・ジャン・バプティスト・ビクター・ヒューズ船長
Captain Jean-Baptiste Victor Hugues
(1762/7/20, Marseille マルセイユ生〜1826/8/12, Cayenne, Guyane francaise カイエンヌ没)
グアドループ総督(governor of Guadeloupe,
在任1794/6/7〜1798/11/22)
ギアナ総督(governor of Guiana,
在任1800/1/8〜1809/1/2)
ビクター・ヒューズ船長はフランス中南東部ロワール県で後のフランス大革命(バスティーユ1789/7/14-共和国憲法1795/8/22)ジャコバン派(1789/11-1794/11/11)の恐怖政治(革命裁判所1793/3/10-テルミドールのクーデター1794/7/27)の時代に非キリスト教化運動の影響で、アルムヴィル(Almville、武装都市:Armed
city)に改称させられたサンテティエンヌ(Saint-Etienne)のシルクトレーダー(silk
trader:絹商人)だったフランソワ・ヒューズ(Jean-Francois
Hugues,1725-1789)がマルセイユへ移動してブルジョアジーになったという父と、母キャサリン・フォドリン(Catherine
Fodrin, 1729-1822)の裕福な家庭で、1762年に生まれました。1776年14才で商人ジャン=バティスト・ガスキー(Jean-Baptiste
Gasquy, 1754-1801)の船に乗り組み、1780年代の初めにハイチのサン・ドマング(Saint Domingue)に移住しました。1791年にフランスに戻ると、フランス大革命が勃発していて、地元仏ヌーヴェル=アキテーヌ地方シャラント=マリティーム県ラ・ロシェル(La
Rochelle)のジャコバン派クラブの支援を受けて、ラ・ロシェルで仏大革命の統治機構国民公会の公安委員会(1793/4/7-1795/11/4)の検察官(Procureur)に任命されました。
・フランス領グアドループ諸島の総督
1794年にグアドループ諸島総督(在任1794/6/7-1798/11/22)に任命され、1794/2/4に全てのフランス領で奴隷制の終了を宣言した奴隷解放命令を現地に適用するように命じられました。その頃のグアドループ諸島では黒人奴隷が移入されてタバコ・コーヒー・綿花などがプランテーション農場で生産されていました。1790年頃のマリー・ガラント島の住民約11,500人の内、奴隷は9,400人になっていました。1789年に起ったフランス革命で憲法議会が奴隷制 |
グアドループ島 マリーガーラド島
ドミニカ 1992 発行 |
の廃止を決定したことがカリブ海方面へ伝わってきて、西インド諸島プランテーション農場主たち王党派がイギリスへ保護を求めてホワイトホール合意を締結して、イギリスはカリブ海へ遠征艦隊を派遣しました。1794/4/24にグアドループ島は占領されました。そこへヒューズ新総督が派遣されてきてイギリスと戦い、勝利しました
・イギリスとの戦い、勝利
(Invasion of Guadeloupe, 1794/4/11-1794/12/10)
1794年に、イギリス海軍リーワード諸島艦隊司令長官ジャービス提督(John
Jervis, 1st Earl of St Vincent GCB PC. 1735-1823)が艦隊旗艦の戦列艦ボイン号(HMS Boyne, 98gn)に座乗、英陸軍司令官グレイ将軍(Charles
Grey, 1st Earl Grey, KB, PC, 1729-1807)の軍隊を護衛輸送して、マルティニーク島、セントルシア島のフランス植民地を占領しました。その遠征艦隊がマルティニーク島を確保している間に、グアドループ諸島の |
イギリス戦列艦
英インド洋地域 1999 発行 |
農場主達もホワイトホール合意を1794/2月に締結したことから、ジャービス提督が率いる艦隊の支援を受けたグレイ将軍が率いるイギリス軍がグアドループ諸島へ侵攻してきました。
1794/4/11、グレイ将軍隊の隊長で新総督に指名(1794/4/20-1794/6/3)されたダンダス少将(Major-General
Thomas Dundas, 1750-在任1794/4/20-1794/6/3黄熱病43才没)指揮の第6歩兵連隊(6th Regiment of
Foot、約2,000人)が、グアドループ島東側グランド・テール島南部ル・ゴシエ(Le
Gosier, Grande-Terre, Guadeloupe Island)海岸に上陸・攻撃してきました。
4/20、ダンダス軍はグランド・テール島フルール・デペ砦(fort
Fleur d'Epee)へ最後の攻撃の後、東側
のグランド・テール島を占領。イギリス軍と共に帰還した反革命派農場主達は直ちに革命派に報復
主に革命派黒人と有色人種全員が殺されました。
4/24、仏コロ総督(Georges Henri Victor Collot,
1750-在任1793/3/18-1794/4/20-1805パリ没)は
4/24、仏コロ総督は
最後の拠点の西側バセ・テール島の首都バセテール(Basse
Terre)で降伏してグアドループ島は
全島が占領されました。仏革命派住民は島外へ逃れるも、イギリスとホワイトホール合意を
締結した反革命派の農場主達は奴隷労働の農場経営を再開しました。
5/07、ヒューズ新総督はカルティエ将軍(generaux
Cartier)指揮の兵1,150人部隊と共に
グランド・テール島西側中央ポワンタピトル(Pointe-a-Pitre)に上陸、南東へと進軍。
5/21、ヒューズ新総督はカルティエ将軍部隊と共にル・ゴジエに到着。すぐに奴隷制の終了を宣言。
黒人奴隷と有色自由人とサン・キュロットなど3,000人以上を結集して入隊させました。
5/26、首都バセテールを総攻撃して占領。
7/17、ラデジラード島を奪還。
10/6、グアドループ島バービル野営地(camp
Barville)のイギリス軍を、
仏軍1,700人(仏軍800人と黒人900人)で攻撃して勝利。
黄熱病などで苦戦していたイギリス軍グラハム将軍は降伏。
10/27、マリーガラント島を奪還。
1794/12/10、英軍は最終的にマルチニーク島へ撤退し、、グアドループ諸島を奪還しました。
1794/12/11、ヒューズ総督は正式に奴隷制度を廃止しました。
・仏英軍の兵力:〜
仏英の艦隊 |
戦列艦 |
その他 |
艦隊司令官 |
上陸軍司令官 |
上陸軍兵力 |
・フランス |
?号 |
輸送船団 |
ヒューズ新総督 |
カルティエ将軍 |
仏軍1,150人 |
・イギリス |
ボイン号 |
輸送船団 |
ジャービス提督 |
グレイ将軍 |
ダンダス少将連隊 |
<グアドループ諸島をフランス革命で王政から共和制へ改革>
・軍隊の改革
ヒューズ総督は黒人奴隷制(Chattel slavery)を廃止するも、プランテーション農場のためにフランスの課税の賦役(French
corvee:無給の義務的労働コルヴィー)は残存しました。総督は軍隊を再編成し、解放された黒人奴隷を多数募集・入隊させて軍隊が約10,000人規模になりました。アフリカ系とヨーロッパ系の両方の兵士は、人種的な区別なしに同じ部隊に統合されました。 |
植民地の兵隊
アンチグア 1972 発行 |
・海賊許可状と、米国との擬似戦争
総督はフランスから持ち込んだギロチンを使用して反革命派を諸島から一掃しました。プランテーション農場は奴隷ではないコルヴィー労働で持続されました。フランス国王フランソワ1世(Francis
I. 在位1515-1547)が仏海賊コルセール(French
Corsaires)である私掠船ロベルヴァル船長に勅許を与えたように、ヒューズ総督も仏私掠船に許可証を与えました。仏私掠船はカリブ海を通る商船を攻撃して諸島に大きな富をもたらしましたが、アメリカの船舶を攻撃したので、フランスとアメリカとの間が緊張状態となって、宣戦布告のない |
ギロチン
フランス 1959 発行 |
擬似戦争(Quasi-War, 1798-1800)となりました。
・米仏フリゲート艦の海戦
(1799/2/9の海戦:Action of 9 February
1799)米国との擬似戦争
(Sea Battle of USS Constellation 44gn
vs L'Insurgente 40gn, 1799/2/9)
・セントルシア島へ侵攻
新編成の白人や混血ムラート (Mulatto)や元奴隷の兵士で構成される軍隊を編成したヒューズ総督は、近隣の島々への革命の移入を企図してドミニカ、サンマルタン、グレナダ、セントビンセント、セントルシアなどを、革命で王政から共和制へ移行しようと侵攻しました。1795/4/18にヒューズ総督は兵600人でセントルシア島に上陸。島の白人共和党員250人と黒人共和党員300人のほとんどが前装式スパイク銃(flintlock
Spike rifle)を持ち、少数が英駐屯軍から捕獲した先込め式の滑腔式歩兵銃のマスケット銃(Musket
rifle)を持って、上陸した総督軍に加わりました。
イギリス軍は、4/22にカストリーズ港(Castries,
St. Lucia)に千人以上の軍隊を上陸させて陸路でビューフォート(Vieux
Fort)とスーフリエール(Soufriere)に向かい, |
セントルシア島
セントルシア2001発行 |
フォンドドゥ(Fond Doux)とラボット(Rabot)で攻撃を開始しました。しかし激しい戦闘の後、イギリス軍はカストリーズ港に撤退することを余儀なくされました。英軍は最終的に6/19に敗北し、島から撤退しました。王党派のフランス人プランター農場主達は英軍と一緒に逃げ、奴隷はヒューズ総督によって解放されました。1796年にはアンギラ島へ侵攻するも、島の守備軍の反撃で撤退しました。
1796年にバセテールで農園主の娘アンジェリック・ジャッカン(Angelique
Jakkan, 1773-1806)と結婚しました。1798年にバッセテールで長女のアメリー・ユーグ(Amery
Yug)が誕生。1798/11/22に新総督デスフルノー将軍(Edme
Etienne Borne Desfourneaux, 1767-在任1798/11/22-1799/10/3-1849パリ没)がグアドループに到着。ヒューズ総督の交代は島民の間に波紋を呼びました。1799/1/2にヒューズ船長は、グアドループ諸島の改革でゆきすぎがあったとして、フランスへ強制送還のためにバッセ・テール港の船に拘留されました。フランスのマルセイユに妻と娘を連れて戻ると、仏革命政府の国民公会はヒューズ船長を南米のフランス領ギアナ総督に任命しました。
・フランス領ギアナ総督(現フランス海外県)
(Governer of Guyane francaise、在任1800/1/8-1809/1/2)
1799年にヒューズ船長がフランス領ギアナの総督に任命されると、マルティニーク島と同様に、ギアナの農園主はイギリスに同盟を求めることで奴隷制の廃止を逃れようとしました。1800/1/6にヒューズ新総督が、後のフィニステレ岬海戦で戦ったフリゲート艦ラ・シレーヌ号(frigate La Sirene 40gn)でカイエンヌ港(Cayenne,
French Guiana)に到着。グアドループ諸島と同じように奴隷を解放。地元の農園主を管理下に置き、産業を再開しました。1801/9/15カイエンヌで次女ハーシリー |
仏ギアナの場所地図
|
(Hersilie)が生まれ、1803年コーネリー(Cornelie)、1806年アデル(d'Adele)が生まれました。
1802/12/7の法令でプランテーション農場のためにフランス課税の賦役(無給労働コルヴィー)で、フランス領ギアナで奴隷制度が再確立されました。1804/1/18にヒューズ総督はフランス領ギアナとセネガル首都ダカール沖ゴレ島の奴隷交易所の間のつながりを再構築するために遠征隊を編成しました。
・ポルトガルとの戦い、敗戦
(Invasion of Guyane francaise, 1809/1/6-1809/1/14)
1809年にフランスのポルトガル侵略に対する報復で、ギアナがポルトガルに占領されるも、1814年のパリ条約で仏に返還されました。1809年にブラジルのポルトガル軍がイギリスの支援で仏領ギアナを侵攻。1809/1/6に英ブラジル基地スミス(Admiral
Sir William Sidney Smith GCB GCTE KmstkSO
FRS, 1764-1840)艦隊のコルベット艦コンフィアンス号(HMS Confiance, 24g)と、ポルトガルのブリッグ艦2隻がカイエンヌ |
ポルトガル船
ポルトガル 1943 発行 |
沖に来襲。1809/1/14にコンフィアンス号勅任艦長(Post Captain)ヨー司令官(Commander Sir James Lucas Yeo,
KCB, KBA 1782-1818/8/21黄熱病35才没)指揮のポルトガル兵550人と1,000人の囚人兵からなる部隊がカイエンヌに上陸。ヒューズ総督は防御できずギアナは占領(1809/1-1817/11)されました。1810年にヨー司令官はポルトガルからプロテスタントして最初のアヴィス騎士団勲章(the
Order of Aviz)をイギリスからはバス勲章(KCB:knight commander of the Order of the Bath)を受勲。
ヒューズ総督は強制退去させられ、カイエンヌを離れて仏ボルドーに戻りました。帰国すると反逆罪と無能さで告発され、自宅軟禁下に置かれて最終的に無罪となり、1814年に釈放されました。1817年にフリゲート艦トパーズ号(frigate
Topaze, 40gn)でギアナのカイエンヌに戻って農園主として、1826/8/12にカイエンヌにて64才で亡くなりました。
・ヒューズ船長の生涯年表
年 |
才 |
記 事 |
1762 |
0 |
8/12、フランスのマルセイユで誕生 |
1776 |
14 |
商人ガスキーの船にキャビンボーイで乗組み |
|
|
7/4、アメリカ合衆国が独立宣言 |
1780 |
18 |
年代の初めにハイチのサン・ドマングに移住 |
1789 |
27 |
フランス大革命勃発 |
1791 |
|
フランスに戻る |
1793 |
31 |
仏革命の国民公会の公安委員会の検察官に任命される |
1794 |
32 |
グアドループ総督(1794/6/7-1798/11/22)に任命される |
|
|
2月、諸島の農場主達がイギリスとホワイトホール合意を締結
4月、英ジャービス提督艦隊が来襲
04/11、英グレイ将軍の第6歩兵連隊々長で新総督ダンダス少将軍がグアドループ島に上陸
04/24、仏コロー将軍がグアドループ島バセテールで降伏
05/07、ヒューズ新総督のフランス艦隊がフランス軍を上陸させる
06/03、ダンダス少将が黄熱病で没
07/17、ラデジラード島を奪取
10/06、グアドループ島バービル野営地で英軍が降伏、フランスの勝利
10/27、マリーガラント島を奪取
12/10、英ジャービス艦隊が撤退
12/11、奴隷制度を正式に廃止 |
1795 |
33 |
4/18、セントルシア島へ侵攻、奴隷を解放 |
1796 |
34 |
バセテールで農園主の娘アンジェリックと結婚 |
1798 |
36 |
バッセテールで娘アメリーが誕生
4/22、スフリエール火山(Soufriere 1467m)が噴火
11/22、新総督デスフルノー将軍(在任1798-1799)がグアドループに到着 |
1799 |
37 |
1/2、仏へ強制送還のためバッセテール港の船に拘留される |
仏領ギアナ総督(1800/1/8-1809/1/2)に任命され、ギアナに派遣される |
1800 |
38 |
1/6、ラ・シレーヌ号でギアナのカイエンに到着 |
1801 |
39 |
9/15、次女ハーシリーがカイエンで誕生 |
1803 |
41 |
3女コーネリー誕生 |
1804 |
42 |
ハイチ革命、アフリカ人奴隷反乱が成功、フランスから独立 |
1806 |
44 |
4女アデル誕生 |
1809 |
47 |
1/14、コンフィアンス号が来襲、ポルトガルがギアナを占領
ヒューズ総督は強制退去させられる |
1814 |
52 |
フランスに戻って軍法会議で無罪となる |
1817 |
55 |
ポルトガルは1713年のユトレヒト条約の状態にフランスへギアナ返還
11/18、仏トパーズ号でギアナに戻り、民間人として滞在 |
1826 |
64 |
8/12, カイエンヌ没。 |
・参考:〜
・ホワイトホール協定
(仏 Traite de Whitehall, 1793/2/25, 英
Whitehall Accord)
ホワイトホール協定は1793/2/19にイギリスの代表者とフランス王党派移民農園主の代表者達によって合意され、1793/2/25に調印されました。それはイギリスと、フランス領ハイチ、マルティニーク、グアドループの反革命王党派入植農園主との間の合意で、この条約で王党派移民は奴隷と財産の所有を維持することが許され、イギリスはフランス革命軍が島々を占領するのを防ぐためにグアドループ島とマルティニーク島を占領することが合意されました。戦後のハイチは未解決のままで、マルティニーク島とグアドループ島は復活したフランス王党派移民に返還されることになっていました。奴隷制は後の1793〜1794年にかけてフランス政府が廃止しました。
|
大西洋三角貿易
奴隷解放150年記念
トリニダードトバゴ 1984 発行 |
・第三次フィニステレ岬の海戦
(Battle of Cape Finisterre、1805/7/22)
ナポレオン戦争の中の第三次対仏大同盟の戦いのフィニステレ岬の海戦はスペインのガリシア地方フィニステレ岬の沖でイギリス艦隊とフランス・スペイン連合艦隊の間で戦われた海戦。ナポレオン戦争の中の第三次対仏大同盟の戦いの一部として、ナポレオンのイギリス侵略を支援するためにイギリス海峡に入ることを企てたフランスのヴィルヌーヴ提督艦隊とスペインのグラビナ提督艦隊との連合艦隊を、カルダー提督指揮のイギリス艦隊が阻止。 |
フィニステレ岬 |
ガリシア地方 .
スペイン 1971 発行 |
・仏英軍の兵力:〜
仏ス英の艦隊 |
戦列艦 |
その他 |
艦隊司令官 |
|
・フランス
・スペイン |
14隻
6隻 |
フリゲート艦など9隻
ー ー ー |
ヴィルヌーヴ提督
グラビナ提督 |
|
・イギリス |
15隻 |
フリゲートなど4隻 |
カルダー提督 |
|
・仏ス英の艦隊編成:〜
フランス艦隊 |
(戦列艦) |
砲 |
|
仏戦列艦
マーシャル諸島 1998 発行
|
・プルトン号 |
Pluton |
74 |
|
・モンブラン号 |
Mont Blanc |
74 |
|
・アトラス号 |
Atlas |
74 |
|
・ベリック号 |
Berwick |
74 |
|
・ネプチューン号 |
Neptune |
80 |
|
・ブチェンタウロ号 |
Bucentaure |
80 |
ビルヌーブ旗艦 |
・フォーミタブル号 |
Formidable |
80 |
|
・イントレピード号 |
Intrepide |
74 |
|
・スキピオ号 |
Scipion |
74 |
|
|
・スウィフトシュア号 |
Swiftsure |
74 |
|
仏フリゲート艦
ジブラルタル 2007 発行 |
・インドミタブル号 |
Indomptable |
80 |
|
・エーグル号 |
Aigle |
74 |
|
・アキレス号 |
Achille |
74 |
|
・アルヘシラス号 |
Algesiras |
74 |
|
・コーネリー号 |
Cornelie |
44 |
フリゲート艦 |
・ライン号 |
Rhin |
44 |
” |
・ディドン号 |
Didon |
40 |
” |
・ホルテンス号 |
Hortense |
40 |
” |
・ハーマイオニー号 |
Hermione |
40 |
” |
・ラ・シレーヌ号 |
La Sirene |
40 |
” |
・テミス号 |
Themis |
40 |
” |
・フルート号 |
Furet |
16 |
ブリッグ艦 |
|
・ブリッグ |
? |
|
” |
|
スペイン艦隊 |
6隻 |
砲 |
|
スペイン戦列艦
スペイン 1964 発行 |
・アルゴノート号 |
Argonauta |
80 |
グラビナ旗艦 |
・テリブル号 |
Terrible |
74 |
|
・アメリカ号 |
America |
64 |
|
・エスパーニャ号 |
Espana |
64 |
|
・サンラファエル号 |
San Rafael |
80 |
|
・フィルメ号 |
Firme |
74 |
|
イギリス艦隊 |
15隻 |
砲 |
|
英戦列艦 エイジャックス号
リベリア 1972 発行 |
・ヒーロー号 |
Hero |
74 |
|
・エイジャックス号 |
Ajax |
74 |
|
・トライアンフ号 |
Triumph |
74 |
|
・バルフルール号 |
Barfleur |
98 |
|
・アガメムノン号 |
Agamemnon |
64 |
|
・ウィンザーキャッスル号 |
Windsor Castle |
98 |
|
・ディファイアンス号 |
Defiance |
74 |
|
・プリンスオブウェールズ号 |
Prince of Wales |
98 |
カルダー旗艦 |
・リパルス号 |
Repulse |
64 |
|
・リーズナブル号 |
Raisonnable |
64 |
|
・ドラゴン号 |
Dragon |
74 |
|
・グローリー号 |
Glory |
98 |
|
・ウォリアー号 |
Warrior |
74 |
フッド艦長 |
|
・サンダーラー号 |
Thunderer |
74 |
|
|
・マルタ号 |
Malta |
80 |
|
|
・エジプトアン号 |
Egyptienne |
40 |
フリゲート艦 |
|
・シリウス号 |
Sirius |
36 |
” |
|
・ナイル号 |
Nile |
|
ラガー(Lugger) |
|
・フリスク号 |
Frisk |
|
カッター。 |
|
英提督 準男爵カルダー卿(Admiral Sir Robert
Calder, 1st Baronet, KCB,1745-1818)
※ヴィルヌーヴ & グラビナの両提督は3ヵ後にトラファルガーの海戦に従軍。
参考HP:〜9
・フランスの地図
・フランス植民地の場所地図(16〜20世紀)
・カリブ海の地図
・フランス領ギアナの場所地図(ガイアナ・スリナム・仏ギアナ・ブラジル)
・フランス領ギアナの地図(首都 "CAYENNE" 有)
・フランス領ギアナの地図(詳細地図)
こちらで
・第一次フィニステレ岬の海戦(1747/5/14)
・第二次フィニステレ岬の海戦(1747/10/25)
・サフレン提督
・ブルドネス提督
・マゼラン (海峡)
・マミヤ (海峡)
・スパイス (香辛料)
・コーヒー (嗜好飲料)
・ラッコ(絶滅危惧種)
をお楽しみください。
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.4/7/22(2022)
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