世界遺産(パキスタン)
モヘンジョダロ遺跡
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モヘンジョダロを救おう! "Save Mohenjo-daro !" パキスタン 1976/2/29 発行 |
PAKISTAN | ||
KSA ユネスコの モヘンジョダロ救済キャンペーン 井戸遺跡 サウジアラビア 1977/10/23 発行 |
モヘンジョダロを救おう! 井戸遺跡 パキスタン 1976 発行 |
世界遺産シリーズ 井戸遺跡 パキスタン 1963/9/18 発行 |
井戸遺跡は埋まっていたのが、発掘でこの様な姿が出現! |
ユネスコのモヘンジョダロ救済キャンペーン記念 PAKISTAN |
踊り子像 | モヘンジョダロ遺跡 Save Moenjodaro パキスタン 1976/8/31 発行 |
神官王像 |
モヘンジョダロ遺跡の牡牛像 (Bull) モヘンジョダロ救済キャンペーン記念 Save Moenjodaro パキスタン 1976/5/31 発行 |
踊り子像と公衆浴場遺跡 (Dancing Girl & Public Bath) モヘンジョダロ発掘5年記念 Moenjodaro Excavations 5 Annivarsary パキスタン 1973/2/23 発行 |
大浴場遺跡 (Great Bath) ユネスコ25年記念 UNESCO 25 Annivarsary パキスタン 1971/11/4 発行 |
・モヘンジョダロ遺跡 Mohenjo-daro (死者の丘) 住所:パキスタン南部シンド州に有 (Sindh province, Pakistan) 世界遺産:ユネスコの文化遺産(1980) (UNESCO World Heritage Site, Type:Cultural) 正式名称:日:モヘンジョダロの考古遺跡 英:Archaeological Ruins at Moenjodaro 仏:Ruines archeologiques de Mohenjo Daro モヘンジョダロはパキスタン南部シンド州に有って、「モヘンジョダロ」とは「死者の丘」の意味で、インダス文明(Indus Valley civilization, (狭義BC2600-BC1800)BC3300頃-BC1300頃)最大の遺跡であり、それは古代の計画都市でした。インダス文明はエジプト・メソポタミア・黄河と並ぶ四大文明の一つ。モヘンジョダロは4キロ四方と非常に広大な遺跡で、インダス文明最大の都市でもあり、3万人以上、最大で4万人近くが居住していたと推測されていますが、発掘されているのは、そのわずか15%程度で、遺跡はストゥーパ(Stupa:仏舎利)周辺の「城砦部」と呼ばれる高台にある区域と、住居の並ぶ「市街地」に分かれています。 モヘンジョダロは「王宮や神殿のない文明」とか、「計画都市」とか、「水洗トイレやダストシュートがある衛生的な都市」とか、謎が多いんですが、それは四大文明の中で唯一文字が解読されていないからといわれています。BC2500-BC1800年にかけ繁栄するも、その後は短期間で衰退しました。原因としてさまざまな説があげられるも、近年の研究では大規模な洪水で衰退したと考えられています。モエンジョダロは現地で「死の丘」として、歴史学者が足を踏み入れるまでは非常に古い時代の死者が眠る墳丘だと、地元民は恐れて近よらない禁忌の領域でした。この都市の本来の呼び名、すなわち往時の名称については、インダス文字が解読されていないため、ヒントすらないといわれています。 <モヘンジョダロ遺跡>〜主な地区・構造物 (1)城塞部地区 ・ストゥーパ(紀元後2〜3世紀ころの仏教遺跡) ・僧院跡 ・学校跡 ・井戸跡 ・沐浴場跡 ・巨大な排水溝跡 ・穀物倉跡 ・L地区 (2)市街地区 ・HR地区 ・VS地区 ・DK地区〜神官王像 インド考古学者(Kashinath Narayan Dikshit 1889-1944)チームが1924-25年発掘 (3)発掘品 ・神官王像 ・踊り子像 ・騎馬像 ・大浴場(プール)遺跡 ・井戸遺跡 ・焼煉瓦に残るロープの跡 ・ナン(パン)焼き竈の跡 ・大通り跡〜市街地を貫く9mの大通り ・印章 ・こぶ牛〜印章に多く彫られている ・牛車 ・秤(はかり) ・分銅〜インダス文明では重さを量るための分銅が統一 ・ダストシュート跡 ・銀行 ・など (4)その他 ・塩害 ・博物館 ・など (1)城塞部のストゥーパ発掘 モヘンジョダロ遺跡は東西二つの遺丘からなり、東方に市街地が、西方に城塞が広がっています。遺跡西側の高台にある城砦部は、その高所に後の時代に造られたストゥーパがあります。
・都市の特徴 規模としてはほぼ1.6キロメートル四方と推定されるが、今後の調査によってさらに大きなものに訂正される可能性がある。遺跡は整然とした都市計画を示し、道路は直角に交差し、碁盤の目のように細分されていた。水道、汚水の排水システム、個人用の浴室、公衆浴場などがすでに存在しており、水量の季節的変動を考慮して貯水池を十分に整備するまでに水利工学は進歩していた。また、建築には一定のサイズの煉瓦が使用されていた。以上のことは、この地に確固たる社会構造、強力な階級制度と中央集権制度が存在していたことを意味する。 ・東丘の市街地 市街地は、東西2本、南北3本の幅10メートルの大路によって12区間に分かたれていたらしい。一つ一つの区間が、大通りに通ずる1.5〜3メートルほどの小路でさらに分けられていた。市街地全体を囲むような市壁があったかどうかは不明である。ここでは、一般の家屋から隊商宿といわれる建物、労働者用の粗末な小屋など、さまざまな建物が見つかっている。家屋は大小さまざまだが、中庭を中心にしそれを囲んでいくつかの部屋を持つように作られ、出入口を大路に面した側には持たず、小路に面して戸口を開くスタイルが一般的だった。各戸は下水道を備え、汚水は小路の排水溝へ通じ、さらに大路の排水溝へ集められる仕組みになっていた。 ・西丘の城塞 モエンジョ=ダーロの「城塞」(城塞並みに重厚な建造物であることからそのように呼ばれているが、城塞とは異なり、戦争用の遺物は見られない)は、ハラッパーの場合と同様、堅固な城壁をめぐらし、その内側に煉瓦を10メートルほど積み上げた人口の基壇を設け、東丘を見下ろすように一段高くつくられている。基壇の上には、問学所と呼ばれる建物や、会議場あるいは列柱広間と呼ばれる30メートル四方の建物など、おそらくは市制を司ったであろう公共的な建造物が建ち並んでいる。 ほぼ中央には長辺12メートル、短辺7メートル、深さ2.4メートルの、内面を瀝青で耐水加工した焼成煉瓦造りの大浴場が存在し、これに接するように、長辺45メートル、短辺27.5メートルの範囲内に27ほどの穀物倉の基壇群が存在する。当初は、この構造は煉瓦造りの基壇の上に木造の建物が載っていたと推測された。しかし穀物倉と呼ばれる建物は湿気のある大浴場に近く、木製の建物の痕跡もなく、穀物を運び入れるスペースがなく、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている。 大浴場はある種の祭儀の場であろう、と考えられていたが、近年ではさらに、この大浴場と穀物倉との位置関係が改めて注目されている。この二つが結びつくことで、再生・増殖の象徴として機能していたのではないか、という指摘がなされている。城塞は、政治センターとしての役割ばかりではなく、宗教センターの役割も果たしていたようである。 ・農業 このインダス河流域の都市社会では、農業が重要な役割を果たしていた。人々は小麦を栽培し家畜牛を飼育して生計を立てていた。広い道路や傾斜路が整備されていたので、収穫物を載せた荷車が容易に往来できた。輸送手段とともに食物の保存技術も発達した。 ・遺跡を巡る現代史 文明遺跡としての発見は、1922年、インド考古調査局員であったインド人歴史学者R・D・ボンドパッダーエ(Rakhaldas Das Bandyopadhyay)の発掘調査によってなされた。 1980年、「モエンジョダーロの考古遺跡 (Archaeological Ruins at Moenjodaro)」の名でユネスコ世界遺産の文化遺産に登録された。
・踊り子像 モヘンジョダロ遺跡入口には博物館があり、等身大の「踊り子像」レプリカが展示されています。「踊り子像」は「神官王像」と並んで有名なモヘンジョダロの出土品で、実物はかなり小さく約13cmほど。30もの腕輪を着けています。この踊り子像のオリジナルは実はインドのニューデリー国立博物館が所蔵しています。モヘンジョダロの大発掘が進められたのは1922〜1931年の間で、その後インドが独立し、更に1947年にパキスタンがインドから分離独立するも、パキスタンが独立前に発見されたんでインドに保存されています。 ・排水溝跡 昔はモヘンジョダロの家には水洗トイレがあり、排水溝は汚水を流すものと言われていましたが 最近では水洗トイレとされたのは水を使う儀式の場と考える説が有力のようです。 このため、排水溝が何を流すためだったのかも議論となっています。 ・大通り跡〜市街地を貫く9mの大通り 遺跡の中を結構広い道が貫いています。9m位は有。 ・学校跡 ストゥーパのすぐ下にある「学校」と呼ばれる場所からは、石のペンやインク壺が出たことに由来します。書記みたいな人たちがいたと言われています。 ・井戸と手洗い場(学校のそば) モヘンジョダロの井戸は全て円形なのに、ここの井戸だけは楕円形をしています。また、手洗い場というのは煉瓦で造られた台のようになっているも、ここから水甕が発見されたことや、排水溝が通じていることから、ここで手を洗ったのではないかと考えられている場所です。煉瓦が排水溝の蓋として並べられています。
・穀物倉 沐浴場の排水溝のすぐ近くにあるのが「穀物倉」と呼ばれる施設です。人が通れる位の通路ができていて、四角い土台のようなものが並びます。ここに穀物を保管したと考えられていますが、実はここからは一粒の穀物も発見されていません。本当は全く違うことに利用されていたのかもしれません。謎の多い遺跡です。 ・L地区 モヘンジョダロの遺跡は発掘者の名前を取って地区に名前が付いています。 L地区からは武器が出ていて軍人地区とも言われています。大きな建物遺跡があって、集会堂とも呼ばれています。 ・HR地区〜市街地に有 HR地区は庶民や農民の住居地区だったと考えられています。標準家庭の間取りは台所と浴室の他に2部屋。井戸がある家も有。 ・焼煉瓦に残るロープの跡 城砦部のような特徴ある建物はないものの、4,000年前の人々の暮らしが偲ばれます。井戸には人々が水を汲み上げるために使ったロープの跡が残り、料理に使った竈も残っています。また、メソポタミアでは神殿など特別な建物にしか焼煉瓦は使われていませんが、モヘンジョダロの遺跡は庶民の家屋も焼煉瓦で造られていて、しかも、その大きさが4:2:1と規格化されています。それだけでなく、井戸のために使った焼煉瓦も台形に規格化されたものです。 ・大通り遺跡 HR地区には、市街地を貫く9mの大通りが有、モヘンジョダロを貫く大通りの広い道路です。モヘンジョダロでは牛車の玩具が出土していますが、道に轍の跡は残っていません。大通りを挟んで多くの家が並びんでいます。市場の跡のような広い空間も有。この大通りは、かつては港に通じていたと考えられています。現在のインダス川は遺跡から3qも離れてしまっていますが、かつては遺跡のすぐそばを流れ、モヘンジョダロはインダス川を使っての水上交易で賑わっていました。 HR地区は、モヘンジョダロの中でもインダス川に近い場所だったので、港近くの倉庫だったと考えらる遺跡もあります。また、ここからは「踊り子」像だけでなく、秤や鍋、鍋、ランプ、土器など多くの物が見つかっています。インダス文明では重さを量るための分銅が統一されていました(度量衡)。大切な交易品を正確に量り、損のない商いをするために、4,000年以上前から、その必要性が認識されていました。市街地には人々の生活を偲ばせるものがたくさん残っています。 ・ダストシュート 2階から通じています。 ・僧院跡 ・ナンの竈の跡 ・VS地区 VS地区は職人の居住区だったと考えられています。 床に丸い石組みがあ所はかっての工場で、土器に絵付けをしていました。少し離れたところには土器を作っていた場所もあります。土器を作る場所、絵付けをする場所と分かれているということは、既に分業制になっていたことが推測されます。専門技術を持つ職人達は農民に比べて豊かだったようで、このVS地区の建物はHR地区の建物に比べて一軒一軒が大きくなっているし、井戸も立派な物で、4,000年以上前に既に階級や貧富の差が生じていて、この都市には多くの職業の人たちが暮らしていたと推測されています。 ・DK地区 ここの建物は大通りから入った路地に各戸の入口が有。 立派な壁なるも、下の方は塩害でぼろぼろです。
・銀行 コインがたくさん見つかった「銀行」と呼ばれる場所も有。インダス文明では王宮は発見されていませんが、階級が成立していて貴族・上流階級が存在したといわれています ・神官王像 DK地区からは「神官王像」が発見されています。「神官王像」は青銅製の鍋みたいなお盆みたいな形の器の下から発掘されました。その上の2階の小さな部屋からは宝石や腕輪・ネックレスなども発見されたので、上流階級の倉庫だったのではないかと考えられていますす。 ・塩害 モヘンジョダロ遺跡は塩害が深刻な問題になっています。歩くとふかふかした感じで、遺跡が属する地域一帯では地下水位の上昇による塩害が進行し続けているが、モヘンジョダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化してゆく塩分砕屑現象が止まらず、土に還ってしまった遺構も少なくはなく、保存の問題が何十年も叫ばれ続けています。遺跡周辺の耕地を潤すための灌漑水路やダム建設により地下水位が上昇し、この地方の灼熱の気候と乾季の乾燥によって地中の塩分が地表に現われ、煉瓦を壊しています。パキスタン政府やユネスコなどが遺跡保存に動いていますが、遺跡は塩害で崩壊しつつあり、地下水位の上昇が遺跡の発掘も妨げて、文明の解明の妨げにもなっています。モヘンジョダロでは塩害が深刻な問題となっています。 参考HP:〜 ・世界遺産モヘンジョダロの場所地図(日本語) ・主なインダス文明の遺跡の場所地図 参考:〜 主なインダス文明の遺跡:〜 ・ハラッパ遺跡 (Harappa) ハラッパ遺跡はインダス文明の都市遺跡で、パキスタン北東のパンジャブ地方ラホールの南西約200kmのラーヴィー川(Ravi River, 720km)左岸にあって、モヘンジョダロと並び称される標式遺跡として知られています。モヘンジョダロのストゥーパの発掘以前の19世紀にインダス文明を代表するもう一つの遺跡のハラッパ遺跡は既に発見されていました。しかし、当時はその意味が理解されず、遺跡の煉瓦はカラチ〜ラホール間の鉄道建設に利用され、遺跡の大部分が破壊されてしまいます。煉瓦の出来が良すぎて、古いものだと思われなかったというのだから皮肉な話です。しかし、モヘンジョダロのストゥーパの下からハラッパと共通する印章等が発見され、ずっと古い遺跡であるということが分かったのです。 ・ロータル (Lothal) ロータルは、グジャラート州のアフマダーバード南方80km、サウラシュートラ地域(カーティヤーワール半島)の南側の付け根に位置するインダス文明の都市遺跡。 1954〜63年にR・S・ラーオ(Shikaripura Ranganatha Rao)によって発掘調査が行われた。 インダス文明最盛期から後期に至る遺跡で、C14法で紀元前2600年〜1800年頃に機能していたと考えられている。面積は、7.1haほどである。都市全体がほぼ正方形の厚い周壁に囲まれ、基壇上に築かれた「穀物蔵」や「沐浴」施設が設けられた「城塞」と呼ばれている施設が南東部分を占める。「城塞」よりも低い「市街地」には計画的に配された街路に沿って家屋が連なり、ビーズの工房跡や火を用いた「祭祀」跡が確認された。 「市街地」の西方には墓地があり、男女を合葬した例が見られるのが注目される。 ・メヘルガル (Mehrgarh) メヘルガルは、考古学的にも重要な新石器時代の遺跡(BC7000-BC2500)で、現在のパキスタン、バローチスターン州(Balochistan, Pakistan)に有。南アジアで最初期の農耕(小麦と大麦)と牧畜(牛、羊、山羊)の痕跡がある遺跡である。スライマーン山脈(Sulaiman Mountains)のボーラーン峠(Bolan Pass)付近、インダス川の渓谷の西、パキスタンの現代の都市クエッタの南東に有。1974年、フランス人考古学者の率いる発掘チームが発見。発掘調査は1974年から1986年まで続けられた。2.00ku の領域の北東の角にメヘルガルで最も古い居住地跡があり、紀元前(BC7000-BC5500)頃の小さな農村と見られています。 こちらで ・パキスタン ・熊本城 世界遺産の ・サンマリノ ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2018/9/18 |