大航海物語 | United Kingdom 国連 1983 発行 |
切手で綴る 海戦大航海(Naval Battle Voyages)
サン・ビセンテ岬の海戦 1797/2/14 Battle of Cape St.Vincent イギリス ★ スペイン |
Spain 国連 1980 発行 |
海戦物語 |
GIBLARTAR イギリスの戦列艦 キャプテン号 ジブラルタル 2007 発行 |
MARSHALL SLANDS
スペインの戦列艦 サンテズマ・トリニダード号 マーシャル諸島 1998 発行 |
サン・ビセンテ岬(ポルトガル)場所地図 | ||
PORTUGAL ポルトガル最南端 |
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サン・ビセンテ岬→ S.Vicente . |
←サグレス岬 Sagres |
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アルカルヴェ州 1460 エンリケ航海王子没後500年記念 1960 ポルトガル 1960 発行 |
・サン・ビセンテ岬の海戦 (英:Battle of Cape St Vincent、1797/2/14)英勝利 (西:Batalla del Cabo de San Vicente、葡: Batalha do Cabo de Sao Vicente) 於:第一次対仏大同盟戦争(1793/4-1797/10)の英西戦争(Anglo-Spanish War (1796-1808) サン・ビセンテ岬の海戦は、1797年にイギリスのジョン・ジャーヴィス提督(Admiral of the Fleet Sir John Jervis, 1st Earl of St Vincent GCB, PC, 1735-823/3/13)艦隊が、ポルトガルのサン・ビセンテ岬沖で、優勢なスペインのホセ・デ・コルドバ提督(Jose de Cordoba y Ramos, 1732-1815/4/3)艦隊を破った海の戦い。1796/10月のスペインのイギリスとポルトガルに対する宣戦布告は、地中海におけるイギリスの立場を危機に陥らせました。フランス・スペイン連合艦隊は38隻の戦列艦を持ち、イギリスの地中海艦隊には15隻の戦列艦しかないのを大きく引き離しており、イギリスはまずコルシカ島、そしてエルバ島からも撤退を余儀なくされました。1797/2/1にスペインのドン・ホセ・デ・コルドバ艦隊は27隻の戦列艦で護衛した、金銀の精錬のために必要な水銀を積んだ57隻の商船の船団と地中海のカルタヘナを、ブレストのフランス艦隊と合流すべく、スペイン大西洋岸のカディスに向かって出帆。一方、イギリスのジャーヴィス地中海艦隊は、スペイン艦隊を捕捉すべく、10隻の戦列艦でポルトガルのタホ(リスボン)を出帆。2/6にジャーヴィス艦隊はサンビセンテ岬沖でウィリアム・パーカー少将(Rear Admiral Sir William Parker, 1st Baronet, 1743-1802/10/31)の海峡艦隊からの増援の戦列艦5隻と合流。2/14日未明、ジャーヴィス艦隊は風上(Windward、風下:Leeward)約56kmにスペイン艦隊を捕捉して、やがて海戦が勃発、イギリスの勝利となりました。 ・英ス両軍の艦隊編制:〜
・英の艦隊編成:〜参加艦船名 イギリス艦隊:〜総司令官ジャービス提督 ・地中海艦隊の戦列艦10隻:〜司令官トンプソン中将 ・海峡艦隊からの増援5隻:〜司令官パーカー少将
・キャプテン号の装備:〜 HMS Captain、1787
・ミネルヴァ号の装備:〜 French frigate La Minerve、1794 (フランス艦をイギリスが2度捕獲) 仏:La Minerve, 1794-1795、→→→ 英:HMS Minerve, 1795-1803 仏:Canonniere, 1803-1810、→→→ 英:HMS Confiance, 1810-1814
・サン・ホセ号の装備:〜 San Jose、1769
<参考:〜付記> ・サン・ビセンテ岬の海戦 (英: Battle of Cape St Vincent、1797/2/14)英勝利 サン・ビセンテ岬の海戦は、司令官ジョン・ジャーヴィス提督の戦列艦15隻を主力とするイギリス艦隊が、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬の沖合で、司令官ホセ・デ・コルドバ提督の戦列艦27隻を主力とする優勢なスペイン艦隊を破った戦いのことです。 1796/8/16にスペインとフランスは第二次サン・イルデフォンソ条約(2nd Treaty of San Ildefonso)を締結して両国の間で対イギリス同盟が成立。1797年に入るとイギリス海軍はスペインを海上封鎖してスペインとの対立を深めました。1796/10月にスペインがイギリスとポルトガルに対して宣戦布告すると、地中海におけるイギリスの立場を危機に陥らせました。38隻の戦列艦を持つフランス・スペイン連合艦隊は、15隻の戦列艦しかないイギリスの地中海艦隊を大きく凌駕しており、イギリスは、まずコルシカ島、そしてエルバ島からも撤退を余儀なくされました。1797年初めに27隻の戦列艦からなるスペイン艦隊はブレスト港のフランス艦隊と合流すべく、地中海のカルタヘナ港で金銀の精錬のために必要な水銀を積んだ57隻の商船の船団を護衛して大西洋岸のカディス港に向かおうとしていました。2/1に提督ドン・ホセ・デ・コルドバ司令官のスペイン艦隊はカルタヘナ港を出帆。ところがジブラルタル海峡とカディス港の途中で”ラバンテ”と呼ばれる激しい東風に見舞われ、予定よりも遠く大西洋に吹き流されました。風が弱まるのを待って、艦隊はカディス港への航路に戻って進み始めていました。 一方、イギリスの地中海艦隊はジャーヴィス司令官の麾下、そのスペイン艦隊を捕捉するべく、10隻の戦列艦でタホ(リスボン)を出帆。1797/2/6にジャーヴィス提督はサン・ビセンテ岬沖で準男爵パーカー少将が指揮する海峡艦隊からの増援の戦列艦5隻と合流。2/11にイギリスのホレーショ・ネルソン代将が指揮するフリゲート艦ミネルヴァ号はスペイン艦隊と遭遇するも、濃い霧に紛れて発見を免れました。ネルソンは2/13にスペイン沖の15隻のイギリス艦隊に合流して、旗艦ヴィクトリー号に座乗するジャーヴィス司令官にスペイン艦隊の位置を報告するも、 霧の中でネルソン提督は敵艦の数を数えることが出来ていませんでした。敵艦隊の勢力を知らないまま、それを捕捉すべく、ジャーヴィス司令官の艦隊は行動を開始。2/13には大西洋の沖合に押し流されたスペイン艦隊がイギリス艦隊の近くまで来ていて、翌14日未明にジャーヴィス司令官の艦隊はスペイン艦隊が風上35マイル(約56km)にあることを知りました。イギリス艦隊が待ち構えていた霧の中で信号のために発射するスペイン艦の砲音が聞こえてきて、午前2時50分にジャーヴィス司令官のもとにスペイン艦隊との距離が約15マイル(約24km)という報告が来ました。夜が明けた時にヴィクトリー号の艦尾甲板で、ジャーヴィス司令官とカルダー艦長が敵艦を数えて、その時初めて敵艦隊がほぼ2倍の勢力であることとを知りました。戦いを避けるのは至難でしたし、敵艦隊がフランス艦隊と合同したら今よりさらに悪い状態になるだけだったので、ジャーヴィス司令官はこのまま戦闘に突入することを決断。明るくなってスペイン艦隊が風上側が約18隻、イギリス艦隊に近い方が約9隻の2つの戦列を作っていることが見えて、しかも風上側の戦列の戦艦が左に回頭して単縦陣を作って風上側から、より小さいイギリスの戦列艦隊を強力な砲火で圧倒しようとしているように見て取れました。そうしてはならじと、ジャーヴィス司令官はイギリス艦隊に2つの敵グループの間を通るよう命令。それにより敵が撃ち込める砲火を最小限に留めめる一方で、自艦隊は同時に両舷の砲を発射できました。 両艦隊の猛砲撃戦の末に、ある艦はそのフォアトップマストを打ち倒し、またある艦は舷側砲火を浴びせあれて帆装をすっかり取り払われ、ミズンマストを打ち倒され、フォアトップマストが倒れました。ネルソン提督のキャプテン号は、左舷の吊錨架でサン・ニコラス号の右舷艦尾を引っかけ、海兵隊員と水兵からなる斬り込み隊を率いて提督自らサン・ニコラス号の艦尾から乗り込み、サン・ニコラス号を制圧。キャプテン号のミラー艦長に追加の兵を乗り込ませるよう命じ、自らは斬り込み隊と共にサン・ニコラス号を横切って、衝突しているサン・ホセ号に乗り込みました。そして錨索の孔からサン・ホセ号に乗り込むと、艦尾甲板にいたスペイン士官は剣を差し出して降伏しました。2隻のスペイン艦は両方とも捕獲されました。1隻の敵艦をもう1隻の敵艦への桟橋に利用するというこの意表をつく戦法はイギリス海軍内で大評判となり、冗談交じりで「ネルソン特許の敵艦乗り込み橋(Nelson's patent bridge for boarding enemy vessels)と呼ばれました。安全が確認されるまでネルソン提督は捕獲したスペイン艦に留まり、すれ違うイギリス艦からの喝采を受けました。ネルソン提督はミラー艦長に感謝するためにキャプテン号に戻り、サン・ニコラス号の艦長の帯剣をミラーに授与。午後5時にネルソンは航行不能となったキャプテン号からイリジスタブル号に将旗を移しました。煙で汚れ、裂けた軍服のままでネルソンは旗艦ヴィクトリー号に赴き、その艦尾甲板でジャーヴィス司令官に抱きしめられ、感謝されて迎えられました。ジャーヴィス司令官は、カディス港のスペイン艦隊の封鎖を実行。この戦いの結果、スペイン艦隊はその後2年間も港に留ることを余儀なくされ、フランスのイギリス侵略を不可能にしました。 サン・ビセンテ岬の海戦でイギリスはスペイン海軍に致命傷を与えられず、4隻の戦列艦の捕獲に留まり、その戦果の少なさに不満を募らせた艦長達は司令官に要請して、1797/3月にスペインのカディス港へ、夏にはカナリア諸島のサンタ・クルス・デ・テネリフェ港へ、捕獲のための遠征航海をしました。しかしネルソン提督艦隊は陸上の砲台によって撃退されました。その時にスペインの有名な大砲エル・ティグレで、ネルソン提督が右腕を失いました。封鎖はそれから3年近く続き、1802年のアミアンの和約までの間、スペイン艦隊の活動を大きく制限。ジャーヴィス司令官はスペインの脅威を封鎖し、艦隊を強化して、翌年にネルソン指揮下の戦隊をふたたび地中海に送ることができました。オライオン号、カローデン号、ゴライアス号を含む戦隊は、フォーリー提督の下に再編された地中海艦隊に加わり、ナイルの海戦で大きな戦果をあげることになるのでした。 参考HP:〜 ・サヴィセンテ岬の場所地図 こちらで ・栄光の6月1日海戦 (1794/6/1) ・グロワ島の海戦 (1795/6/23) ・フィニステレ岬の海戦 (1805/7/22) ・サン・ビセンテ岬の海戦 (1780/1/16、月光の海戦) ・コリングウッド提督 ・グラヴィナ提督 ・サフレン提督 ・ラ・ブルドネス提督 ・ビクター・ヒューズ船長 ・フランス領ギアナ
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/12/15、令和 R.4/8/18(2022) |