Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)財宝輸送と対外戦争(VII-9
カイェタノ・ヴァルデス提督
1823
カディス最高軍司令官

大航海物語
 スペイン編
1781年 スパルテル岬 アルジェ砲撃 マラスピナ ゴレタス海峡レーザー河
ペラヨ号 カディス サンタマリア岬 エスピノーサ リエゴ少佐 ギレミノ少将

ESPANA
ヴァルデス

スペイン 1975/3/1 発行

ヌトカの地図     マラスピナ科学遠征隊の大航海
ヌトカのスペイン入植地
アラスカ南部のシトカ
スペイン 1976 発行

北アメリカ西海岸

スペイン 1967 発行



バンクーバー島

BRITISH INDIAN OCEAN TERITORY
トラファルガーの海戦
イギリス艦隊”ヴィクトリー号” vs スペイン艦隊”サン・ファン・ネポムセロ号

1805 トラファルガーの海戦200年記念 2005
イギリス領インド洋地域 2005 発行

ヴァルデス提督はイギリスとの”ジブラルタル奪回戦”や、ネルソン艦隊との”トラファルガーの戦い”など数多くの戦争に従軍して手柄を立て、カディスの軍司令官になりましたが、スペイン国王フェルナンド7世の圧政に苦しめられるも、なんとか生き抜き、海軍提督となりました。

カイェタノ・ヴァルデス・イ・フロレス提督
  Admiral Cayetano Valdes y Flores (1767/9/28〜1835/2/6)
 生誕地:スペイン王国アンダルシア州セビリア県(#8)セビリア生
 没 地:スペイン王国アンダルシア州(#1)カディス県(#2)サン・フェルナンド、67才没
 最終階級:海軍大将(Admiral of the Navy)
      カディス最高司令官(Captain General of Cadiz:Commander in Chief of Cadiz)
      海軍総司令官(Captain General of the Navy:Commander in Chief of the Navy)
1767年、ヴァルデス提督は全員が男子の7人兄弟6番目としてセビリアで生まれました。
1781年 14才でカディスの海軍兵学校に士官候補生(グアルディアマリーナ:スGuardiamarina:英Midshipman)として入学しました。学業終了後に少尉に任官し、スペイン海軍総司令官コルドバ提督(Admiral Luis de Cordova, 1706-1796)の艦隊で航海して、1781年の作戦に従軍
1782年 ジブラルタルの大包囲戦(Great Siege of Gibraltar, 1779/6/24-1783/2/7、英勝利)中に英初代ハウ伯爵リチャード・ハウ提督(Richard Howe, 1st Earl Howe、1726-1799)率いるイギリス艦隊とのスパルテル岬の戦いに従軍
1783年 バルバリア海賊(Barbary pirates、別名オスマン海賊 Ottoman corsairs)を粉砕するために、アルジリアのアルジェに対するスペインのバルセロ作戦(アルジェ砲撃)に従軍
1789年 ヴァルデス中尉はマラスピナ遠征隊(1789-1794)の太平洋探検航海にメキシカーナ号に乗艦して、アトレビーダ号とデェスキュビエータ号の両艦と共にカディスを出帆。太平洋を横断する科学探検航海を行い、南北アメリカの海岸を探索して地図を作成しました。その航海で、スペインからホーン岬をへて、アメリカの西海岸からアラスカのアラスカ湾に向かい、ヌトカ紛争の余波で太平洋岸北西部に対するスペインの主張を強化するのに貢献しました。北西航路の探索では航路を発見できずバンクーバー島西岸ヌトカ・サウンドなどを調査。太平洋を横断してグアムフィリピンを調査。その後、探検と外交偵察を行い、中国も調査し、ニュージーランドオーストラリアトンガなどに寄港
1794年 9/21、カディスに帰着。5年2ヵ月(62ヵ月)の航海を完遂しました
フランス革命が勃発(1789)しフランス革命戦争(1792-1799)からポレオン戦争(1799・1803-1815)が起こると、スペイン独立戦争(Spanish War of Independence,1808-1814, 対仏ナポレオン軍)に従軍。
1797年
2/14 インファンテ・ドン・ペラヨ号に乗艦してサン・ビセンテ岬の海戦(1797/2/14、英勝利)に従軍し、海軍大尉(西Capitan de Navio Caap、英Navy Captain)に昇進
6月  イギリス艦隊がカディス湾に現れてカディスを攻撃
7/3 イギリス艦隊がカディス(#2)を再攻撃。
ヴァルデス大尉は「サン・ビセンテ岬の海戦」の後にカディス新軍司令官になったホセ・デ・マサレド提督(Admiral Jose de Mazarredo Salazar de Munatones y Gortazar、1745-1812)の命で、英ネルソン艦隊に対するカディスの防衛任務に従事しました
1799年 ヴァルデス艦長は封鎖する敵の部隊を追跡するために戦隊と共にムルシア州(#15)カルタヘナに到着。そこでフランス艦隊の提督アレクシス・ブリュイ男爵(Alexis Vital Joseph, Baron of Bruix, 1790ブレスト(#44)生-1825リマ没)と合流し、インファンテ・ドン・ペラヨ号が1796年に引き渡された船であったためフランスへ返還されたので、グラヴィナ提督の旗艦ネプトゥーノ号(Neptuno, 80gn)の艦長になり、艦隊は仏フィニステール県(#44)ブレストへと出帆し、そこへ駐屯しました
1801年 末、ヴァルデス大尉はハイチ革命のさなか、ドミニカのサントドミンゴの反乱を鎮圧するためにブレストを出帆。ハイチの反乱奴隷に対するイスパニョーラ島に駐留するスペイン軍司令官として、フランス・スペイン共同作戦に従軍しました
1802年 キューバのハバナ(#2)に立ち寄ってカディスに戻り、レアル・アルマダ准将(Brigadier General of the Real Armada)に任命されました
1804年
8/9 ウルグアイのモンテビデオを出帆したスペイン艦隊4隻がポルトガルのアルガルヴェ海岸のサンタ・マリア岬沖でイギリス艦隊4隻に攻撃され、サンタ・マリア岬の海戦(1804/10/5英勝利)が勃発。この不当な侵略で再びイギリスとの戦争が始まりました
年末 ヴァルデス提督はネプトゥーノ号でガリシア州(#12)ラ・コルーニャ県北部フェロル(Ferrol)にて、スペイン風の小艦隊で「海のゲリラ」と呼ばれるフェルザス・スーティル船隊(Fuerzas sutiles)と共に、封鎖中のイギリス艦隊と戦って沿岸貿易(Coastal Trade)を支援
1805/8月、ヴァルデス提督はフェロルを出帆。グラヴィナ提督とヴィルヌーヴ提督の連合艦隊に合流。
10/21、トラファルガー岬沖を航海していた仏スペイン連合艦隊が、英ネルソン艦隊の襲撃を受けトラファルガーの海戦が勃発して、前衛の仏艦隊と中央艦隊と後衛艦隊が分断されました。仏西連合艦隊の先頭を進んでいたネプトゥーノ号は、向きを変えてサンティシマ・トリニダード号の救出に向かいうも、フランス艦隊は変進せず孤立しました。そこへイギリス戦列艦4隻、ネプチューン号(Neptune, 98gn)ミノタウロス号(Minotaur, 74gn)スパルタ号Spartiate, 74gn)アフリカ号Africa, 64gn)が、船首から砲火を全面に集中させ、ネプトゥーノ号は反撃するも大破して、ヴァルデス提督は重傷を負い意識を失いました。戦いに続く嵐で、ボロボロになったネプトゥーノ号は岸へ流され、カディスの星型要塞サンタカタリナ城の近くで沈没。 サンティシマ・
トリニダード号


スペイン 1964 発行
重傷のヴァルデス提督と生き残った乗組員はイギリスの捕虜になりました。
1808年 スペインで半島戦争(1808/5/2-1814/4/17、Peninsular War or スペイン独立戦争:Spanish War of Independence)が勃発する前に、ヴァルデス提督はイギリスで釈放されて帰国しました。カルタヘナ(#15)で旗艦の戦列艦レイナ・マリア・ルイサ号(Reina (Queen) Maria Luisa, 112gn)に将旗を掲げ、カルタヘナの艦隊司令官になりました
2/10 仏ヴァール県(#93)トゥーロンに行く命令を受領して出帆
5/02 悪天候でバレアレス諸島に到着。丁度その日に首都(#14)マドリードで「国民蜂起」が起こっていました。その後、フランスがバレアレス諸島に侵攻してくるも、ヴァルデス提督はレイナ・マリア・ルイサ号がフランスの手に落ちるのを防ぎました
5/05 バイヨンヌの退位(1808/5/5)で、国王フェルナンド7世(Fernando VII, 1784-在位1808/3/19-1808/5/6-1813/12/11-1833/9/29)が退位しました。ナポレオンが弟ジョゼフ・ボナパルト(Joseph Bonaparte、1768-在位1808/6/6-1813/12/11-1844)をスペイン王にするも、全国で暴動が起こって半島戦争が始まりました
11/10 ヴァルデス提督はホアキン・ブレイク中将のガリシア軍に入隊し、アストゥリアス師団の旅団長(Brigade Commander of the Asturias Division)として、ブルゴス地方でのエスピノーサの戦い(1808/11/10-11)に従軍して敗戦。そこで再び重傷を負いました
1809年 海軍中将(Vice Admiral)に昇進
1812年 カディスの知事兼軍司令官に任命されていたヴァルデス提督は、仏ナポレオン軍によるカディス占領を阻止してカディスが包囲(Siege of Cadiz, 1810/2/5-1812/8/24)されるも、勝利して仏軍は撤退しました
1813年 12/11、フェルナンド7世がスペイン王に復帰すると、激しい弾圧にあいました
1814年 3月、ヴァレンシアの海に接するベナカンティル山(Mt. Benacantil, 166 m)に建つバレンシア州(#17)アリカンテ県中心部の要塞サンタバーバラ城(Santa Barbara Castle)に幽閉
1820年 3/7、マドリードでのリエゴの反乱(Riego Rebellion)の暴動で国王フェルナンド7世は捕らえられ、ヴァルデス提督は再びカディスの知事に任命されました
1823年 カディス最高司令官に任命されました
8/31、カディスのトロカデロ砦の戦い(Battle of Trocadero)で砦が陥落、フランスが勝利
9/23、カディス包囲戦(Siege of Cadiz, 1823)でカディスがフランスに降伏し、フェルディナンド国王は釈放されました。事前に恩赦を約束していたにもかかわらず、国王は反乱軍に対する報復を命令。その後の数年間で、推定3万人が処刑され2万人が投獄さたという説もありますが、ヴァルデス提督も死ぬほどの拷問を受け責めたてられて死刑判決を受けました。
でも、カディスのフランス軍司令官アルマン・ギレミノ少将の計らいで、ヴァルデス提督はようやくのことで逮捕の名目にてフランス国旗の下でイギリス領ジブラルタルへと送られて処刑から逃れることができました。ヴァルデス提督は最終的にイギリスへ亡命し、そこで10年間暮らしました
1833年 国王フェルナンド7世が亡くなると、摂政マリア・クリスティーナ(Maria Cristina de Borbon, Princesa de las Dos Sicilias, 1806-摂政1833-1840-1878)の恩赦で、スペインへ戻り、カディスの最高軍司令官になって、後に海軍大将となりました
1834年 2/6、スペイン(#1)のカディス県(#2)サン・フェルナンド(San Fernando, Cadiz)にて67才で亡くなりました。

参考:〜
・1781年の作戦
 (Campaign of 1781)
1781年、コルドバ艦隊はイギリス海峡で激しい嵐に見舞われるも、イギリス船団24隻を捕獲してフランスのフィニステール県(#44)ブレストに入港しました。

・スパルテル岬の海戦
 (Battle of Cape Spartel, 1782/10/20、引分)
1779年にスペインがアメリカ独立戦争に参戦したとき、その主要な目標の一つは、イギリスからジブラルタルを奪取することでした。戦争が宣言された直後、スペインとフランスの軍隊はジブラルタルの大包囲を開始し、半島への陸路のアクセスを封鎖し、やや穴だらけの海上封鎖を実施。イギリスは1780年と1781年にジブラルタルへの補給に成功し、1782年には再び補給の必要性を認識して、ハウ提督がアメリカ独立戦争中にブルボン軍(ブルボン朝)に包囲されていたジブラルタルへの補給に成功した後に、コルドバ提督の仏西連合艦隊旗艦サンテズマ・トリニダード号戦列艦34隻と英ハウ提督のイギリス艦隊フリゲート艦34隻とが、アフリカ大陸の最北西端でジブラルタル海峡の入り口にある海抜約300mのモロッコの岬で、岬の下にはヘラクレスの洞窟があるスパルテル岬の沖合洋上で会合して海戦となるも、英艦隊は後退し、速度の遅いスペイン艦隊の追跡を振り切ってイギリスへ戻りました。

・アルジェ砲撃
 (アルジェ砲撃:Bombardment of Algiers, 1783)
提督ドン・アントニオ・バルセロ少将 (Antonio Barcelo y Pont de la Terra、1717-1797)率いる70隻のスペイン艦隊は、8/4-8日にかけて8回にわたってアルジェリアを砲撃するも、アルジェリア軍に与えた損害は軽微でした。その後、バルセロ提督は悪天候で撤退命令を出しました。この遠征はスペインの宮廷では失敗と判断され、「花火の祭典は、ムーア人を楽しませることがいかに少なく、それに対して、余りにも高価で長すぎた」と説明されました。(参考:バーバリー海賊:Barbary pirates)

マラスピナ科学遠征隊>(Malaspina Expedition, 1789-1794)太平洋探検航海
・世界最初のバンクーバー島一周航海(1792遠征)
 (メキシカーナ号とスーティル号との航海, 1792)
 艦隊編成:〜
 ・スクーナー艦(Schooner, スGoleta:ゴレタ)メキシカーナ号(Mexicana, 33t, 20人)
   艦長:カイェタノ・バルデス中尉
 ・スクーナー艦(Schooner, スGoleta:ゴレタ)スーティル号(Sutil, 33t, 20人)
   艦長:隊長ガリアーノ中尉(Dionisio Alcala Galiano, 1760-1805/10/21,トラファルガー海戦没)
1791年、マラスピーナ隊長は喫水が浅いスクーナー艦メキシカーナ号とスーティル号をメキシコ太平洋岸ナヤリット州(#17)サンブラス(San Blas, Nayarit)で建造するよう命じました。1791年後半にメキシコ太平洋岸ゲレーロ州(#11)アカプルコ(Acapulco)で、バルデス中尉をメキシカーナ号の艦長に任命。スーティル号の艦長には遠征隊長ディオニシオ・ガリアーノ中尉を任命しました。
1792/3/8、遠征隊はアカプルコ(Acapulco)を出帆
5/13、ヌトカ・サウンドのスペイン駐屯地に到着。そこで1789年のヌトカ危機に関するイギリスと
   スペインの間の協定であるヌトカ条約(Nootka Convention, 1790, 改正1793, 1794)の実施に
   ついてバンクーバー艦長と交渉するために来ていたクアドラ艦長に出会いました。遠征隊は
   ファン・デ・フーカの北西航路(アニアン海峡)探索にバンクーバー島を一周航海して、北西
   航路が存在しないことを証明途中でバンクーバー船長と出会い協力しました。遠征隊は約1ヵ
   月間ヌトカ湾に留まり、船を修理して補給
6/5、早朝にヌトカ湾を出帆し、フアン・デ・フーカ海峡に入る
6/6、今日のネア湾(プエルト・デ・ヌニェス・ガオナ)に到着し、スペインの駐屯地の近くに停泊
6/8、現地マカ族酋長テタカス(Makah chief, Tetakus)がフアン・デ・フーカ海峡の水先案内人で同行
6/8、ネア湾を出帆し、海峡の北側を横断し、バンクーバー島の海岸沿いを巡航
6/9、正午頃にエスクワイモルト港に停泊
6/10、早朝エスクワイマルトを出帆し、スミス島(Isla de Bonilla)に向かい、それを見た後、北に向きを
   変えてロペス島に向かいました。ロペス島の南端にあるポイントコルビルの近くに停泊。木星の
   初月を観測するために一団が上陸し、それで経度測定を改善しました
6/11、ロサリオ海峡の一部を通って北東に航海。ゲメス海峡を通ってパディージャ湾に入り、ゲメス島
   の海岸にある村に注目しました。その夜、ベリンガム湾(セノ・デ・ガストン)に停泊
6/13、ポイント・ロバーツ近くで、英バンクーバー艦長の副官ブロートン艦長チャタム号と遭遇
6/14、フレーザー河を発見し、川に入った最初のヨーロッパ人なりました(1792)
6/21、現カナダ(BC)バンクーバー島の近くでバンクーバー艦長と遭遇して探検協力しました
7/14、バンクーバー隊と分かれて島の周りを北に航海し、ゴレタス海峡を通ってバンクーバー島を
   一周して島であることを証明し、バンクーバー島を一周した最初のヨーロッパ人になりました
8/31、ヌトカ・サウンドに到着し、周回を完了しました。

・ゴレタス海峡
 (Goletas Channel)
ゴレタス海峡はカナダのブリティッシュコロンビア州(BC)バンクーバー島の北側にある海峡で、バンクーバー島の最北端であるスーティル岬(Cape Sutil)のすぐ東に有。この海峡の名はスペインのカイェタノ・ヴァルデス艦長とディオニシオ・ガリアーノ艦長とが、1792年にバンクーバー島を巡る航海中に、乗艦のゴレタス艦(メキシカーナ号とスーティル号)に因んで命名しました。ゴレタス海峡はクイーンシャーロット海峡北部に有ります。

・フレーザー河
 (Fraser River, 1,400km)
フレーザー河は、カナダのブリティッシュコロンビア州(BC)を流れる川で、全長1,400km。

インファンテ・ドン・ペラヨ号の戦い
 (Battle of Infante Don Pelayo, 1797/2/14)
スペインの提督ホセ・デ・コルドバ中将(Lieutenant general Jose de Cordoba y Ramos、1732-1815)艦隊と英ジャービス提督(Admiral of the Fleet Sir John Jervis, 1st Earl of St Vincent, 1735-1823)艦隊との間で戦われたサン・ビセンテ岬の海戦(Battle of Cape St Vincent、西: Batalla del Cabo de San Vicente、1797/2/14、英勝利)で、インファンテ・ドン・ペラヨ号(Infante Don Pelayo, 74gn)を指揮したヴァルデス艦長は、イギリス艦3隻に攻撃された旗艦サンティシマ・トリニダード号がマストを剥がされ、乗組員の3分の2を失った後に降伏させられるも、そこへ介入して旗艦が敵の手に落ちるのを救いました。この行動により、海軍大尉(capitan de navio)に昇進しました。
この海戦で深刻な敗北を喫したコルドバ提督はスペイン海軍から追放され、スペイン宮廷への出廷を禁じられました。

・カディスへの攻撃
 (Assault on Cadiz, 1797/6月、7/3)
カディスへの攻撃は、イギリス海軍によるスペインのカディス港の長期にわたる海上封鎖の一部であり、1797/6月から7月にかけてのカディスの包囲と砲撃、および港自体への水陸両用攻撃が含まれていました。サン・ビセンテ岬の海戦(1797/2/14)の後、6月初旬、ジャーヴィス卿とホレイショ・ネルソン卿が率いるイギリス艦隊がカディス湾に現れて、カディス市は砲撃を受け、砲台、海軍、市街地にわずかな損害を与えました。イギリス艦隊の目的は、スペインのホセ・マサレド提督艦隊を港から退出させることでした。スペインの対応は、港の入り口をイギリスから守るために砲艦と小型船を建造することでした。7月初旬までに、イギリスのネルソン少将艦隊の一連の攻撃が失敗し、イギリス艦船がスペインの砦や砲台から大砲を浴びた後、イギリス艦隊は撤退し、包囲は解除されました。しかし、海上封鎖は1802年まで続きました。

・サンタ・マリア岬の海戦
 (Battle of Cape Santa Maria, 1804/10/5、英勝利)
サンタ・マリア岬の海戦は、1804/8/9に金銀やそれと同じくらい貴重な貨物を満載してモンテビデオを出帆したブスタマンテ艦隊4隻が、1804/10/5にポルトガル最南端アルガルヴェ(#3)海岸のサンタ・マリア岬沖で、事前の宣戦布告なしにイギリス艦隊に攻撃されました。イギリス艦隊はスペイン艦1隻を撃沈、3隻を降伏させ捕獲して、ジブラルタルから英ハンプシャー州(#21)ゴスポート港(Gosport)へ輸送しました。
・スペイン艦隊(フリゲート艦:Frigate)4隻
 司令官〜ホセ・デ・ブスタマンテ提督(Admiral Jose de Bustamante y Guerra, 1759-1825)
 ・メデア号(Medea 40gn frigate)旗艦、フェロル建造(1797)降伏
   英捕獲後〜HMSインペリアーズ号(HMS Imperials 1805-1838)
 ・ファーマ号(Fama 34gn)降伏
 ・メルセデス号(Nuestra Senora de las Mercedes, 36gn)撃沈
 ・サンタ・クララ号(Santa Clara 34gn)降伏
・イギリス艦隊(フリゲート艦:Frigate)4隻
 司令官〜グラハム・ムーア提督(Admiral Sir Graham Moore, GCB, 1764-1843)
 ・インデファティガブル号(HMS Indefatigable 44gn)旗艦
 ・ライブリー号(HMS Lively 38gn)捕獲〜ファーマ号
 ・アンフィオン号(HMS Amphion 32gn)
 ・メデューサ号(HMS Medusa 32gn)。
その後、スペインは1804/12/14にイギリスに対して宣戦布告し、トラファルガーの海戦(1805/10/21)で敗北を喫しました。

・エスピノーサの戦い
 (Battle of Espinosa de los Monteros, 1808/11/10-11, 仏勝利)
エスピノーサ・デ・ロス・モンテロスの戦いは、ナポレオン戦争中に、カンタブリア山脈のカスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県エスピノーサ・デ・ロス・モンテロス村で勃発しました。その結果、元帥クロード・ヴィクトール公爵(Marshal Claude-Victor Perrin, Duke of Belluno, 1764-1841)率いるフランス軍は、ホアキン・ブレイク中将(Lieutenant general Joaquin Blake y Joyes、1759-1827)率いるガリシア軍(Army of Galicia:スペイン独立戦争中の1808年6月末に、特にカンタブリア山脈の地域でナポロオンの大軍に立ち向かうために結成されたスペインの軍事部隊)に対して勝利を収めました。

・ラファエル・デル・リエゴ少佐
 (Rafael del Riego y Florez, 1784-1823/11/7マドリード処刑没)
エスピノーサの戦いに従軍していたラファエル・デル・リエゴが捕虜となって、三日後にフランスに護送された後、釈放されました。デル・リエゴはイングランドとドイツ諸邦を旅行し、1814年にスペインに帰国。帰国後は陸軍少佐になりました。

・アルマン・ギレミノ少将
 (Major General Armand Charles Guilleminot, 1774-1840)
アルマン・ギレミノ少将は、1823/4/17にアングレーム公爵ルイ・アントワーヌ(シャルル10世の息子)率いるフランス軍(聖ルイの十万人の息子たち:Hundred Thousand Sons of Saint Louis)は、ピレネー山脈を越えてスペインに侵入したアングレーム公爵の参謀長でカディスのフランス軍司令官。

参考HP:〜
マラスピナ科学遠征隊の航海地図(1789-1794)
コルデロ海峡とジョージア海峡の場所地図(Cordero Channel、Georgia Straight)
クイーンシャーロット海峡の場所地図(Queen Charlotte Strait)
サンタカタリナ城の設計図(Cadiz, 1597)
バレアレス諸島の場所地図

こちらで
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
クリッパートン島(絶海の孤島)
カリブ海の地図(島国シリーズ)
フランスの王と王族(ブルボン朝)
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
フランス
法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/8/8追記、令和7年 2025/9/25

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止