡 ←アトス山半島 |
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イ オ ニ ア海 | エ|ゲ海 | |||
コリント湾→ ペロポネソス半島(白色下)→ ピロス→ |
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←ミルトア海 クレタ海 |
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ナヴァリノの海戦は ペロポネソス半島の 西のピロス沖の海戦 |
←クレタ島 地中海 |
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ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
CCCP corner label |
UKRAINA 19世紀ロシア帝国の戦列艦 ウクライナ 2001/4/20 発行 |
セニャーヴィン提督はロシア帝国エカテリーナ女帝によってクリミア併合が宣言され黒海艦隊が創設されると、ウシャコフ提督のもとでセバストポール軍港の守備の任に派遣されました。第二次露土戦争が勃発すると”フィドニシの海戦”に勝利してエカテリーナ女帝に拝謁しました。その後、エストニアのレヴァル軍港司令官に転任。ナポレオン戦争では、地中海派遣艦隊司令長官に就任して活躍。露英戦争では地中海から回航中のロシア艦隊がイギリス艦隊に拿捕される不運に見舞われましたが、ロシア艦隊はラトビアのリガに帰還しました。レヴァル港の管理官となっていた提督は、ニコライ1世に呼び戻されてバルチック艦隊司令長官で、ナヴァリノの海戦を勝利に導きました。 |
ドミトリー・ニコライェヴィッチ・セニャーヴィン提督 (1763/8/17〜1831/4/5) Admiral Dmitry Nikolayevich Senyavin 海軍大将、バルチック艦隊司令長官 ロシア・ボロブスク近郷生、サンクトペテルブルグ:78才没 セニャーヴィン提督はロシアのモスクワ州ボロブスク(Borovsk)近くで、大北方戦争で活躍した大叔父ノーム・セニャーヴィン提督(Naum Akimovich Senyavin 1738-1727)の家庭に生まれました。1780年17才で海軍学校を卒業すると、ポルトガルのリスボンへ遠征航海をしました。 1783年4月にロシア帝国(1721-1917)女帝エカテリーナ2世(Yekaterina II Alekseyevna, Catherine II, Catherine the Great, 1729-在位1762-1796/11/17, ロマノフ朝(1613-1917)第8代ロシア皇帝)
ロシア艦隊は戦艦12隻と他24隻に対し、 トルコ艦隊は戦艦25隻と他24隻との海戦に勝利して、 サンクトペテルブルグへ行き、ロシア帝国エカテリーナ女帝に拝謁して戦勝報告をしました。 ・カリアクラ岬沖の海戦(Battle of Cape Kaliakra、1791/8/11、ブルガリア北部の岬沖で、 ロシア艦隊は戦艦19隻と他19隻に対し、 トルコ艦隊は戦艦28隻と他50隻との海戦では、ナヴァルチア号(Navarchia)に乗艦して、 勝利しました。 1798-1800年のウシャコフ提督の地中海派遣艦隊で、セニャーヴィン提督は旗艦サンクト・ペテル号(Saint Peter)に乗艦して、レフカダ(Lefkada)で聖モーラのフランス要塞を強襲し、コルフ(Corfu)占拠に協力しました。その後は、カールソン港(Kherson)とセヴァストポール軍港の軍司令官を務めました。1804年には海軍少将(Rear Admiral)に推挙されて、エストニアのレヴァル軍港(Reval、現タリン Tallinn, Estonia)の軍司令官の職務を務めました。 3年後にロシア帝国アレクサンドル1世(Alexander I 、1777-1825、ロマノフ朝の第10代ロシア皇帝、在位1801-1825)がアドリア海のナポレオン・フランス軍による覇権の駆逐のために、ロシア帝国海軍地中海派遣連合艦隊司令長官にセニャーヴィン提督を推挙しました。1806年9月に海軍中将(Vice-Admiral)に推挙されたセニャーヴィン提督は ドゥブロヴニク(Dubrovnik、クロアチアのアドリア海沿岸にある街で「アドリア海の真珠」といわれる美しい町並みが1979年に世界遺産に登録) とのフランス艦隊による通商破壊の奪回を主張し、アドリア海に浮かぶクロアチアのフヴァル島のレジーナ(Lesina)攻撃を企図し、モンテネグロのオルソドックス王子(Orthodox)が陸路で支援すると誓約しました。モンテネグロの街コトル(Kotor)がオーストリイ帝国に降伏している間に、ロシア艦隊はクロアチアのコルチュラ島(Curzola)、ヴィス島(Vis、Lissa)を攻撃して占領しました。その間にフランス艦隊はイオニア諸島(Ionian Islands、Ionian Islands)を占領し制海権を獲得しました。 セニャーヴィン提督はイスタンブール市(Istanbul)攻撃のために、ロシア帝国艦隊をエーゲ海(Aegean Sea)に侵攻させ、 1807/2/17にダーダネルス海峡(Dardanelles)に到着し、3月に海峡入り口のアジア側南のテネドス島(Tenedos)を占領し、トルコの首都イスタンブールへの補給路を断ち切りました。 トルコ艦隊は反撃を開始し、 ・ダーダネルスの海戦(Battle of Dardanelles)、1807/5/10-11の間に トルコ艦隊は戦艦8、フリゲート艦6、他55隻で、 ロシア帝国海軍テネドス基地を攻撃し、 これをロシア艦隊がダーダネルス海峡で迎撃、撃破しました。 ・アトス沖の海戦(Battle of Athos)、1807/6/19-29の間に トルコ艦隊は戦艦9、フリゲート艦5、他5隻で、 ロシア帝国海軍テネドス基地を攻撃し、 これをロシア艦隊がギリシャ北部でエーゲ海に突き出るアトス山半島沖で撃破しました。 などが起こり、セニャーヴィン提督騎下のロシア艦隊が、全てに勝利しました。 セニャーヴィン提督の戦果は、ロシア帝国ツゥアー(皇帝)とナポレオン・フランス帝国とのティルジットの和約 (1807/7/7、東プロイセンのネマン川沿いの町ティルジット(現・ロシア連邦カリーニングラード州ソヴィェツク)で結ばれた講和条約) によって、フランスとロシアとの間には協調関係が成立したので、むなしいものとなりました。1807/8/12にセニャーヴィン提督はティルジットの和約の知らせを受取ると悲嘆にくれました。セニャーヴィン提督が獲得した戦果は国際情勢のドラマチックな大転換で全て水泡の露と消え去りました。 ナポレオンのロシア帝国の同盟国化がなると、ロシア帝国アレクサンドル1世(Alexander I 、1777-1825)は対スウェーデン戦争に備えて、セニャーヴィン提督に艦隊をセバストポールに帰還するよう命じました。帰還中のロシア艦隊は、1807/8/14イギリスのコリングウッド提督( Cuthbert Collingwood、1st Baron Collingwood, 1748-1810)艦隊に行くてを阻まれて分断されたので8日後に、戦列艦5隻、フリゲート艦4隻、コルベット間4隻、ブリッグ艦4隻という大編成のロシア艦隊をセバストポールへと先に出帆させました。セニャーヴィン提督は残りのロシア艦隊を率いてバルト海へ帰還し、ナポレオンに敵対して勃発した第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808-1809)でスウェーデン艦隊と相間見えるように企図しました。8/25にテネドス軍港から避難したロシア艦隊は9/19にコルフを出帆するも、悪天候でポルトガル・リスボンのテージョ河(Tagus River)に避難し、10/30にリスボン港に入港し停泊していると、イベリア半島戦争(1808-1814、イギリス・スペイン・ポルトガルによる対ナポレオン戦争)中のイギリス艦隊が迫まってきました。おりからロシア皇帝アレクサンドル1世がイギリスへ宣戦布告し、露英戦争(Anglo-Russian War 1807-1812)が勃発し、セニャーヴィン提督指揮下のロシア艦隊が、地中海からの回航中にリスボンで拿捕され、戦争終結までの間イギリスのポーツマスで拘禁されました。8/31にリスボンを、イギリス艦隊(戦列艦15隻、フリゲート艦10隻)に接舷状態で護衛されたロシア艦隊(戦列間7隻、フリゲート艦1隻)が出帆し、9/27にイギリスのポーツマスに到着しで拘禁されました。そして、1809/8/5にポーツマスを出帆し、9/9にラトビアのリガ(Riga)に到着しました。 その後のセニャーヴィン提督は、かっての輝かしい軍歴にもかかわらずナポレオン戦争(1803-1815)中、バルト海に面するエストニアの小さな港町レヴァル港の管理官を勤めました。1821年にギリシャ独立戦争が勃発するとセニャーヴィン提督の派遣要請がありましたが、海への復帰はかないませんでした。1825年にロシア帝国アレクサンドル1世が亡くなると、対トルコ戦争のために再びロシア帝国海軍に呼び戻されました。ニコライ1世(Nikolai I ,1796-1855、在位:1825-1855、ロマノフ朝第11代ロシア皇帝、兼ポーランド立憲王国の第2代国王)が彼を海軍大将に推挙してバルチック艦隊司令長官に任命しました。ガイデン提督(Login Geiden 1773-1850)やミハイル・ラザレフ提督 の艦隊を地中海に送り込み、ナヴァリノの海戦を勝利に導きました。3年後の1831年に78才で亡くなり、サンクトペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂に葬られました。ニコライ1世の命で1826年から3年間に渡る探検遠征隊の旗艦に彼の名前がつけられました。
<ナポレオン戦争と対仏大同盟> ナポレオン戦争(Napoleonic Wars、1792〜1815) ・第1期、フランス革命戦争 (French Revolutionary Wars、1792-1799) フランス革命政府(ジロンド派内閣)のオーストリアへの宣戦布告(1792/4/20)開始 アミアンの和約(1802/3/25)で終結 主な戦い ・1792/9/20 〜 ヴァルミーの戦い(Bataille de Valmy)仏勝利 ・1792/11/6 〜 ジュマップの戦い(Bataille de Jemappes)仏勝利 ・1793/3/18 〜 ネールヴィンデンの戦い(Bataille de Neerwinden) ハプスブルク帝国ネーデルラント共和国勝利 ・1793/7/27 〜 ヴァランシエンヌ包囲戦(Siege of Valenciennes) オーストリア英ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領勝利 ・1793/9/8 〜 オンドスコートの戦い(Battle of Hondschoote)仏勝利 ・1793/10/15-16 〜 ワッチニーの戦い(Battle of Hondschoote)仏勝利 ・1794/6/1 〜 栄光の6月1日海戦(Glorious First of June)仏勝利 ・1794/6/26 〜 フルリュスの戦い(Battle of Fleurus)仏勝利 ・1796/8/5 〜 カスティリオーネの戦い(Bataille de Castiglione)仏勝利 ・1796/11/15-17 〜 アルコレの戦い(Battle of Arcole)仏勝利 ・1797/1/14 〜 リヴォリの戦い(Bataille de Rivoli)仏勝利 ・1797/2/14 〜 サン・ビセンテ岬の海戦(Battle of Cape St Vincent)英勝利 ・1797/10/11 〜 キャンパーダウンの海戦(Battle of Camperdown)英勝利 ・1798/7/21 〜 ピラミッドの戦い(bataille des Pyramides)仏勝利 ・1798/8/1 〜 ナイルの海戦(Battle of the Nile)英勝利 ・1799/3/18-5/20 〜 アッコ包囲戦(Siege of Acre)英オスマン帝国勝利 ・1799/3/25 〜 シュトックアッハの戦い(Battle of Stockach)オーストリア勝利 ・1799/9/25 〜 第二次チューリッヒの戦い(Second Battle of Zurich)仏勝利 ・1800/6/14 〜 マレンゴの戦い(Bataille de Marengo)仏勝利 ・1800/12/3 〜 ホーエンリンデンの戦い(Bataille de Hohenlinden)仏勝利 ・1801/3/22 〜 アレクサンドリアの戦い(Battle of Alexandria)英勝利 ・1801/4/2 〜 コペンハーゲンの海戦(Battle of Copenhagen)英勝利。 ・第2期、ナポレオン戦争 (Napoleonic Wars、1799-1815) 狭義:アミアンの和約の後とすると(1803-1815) 統領政府(Consulat, 1799-1804)3人の統領 ナポレオンが第一統領に就任(Premier Consul、1799/11/9) ナポレオン1世の第一帝政(1804-1815)が成立 百日天下(1815/3/20-6/22)で終結 主な戦い ・1799-1800 〜 第二次イタリア戦役 (Second Coalition, 1799-1800)仏勝利 ・1800/6/14 〜 マレンゴの戦い(Bataille de Marengo)仏勝利 ・1805 〜 オーストリア戦役 (Third Coalition, 1805)仏勝利 ・1805/7/22 〜 フィニステレ岬の海戦(Battle of Cape Finisterre)英勝利 ・1805/10/17 〜 ウルムの戦い(Bataille d'Ulm)仏勝利 ・1805/10/21 〜 トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)英勝利 ・1805/12/2 〜 アウステルリッツの戦い(Bataille d'Austerlitz)仏勝利 ・1806-1807 〜 ドイツ・ポーランド戦役 (Fourth Coalition, 1806-1807)仏勝利 ・1806/10/14 〜 イエナ・アウエルシュタットの戦い(Schlacht bei Jena und Auerstedt)仏勝利 ・1807/2/7-8 〜 アイラウの戦い(Battle of Eylau)引き分け ・1807/6/14 〜 フリートラントの戦い(Battle of Friedland)仏勝利 ・1808年 〜 スペイン独立戦争(半島戦争, Peninsular War. 1808-1814)スペイン連合勝利 ・1809/5/21-22 〜 アスペルン・エスリンクの戦い(Battle of Aspern-Essling)オーストリア勝利 ・1809/7/5-6 〜 ヴァグラムの戦い(Battle of Wagram)仏勝利 ・1812 〜 ロシア戦役 (Campagne de Russie, 1812)ロシア勝利 ・1812/9/7 〜 ボロジノの戦い(モスクワ川の戦い、Bataille de la Moskova)仏勝利 ・1813-1814 〜 ドイツ・フランス戦役 (Sixth Coalition, 1813-1814)第六次対仏大同盟勝利 ・1813/10/16-19 〜 ライプツィヒの戦い(Battle of Leipzig)対仏連合軍の勝利 ・1815 〜 フランス戦役 (Seventh Coalition, 1815)第七次対仏大同盟勝利 ・1815/6/18 〜 ワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)英蘭連合軍プロイセン軍勝利。 ・第一次対仏大同盟 (First Coalition 1793-1797) ・オーストリア ・南ネーデルラント(オーストリア領ネーデルラント) ・グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス) ・ナポリ王国 ・プロイセン王国 ・サルデーニャ王国 ・スペイン王国 1796/3月、イタリア方面軍司令官ナポレオンのイタリア遠征で同盟軍を撃破 1797/4/7〜”レオーベンの和約”でオーストリアと一時停戦 1797/10/17〜”カンポ・フォルミオの和約”で完全に休戦、大同盟は崩壊、イギリスだけが交戦 ・第二次対仏大同盟 (Second Coalition 1798/12/24-1801) ・グレートブリテン連合王国(イギリス) ・オーストリア ・ロシア帝国 ・オスマン帝国 1801/2/9〜”リュネヴィルの和約”締結、大同盟は崩壊し、 イギリスだけが交戦後、1802/3/27〜フランスと”アミアンの和約”締結・講和 ・第三次対仏大同盟 (Third Coalition 1805/4/11-1806) ナポレオンのフランス帝国への最初の同盟 ・グレートブリテン連合王国 ・オーストリア帝国(神聖ローマ帝国) ・ロシア帝国 ・ナポリ王国 ・スウェーデン王国 1805/10/21〜トラファルガーの海戦、イギリスの勝利 1805/12/26、オーストリアは”プレスブルクの和約”を締結してフランスと講和、同盟から脱落 1806年、ナポレオンのナポリ王国征服、第三次対仏大同盟は崩壊 1806年、ナポレオンの親フランス”ライン同盟”結成、神聖ローマ帝国(800-1806)を解体 ・第四次対仏大同盟 (1806/10/6/1807/7/7) ・プロイセン王国 ・ロシア帝国 ・グレートブリテン連合王国 ・ザクセン王国 ・スウェーデン王国 ドイツ・ポーランド戦役(1806- 1807)〜ナポレオンが勝利 イエナ・アウエルシュタットの戦い(1806/10/14)ドイツのプロイセン王国軍が敗戦 アイラウの戦い(1807/2/7-2/8)プロイセン・ロシア連合軍が敗戦 フリートラントの戦い(1807/6/14)ロシア軍が敗戦 ”ティルジットの和約”、7/7〜フランスとロシア、7/9〜フランスとプロイセン、条約を締結 1808年、ロシア・スウェーデン戦争が勃発(1808-1809、別名:フィンランド戦争)ロシア勝利 ・第五次対仏大同盟 (Fifth Coalition 1809/4/9-1809/10/14) ・グレートブリテン連合王国 ・オーストリア帝国 オーストリア戦役(1809)〜ナポレオンが勝利 エックミュールの戦い、4/22〜オーストリア軍の敗戦 アスペルン・エスリンクの戦い(5/21-5/22)オーストリア軍の勝利 ヴァグラムの戦い(7/5-6)オーストリア軍の敗戦 ”シェーンブルンの和約”(1809/10/14)〜ナポレオンの絶頂期 ・第六次対仏大同盟 (Sixth Coalition 1812-1814)〜5/4 エルバ島へ追放 ・グレートブリテン連合王国 ・プロイセン王国 ロシア帝国 ・オーストリア帝国 ・スウェーデン王国 ・ライン同盟諸邦 ドイツ・フランス戦役(1813-1814)ナポレオンの撤退・敗戦 ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い 10/16-19)ナポレオン最大戦闘に敗戦・撤退 ビトリアの戦い(1813/6/21)イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍の勝利 1814/3/31連合軍が首都パリへ入城 4/11、ナポレオン退位、降伏条件としてフォンテーヌブロー条約が締結 ナポレオンはエルバ島への追放、年金200万フランをフランスが送金 ・第七次対仏大同盟 (Seventh Coalition 1815/3/25-6/22)〜セントヘレナ島へ流罪(百日天下) ・グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス) ・プロイセン王国 ロシア帝国 ・オーストリア帝国 ・スウェーデン王国 ・オランダ王国 ”ワーテルローの戦い”(Battle of Waterloo、1815/6/18)〜ナポレオン仏軍の敗戦。 ・イベリア半島戦争(1808-1814)については、フランシスコ・ド・ゴヤが数多くの作品を残しています。 参考HP:〜 ・アトス山半島の場所地図 こちらで ・サフレン提督 ・ブルドネス提督 ・ビクター・ヒューズ船長 ・グラヴィナ提督
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/3/15、11/6/6、令和 R.4/8/19(2022) |