ドン・コズメ・ダミアン・ド・チュラッカ・イ・エロルザ艦長
(Don Cosme Damian de Churruca y Elorza,
1761/9/27〜1805/10/21)
チュラッカ艦長はスペインのバスク州ギプスコア県モトリコ(Motrico city,
Guipuzcoa province, Basque Country, Spain)で同市長フランシスコ・ド・チュルカ(Francisco
de Churruca)の四男として誕生。初期の教育をカスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県ブルゴス(Burgos, Burgos
province, Castile y Leon country)の神学校で受け、司祭になることを考えていました。その後、ギプスコア県ベルガラ(Bergara,
Gipuzkoa province)の学校に入学しました。 |
バスク州
スペイン 2012 発行 |
父の弟で1718年のパッサロ岬の海戦に海軍少将(Rear Admiral)で従軍したアントニオ・ガスタネータ提督(Don Jose Antonio de Gaztaneta e Iturribalzaga, 1656-1728)の冒険談を聞いて学業を終えた後、1776年14才でカディズのエル・フェロル(El Ferrol)海軍兵学校に入隊。1778
年にフェロル兵学校で学位を取得して海軍少尉に任官しました。1781年にはジブラルタルの包囲攻撃戦で英雄的な働きをなし、その功績は高い評価を得ました。1788年から翌年にかけてマゼラン海峡を通過・調査して、1789年にマゼラン海峡の地図を作成しました。1805年にメキシコ総督(ニュースペイン副王:Viceroy New Spain,
1816-1821)フアン・ルイス・ド・アポダカ海軍大将(Juan Jose Ruiz de Apodaca y Eliza, 1st Count of Venadito, 1754-1835)の兄ビセンテ・ド・アポダカ(Vicente
Ruiz de Apodaca y de Eliza, 1750-1806)の娘マリア・ドロレス(Maria Dolores Ruiz de Apodaca, 1786-1830)と結婚するも、そのわずか数ヵ月後にチュラッカ艦長が亡くなった時、夫人は19才でした。
1805年に英艦隊と仏ス連合艦隊とが戦った”トラファルガーの海戦”でチュラッカ艦長が74門の大砲を備えたサン・ファン・ネポムセロ号(San
Juan Nepomuceno 74gn)で指揮を執って闘っていると、イギリス艦隊ヴィクトリー号の砲弾が同艦に命中。チュラッカ艦長は致命的な重症を負い、瀕死の状態で
「もし、我が艦が鹵獲されたと聞いたら、艦長は死んだと言うべし!」
と言い残したと伝わっています。そして、チュラッカ艦長はスペインのカディズ州トラファルガー岬沖にて34才で亡くなりました。
1805/10/21にサン・フアン・ネポムセノ号は英ヴィクトリー号の砲撃で大損害を受けながらも、フランス船のほとんどが降伏し、スペイン船のほとんどが鹵獲または降伏した後も戦い続け、チュラッカ艦長は砲弾で足を吹き飛ばされるも、頑固に砲撃を続けるよう命令し続け、致命傷を負いながらも降伏することを禁止しました。艦長が戦死して、英艦隊の戦列艦ディファイアンス号、トナント号、ドレッドノート号など6隻にて形成された火の輪を突破できず、負傷者全員が甲板下に閉じ込められた状態で船が沈没するのを防ぐために降伏しました。トラファルガー海戦でイギリス海軍に鹵獲された同号は、最初はバーウィック号
(HMS |
スペインの戦列艦
スペイン 1964 発行 |
Berwick)、次にサン・ファン号(HMS San
Juan)
と改名され、1816 年に廃棄処分されました。
参考HP:〜
・トラファルガーの海戦図(ネルソン・タッチ)
をお楽しみください。
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.4/10/22(2022)追記
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