大航海物語 | 大航海時代 と 植民地のプランテーション(農園)
木綿 (もめん) Cotton |
参考資料 |
EGYPT エジプト綿(コットン) 国際綿会議カイロ記念 エジプト 1927/1/25 発行 |
BOPHUTHATSWANA 綿花の機械摘み ボプタツワナ 1988/9/15 発行 |
GAMBIA コットン(綿花) ガンビア 1973/10/15 発行 |
BAHAWALPUR コットン(綿花) バハワルプール 1949/3/3 発行 |
木綿 (もめん):〜約8000年前のメキシコ及び古代インダス文明の原産 Cotton 木綿はワタの種子(Seed)から取れる繊維(fiber)です。 原産地:〜メキシコ、インダス河流域などの説が有。 ワタ(棉:Cotton)は アオイ科(Malvaceae) ワタ属(Gossypium)の 多年草(Perennial plant)の総称で、 木綿(Cotton)は種子の周りに付いています。 繊維は伸びにくく丈夫で、吸湿性があって肌触りも良くて下着などによく使われていますが、縮みやすいという欠点があります。主成分はセルロース(cellulose)。単に棉(わた)・綿(めん)とも言い、摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿ですが区別しないこともあります。ただ「綿」と書いて「わた」と読むのは、本来は塊状の繊維全般を指す言語で、布団や座布団の中身を繊維の種類を問わず「綿」(わた)と呼びますが、これはその本来の用法です。古くは真綿(絹の原料)を意味することが多くありました。 綿の種子は硬い刮ハのなかにあり成熟するにつれ、はじけて綿花が現れます。刮ハの内部は隔壁によって数室に分かれ、各室に数個の種子があり、それに綿毛が密生しています。この綿毛は外皮細胞が変形したもので、綿の種類によって長短に分かれます。生の綿毛は管の中に水を入れたようなもので、熱するにつれて内部の水分が涸れて中空になり、さらに繰綿すれば、管内の水分はまったく乾燥して綿毛が自然によじれます。 ▼木綿の原産地とその伝搬:〜 木綿栽培の最古はメキシコで約8000年前に、アメリカ栽培綿(Gossypium hirsutum)という種類が栽培されて、現在世界で栽培されている木綿の89.9%がその種です。その次は約7000年前にインド北西のインダス川流域で発達したインダス文明で栽培されて、その木綿産業はかなり発展し、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで続きましたが、イギリスのせいですたれました。西暦が始まる以前に木綿の布はインドから地中海、さらにその先へと広まっていきました。ギリシャ人はアレクサンダー大王(アレクサンドロス3世 Alexander the Great 356-323BC)がインドに遠征するまで木綿を知らなかったといわれており、その部下だったセレウコス1世(Seleucus I Nicator 358-281BC)には「インドには羊毛が生える木がある」と伝えられていたといわれていす。 アメリカ先住民は木綿を紡いで衣服や染色したタペストリーを作っていました。ペルーではインカ帝国以前の墓から木綿の布が見つかっています。染色や織り方の面で、ペルーやメキシコの綿織物は古代エジプトの墓から見つかったものとよく似ているといわれています。ペルーでは、モチェ文化やナスカ文化などの海岸に沿った文化発達の基盤としてワタ属の原生種(Gossypium barbadense)の栽培がありました。綿花を川の上流で栽培し、それを使って漁網を作り、海岸の漁村との交易に使っていました。スペイン人が16世紀初めにメキシコに到達した時には現地人は綿花を栽培し、綿織物の衣服を着ていました。コロンブスは第4回の航海でユカタン半島に到達した時に、木綿の衣服をまとったマヤ人に出会ったと伝えられています。 イラン(ペルシャ)での木綿の歴史は紀元前5世紀頃のアケメネス朝ペルシア(Achaemenid Empire 550-330BC)で始まったといわれていますが、イスラム化(633年頃からササン朝ペルシア(226-651)領へ攻め込む)する以前のイランでの木綿栽培に関する文献は非常に少なく、13世紀のマルコ・ポーロはイルハン朝ペルシア(Ilkhanate 1258-1353)の主要産品として木綿も挙げていました。17世紀フランスの旅行家ジョン・カルダン(Jean Chardin 1643-1713)はサファヴィー朝ペルシア(Safavid dynasty 1501-1736)を訪れ、その広大な綿花農場を紹介しています。 紀元1世紀にアラブ人商人が綿モスリン(cotton muslin)やキャラコ(calico インド産平織り綿布)をイタリアやスペインにもたらしました。ムーア人がスペインに木綿栽培法をもたらしたのは9世紀のことでした。「コール天・別珍類の木綿や、木綿と羊毛を用いて短いけばを立てた綾織りの丈夫な布地」のファスチャン(fustian)織物とか、「縦縞や格子縞を出した薄地で目が透けて見える織物」のディミティ(dimity)織物は14世紀にヴェネツィアやミラノで織られていましたが、当初は縦糸にリンネルが使われていました。 イングランドに15世紀以前に輸入された木綿布はごくわずかですが、その一部は「ろうそく」の芯に使われました。中世末期には木綿が貿易で北ヨーロッパにもたらされましたが、それが植物性だということ以外詳しい製法は伝わりませんでした。ウールに似ていることから、北ヨーロッパの人々は羊のなる植物があるのだろうと想像していました。 16世紀末までに、綿花はアジアおよびアメリカ州の暖かい地方全域で栽培されるようになりました。17世紀にはイギリス東インド会社がインドから珍しい綿織物をもたらしました。18世紀から19世紀初めにかけてイギリス領インド帝国が確立することで、インドの綿織物産業は徐々に衰退していきました。これはイギリス東インド会社の植民地運営方針によるもので、インドでは原綿だけを供給することを強制され、イギリスで製造した織物を購入することを強制されました。
Hargreaves 1720-1778)が1人で 一度に8個以上のスプールを扱えるため、糸を作るのに かかる時間を劇的に短縮したジェニー紡績機(Spinning jenny)を発明 1769年、リチャード・アークライト(Sir Richard Arkwright 1733-1792)が紡績機あgが発明 イギリスでは綿織物の生産効率が劇的に向上 キュニョー(Nicolas-Joseph Cugnot, 1725-1804)が蒸気機関の自動車を発明するも続かず 18世紀後半、マンチェスターで綿織物工場が多数稼動して輸出拠点にもなったため、 マンチェスターが「コットンポリス」 (cottonpolis=木綿都市)の異名で呼ばれるようになる 1793年、アメリカ人のイーライ・ホイットニー(Eli Whitney 1765-1825が「綿繰り機」を発明 作業能率が従来の50倍も向上(マスケット銃の製造用にフライス盤も発明) イギリスとアメリカ合衆国の綿織物生産量が、さらに増加、イギリスはテクノロジーの 進歩と世界市場への影響力が増大して、植民地のプランテーションから原綿を購入し、 それをランカシャーの工場で織物に加工し、製品をアフリカやインドや中国(香港、上海 経由)といった植民地市場で売りさばくというサイクルを構築 1801年、イギリスのトレビシック(Richard Trevithick、1771-1833)が蒸気機関の試作車を製作 1830年、イギリス最初の蒸気機関エンジン(First Steam Engine)が完成 1840年代、インドの木綿繊維の供給量だけでは追いつかなくなり、インドからイギリスまでの運搬に 時間とコストがかかることも問題となり、そのころアメリカで優れたワタ属の種ができたので イギリスはアメリカと西インド諸島のプランテーションから木綿を買い付けるようになる 19世紀中頃、綿花生産はアメリカ合衆国南部の経済基盤となり、 キングコットン(King Cotton)と呼ばれ、その作業は奴隷の主要な仕事となる 南北戦争が勃発すると、北軍が南部の港を封鎖したため、綿花輸出が激減 これは連合国側(南部)が意図的に輸出を減らしたという側面もあり、それで主要輸出先 のイギリスに連合国を承認させ、あわよくば戦争に介入してもらおうと考えてのことでした。
イギリスの労働者は賃金が高いだけでなく織物工場を建設したり機械を納入するという経済効果 の派生がある。これらの賃金や利益はすべてイギリス国内でのものである。 4)最終製品は再びイギリスからインドへイギリス船で運ばれる。この時に賃金を得る船長や船員も イギリス人である。このとき利益を得る数少ないインド人は下働きのインド人水夫で、船上の 汚れ仕事を1日数セントで担っている。 5)この綿織物を買うのはインドの王族や地主で、その金は貧しい小作農を1日7セントで働かせて 得たものである。
▼ペルーの事情(タンギス綿 Tanguis Cotton):〜 1901年にペルーで「綿立枯れ病」、正確には「フザリウム立枯病」(Fusarium vasinfectum) が流行してペルー中に蔓延し、綿花生産が打撃をうけました。この病害は菌が根から入り込み、完全に枯らしてしまうものでした。ペルー在住のプエルトリコ出身の実業家で農学者のフェルマン・タンギス(Fermin Tanguis 1851-1930)は、この病害に強いワタ属の種を求めて発芽実験を繰り返し、10年間の試行錯誤を経て、1911年にこの病害に強いワタ属の種を開発しました。それまでより40%も長く太い繊維ができ、水が少なくても育つ優秀な種となりました。タンギス綿と呼ばれるこの種は、今ではペルーの綿花生産量の75%を占めるにいたっています。
1930年代、輸出量が世界一となるも、両税廃止運動などを通じて安い原料が日本に入るように なり、日本の綿花栽培は衰退する。第二次世界大戦時は綿布の輸出は停止したが、 戦後復活し、再び世界一になった。ただしその後は安価なアジア産の綿布に押され、 生産量は減少している。個人やグループ単位での生産はあるが、 統計上の国内自給率は0%となっている。 ▼人造絹糸の登場:〜 現在では、木綿は1890年代にフランスで開発された安価な”レーヨン”や、1924年に開発されたアセテート繊維、1936年にデュポン社が開発した「石油化学による最初の合成繊維ナイロン」、 1944年にはデュポン社がアクリル繊維を開発。これらの合成繊維は女性用靴下などに使われました。1950年代になって木綿と合成繊維が本格的に競合するようになり、1960年代にはポリエステルを使った衣類が急激に広まり、木綿輸出に依存していたニカラグアなどで経済危機が発生し、安い合成繊維と競合することでニカラグアでは木綿生産額が、1950年から1965年の間に10分の1に低下。木綿生産量は1970年代に回復しはじめ、1990年代初めには1960年代以前のレベルに戻りました。 ▼木綿生産国:〜 2009年現在の主な木綿生産国は中国とインドですが、国内の繊維産業でほとんどを消費している。木綿の主な輸出国はアメリカ合衆国とアフリカ諸国である。木綿の貿易総額は推定で120億ドルである。アフリカの木綿輸出額は1980年から倍増している。木綿輸出国は国内の繊維産業の規模が小さく、繊維産業の中心は中国やインドなどの東アジアや南アジアである。アフリカでは綿花栽培は小作農が中心である。テネシー州メンフィスを本拠地とする Dunavant Enterprises がアフリカの木綿仲買の最大手で、数百人の買い付け代理人を擁している。ウガンダ、モザンビーク、ザンビアで綿繰り工場を運営している。ザンビアでは、18万人の小作農に種や経費のための資金を貸し付け、栽培方法のアドバイスを提供している。カーギルもアフリカでの木綿買い付けを行っている。アメリカでは2万5000の木綿農家が毎年20億ドルの補助金を受け取っている。この補助金によって、アフリカの綿花生産農家は価格競争を強いられ、生産と輸出を妨げられている。ただし Dunavant が活動しているのは旧イギリス植民地とモザンビークだけであり、旧フランス植民地では依然として植民地時代から受け継がれた固定価格を維持している。 ▼主な生産国、2009年の輸出上位5ヵ国:〜 (1) アメリカ合衆国 (2) インド (3) ウズベキスタン (4) ブラジル (5) パキスタン また全く生産していない主な輸入国は北朝鮮、ロシア、台湾、日本、香港。インドでは熱帯の乾季と雨季のある地方が主な木綿の産地となっており、マハーラーシュトラ州(26.63%)、グジャラート州(17.96%)、アーンドラ・プラデーシュ州(13.75%)、マディヤ・プラデーシュ州が中心となっています。USAはコットンベルトとよばれる綿の栽培地帯で北緯37度〜39度、テキサス州が主要生産地ですが(2004)、単位面積当たりの収穫量はカリフォルニア州が最も大きい。ウズベキスタンやトルクメニスタンは旧ソビエト連邦時代に木綿自給化の一環として、木綿の農場が多数作られ、砂漠の緑化の成功例として、また社会主義の卓越性を示すものとして中央アジアの木綿農場が宣伝されましたが、一方では農業生産が木綿に偏るモノカルチャー化をもたらし、アムダリヤ川(Amu Darya 2,400km)やシルダリヤ川(Syr Darya 2,212km)などの河川の水を過剰に使用し、下流のアラル海が干上がる一因となりました。 ▼生産量上位10カ国(2009) (1梱あたり480ポンド) ・中華人民共和国〜3250万梱 ・インド〜2350万梱 ・アメリカ合衆国〜1220万梱 ・パキスタン〜960万梱 ・ブラジル〜530万梱 ・ウズベキスタン〜400万梱 ・トルコ〜175万梱 ・オーストラリア〜160万梱 ・トルクメニスタン〜125万梱 ・シリア〜100万梱 参考HP:〜 ・主な生産国の地図
これらは相互には交配できないとされる。 (1)オーストラリア野生綿(sturtianum)〜オーストラリア (2)アジア綿(arboreum、herbaceum)〜アジアおよびアフリカの野生種と栽培種 (3)アメリカ野生綿(armourianum)〜北米西南およびガラパゴス島 (4)アメリカ栽培綿(hirsutum)〜北米、南米、アフリカ、太平洋諸島 ワタ属は、アオイ科の属の一つ。約40種の多年草からなる。世界各地の熱帯または亜熱帯地域が原産。子房が発達して形成される朔果 (ball) の内部の種子表面からは白い綿毛が生じ、これを繊維として利用するため栽培される。この繊維は綿として利用される。また、繊維を採取した後の種子から取られた綿実油は、食用油として利用される。油の絞りかすにはポリフェノール(polyphenol)のゴシポール(Gossypol=綿実のポリフェノール色素)が含まれており、有毒。 なお、ワタの遺伝子組換え品種が多数開発され、遺伝子組換え品種の栽培面積が急激に広がっている。2003年度は世界のワタの総栽培面積のうち21%が遺伝子組み換えワタだったが、2009年度には49%になる。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/5/5 |