France 国連 1980 発行 |
切手で綴る 海戦大航海 (Naval Voyage)
ピエール・ヴィルヌーヴ提督 1805 トラファルガーの海戦 |
大航海物語 フランス編★ |
ヴィルヌーブ提督 フォーミタブル号 1805 トラファルガーの海戦200年記念 2005 ナウル 2005 発行 |
フランスのヴィルヌーヴ提督はナポレオン戦争中のフランス地中海艦隊司令官で、1805年のトラファルガーの海戦に従軍して、イギリスと戦い、敗軍の将となりました。 |
ピエール・ヴィルヌーヴ提督 (Pierre Villeneuve, 1763/12/31-1806/4/22) ヴィルヌーヴ伯爵ピエール=シャルル=ジャン=バティスト=シルヴェストル海軍中将 (Vice Admiral Pierre-Charles-Jean-Baptiste-Silvestre, Comte de Villeneuve) <主な従軍戦歴> ・アメリカ独立戦争の海戦(Naval battles of American Revolutionary War, 1775-1783) ・セントルシアの海戦(Battle of St. Lucia, 1778)英勝利 ・英仏戦争(Anglo-French War, 1778-1783) ・マルチニーク島フォートロイアルの海戦(Battle of Fort Royal, 1781/4/29-4/30)仏勝利 ・フランス革命戦争(French Revolutionary Wars, 1792-1802) ・ナイルの海戦(Battle of the Nile, 1798)英勝利 ・マルタ包囲戦(Siege of Malta, 1798-1800)英勝利 ・ナポレオン戦争(第三次対仏大同盟, War of Third Coalition, 1805(1803説有)-1806)仏勝利 ・マルチニーク島ダイヤモンドロックの戦い(Battle of Diamond Rock, 1805/6/2)仏勝利 ・フィニステレ岬の海戦(Battle of Cape Finisterre (1805/7/22)英勝利 ・トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar, 1805/10/21)英勝利 ・生い立ちの記 伯爵ヴィルヌーヴ提督は、現フランス南東部のプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方アルプ=ド=オート=プロヴァンス県ヴァロンソル(Valensole, Alpes-de-Haute-Provence department, Provence-Alpes-Cote d'Azur region)に生まれ、1778年に16才で海軍に入隊。アメリカ独立戦争のセントルシアの海戦(1778/12/15)へグラス提督の艦隊のマルセイユ号に海軍少尉として従軍しました。17才で英仏戦争(Anglo-French War, 1778-1783)のマルチニーク島フォートロイアルの海戦(Battle of Fort Royal, 1781/4/29-4/30)に従軍。1789年にフランス革命が勃発すると、貴族出身でありながらこれに共感してフランスに留まり、多くの貴族出身将校が追放された海軍で勤務を続けました。フランス革命戦争に従軍して、1793年に大尉(Captain)、1796年に海軍少将(Rear Admiral)に昇進。1798年にはナポレオンのエジプト遠征に参加しました。ナイルの海戦(1798/8/3)ではブリュイ提督艦隊の後方支援艦隊の指揮を采ってギヨーム・テル号(Guillaume Tell, 80)に座上。ネルソン提督のイギリス艦隊による攻撃で多くのフランス艦艇が撃沈・鹵獲されるも、提督座乗の戦列艦ギヨーム・テル号とル・ジェネルー号(Le Genereux, 74)は脱出して被害を免れました。ブリュイ提督座上ロリアン号の爆沈を目撃したとも伝えられています。後日、総司令官ブリュイ提督が英艦隊を迎え撃って奮戦するも壮烈な爆沈死を遂げたのに比べて、後方艦隊にいてほとんど戦わずして脱出したとして非難されるも、ナポレオンが「提督は単に幸運だったのだ」と擁護したため、その軍歴に影響はほとんどありませんでした。 ・トラファルガーの海戦 1804年にナポレオンによってツーロン駐留地中海艦隊の司令官長官に就任し、ナポレオンから「イギリス海軍の戦力を分散させるために西インド諸島へ向かい、ブルターニュ地方フィニステール県ブレスト(Brest, Finistere Department, Brittany Region)から出撃したフランス艦隊とスペイン艦隊を合流させた後で引き返して英仏海峡に突入し、仏イルドフランス地方オードセーヌ県ブローニュ(Boulogne, Boulogne-Billancourt, Hauts-de-Seine Department, Ile-de-France Region)に駐屯しているイギリス侵攻フランス軍をブリテン島に上陸させよ」との指令を受領。1805/3/29に提督は戦列艦11隻を率いてツーロンを出帆。5/12に西インド諸島マルティニーク島に到着して、ダイヤモンドロックの戦いに勝利し、1ヵ月にわたって待ち続けるも、ブレストから出撃したフランス艦隊の伯爵ガンテューム提督(Vice Admiral Count Honore Joseph Antoine Ganteaume, 1755-1818/7/18)は到着しませんでした。1805/6/11に提督は艦隊を合流させられないままヨーロッパに向かいました。1805/7/22に提督の艦隊はスペイン北西部のフィニステレ岬に到達し、イギリス艦隊カルダー提督(Vice Admiral Sir Robert Calder, 1st Baronet、1745-1818/9/1)と交戦してスペイン艦2隻を鹵獲されました(フィニステレ岬の海戦, 1805/7/22)。数の上ではフランス艦隊が優勢なるも、提督は攻撃に転じようとはせず、1805/8/1にスペインのガリシア州ア・コルーニャ県ア・コルーニャ港(A Coruna port, A Coruna province, Galicia region, Spain)に到着。「計画のとおり仏ブレストとブローニュに向かえ!」というナポレオンの指令を、そこで受領するも、おそらくは優勢なイギリス艦隊がビスケー湾(Biscay bay)にいるという誤報を信じて、スペイン艦隊の司令官たちの反対を押し切ってカディスに戻ったので、ナポレオンが計画していたイギリス侵攻作戦は完全に頓挫しました。 1805/9月にオーストリアとの戦いを支援するためにフランス・スペイン連合艦隊はナポリを攻撃せよという指令がナポレオンから下されるも、ヴィルヌーヴ提督はなかなか行動しようとせず、ナポレオンの命令を無視し続けていました。10月中旬にナポレオンが「ヴィルヌーヴは意志薄弱で艦隊を率いることができない。決断力もなければ精神的勇気も乏しい」と海軍大臣宛の書面で述べて、提督をメスロ提督(Vice admiral Francois Etienne de Rosily-Mesros, 1748-1832/11/12)と交代させ、パリに召還しようとしていることを、海軍大臣から知らされたヴィルヌーヴ提督は新しい司令長官が赴任する前に出撃命令を出しました。1805/10/18にナポレオンのオーストリア攻撃への支援作戦でナポリ攻撃のためフランス・スペイン連合艦隊がカディスを出帆すると、その沖合で待ちかまえていたネルソン提督のイギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊と、1805/10/21に交戦に入ったトラファルガーの海戦で、ネルソン提督は戦死するも、戦いはイギリス艦隊の勝利に終わって、仏ス連合艦隊のヴィルヌーヴ提督座乗旗艦ビューサントル号(Bucentaure, 80gn)が鹵獲され、ヴィルヌーヴ提督は捕虜になって敗軍の将となりました。 ・最期 ヴィルヌーヴ提督はイギリスに送られるも、仮釈放の身となり、200人の部下と英仏海峡に面するイングランドのハンプシャー(Hampshire, South East Region, England)に滞在し、ネルソン提督の葬儀にも参列。翌年フランスに帰国し、軍務に復帰したいと希望するも、願いが叶えられませんでした。1806/4/22にヴィルヌーヴ提督はブルターニュ地方イル=エ=ヴィレーヌ県レンヌ(Rennes, Ille-et-Vilaine Department. Brittany Region)の宿屋で遺体となって発見されました。自殺であるとする説が有力なるも、左肺に六つ、心臓に一つ刺傷があるという死に方であったため、ナポレオンの命令で暗殺されたのだという噂が流布することになりました。後日に仏パリのシャンゼリゼ通り西端エトワール凱旋門にヴィルヌーヴ提督の名前が刻まれました。 参考HP:〜 ・トラファルガーの海戦図(ネルソン・タッチ) ・ビスケー湾の場所地図(ビスケー湾と英仏海峡などの場所地図) ・ビスケー湾の場所地図(詳細地図) こちらで ・グラヴィナ提督 ・サフレン提督 ・ブルドネス提督 ・ビクター・ヒューズ船長 ・コリングウッド提督
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.4/9/20(2022) |