France

国連 1980 発行
 切手で綴る フランス王族(12
ヴァリエール夫人
Madame de Valliere

ブルボン朝 (Bourbon dynasty, 1589-1792)
フランス編

ブルボン紋章

REPUBLIQUE DU TCHAD
ヴァリエール夫人
フランス王室の肖像画
※17(6 Paintings

(Portraits of French Royalty)
チャド 1971 発行

Kルイ14世公妾(側室1661-1666)ヴァリエール夫人(Madame de Valliere)
通称:ルイーズ・デ・ラ・ヴァリエール(Louise de La Valliere)65才没
 フランソワーズ・ルイーズ・デ・ラ・ボーム・ル・ブラン
 (Francoise Louise de La Baume Le Blanc, 1644/8/6-1710/6/7)
 称号:ラ・ヴァリエール女公爵(Duchesse de La Valliere)
 称号:ヴォージュール女公爵(Duchesse de Vaujours)
ヴァリエール夫人はフランスの貴族出身で、
フランス王ルイ14世の愛妾になって女公爵(Duchesse)の称号を与えられました。
ルイ14世

フランス 1959 発行
ヴァリエール夫人は、軍人の父ヴァリエール侯爵ル・ブラン(Laurent de La Baume Le Blanc, Marquis de La Valliere, 1651没)とパリ高等法院(Parlement of Paris)監督官未亡人の母フランソワーズ(Francoise Le Provost)のもとで、サントル・ヴァル・ド・ロワール地方アンドル・エ・ロワール県トゥール(Tours, Indre-et-Loire Department, Centre-Val de Loire region)のヴァリエール城(Chateau de la Valliere)に生まれて幼少期を過ごしました。1651年7才で父が亡くなった4年後に母はオルレアン公ガストン(Gaston, Duke of Orleans, 1608-1660)の執事サン・レミ侯爵ジャック・デ・クルタヴェル(Jacques de Courtavel, marquis de Saint Remy)と3度目の結婚をして同地方ロワール・エ・シェール県ブロワ(Blois, Loir-et-Cher department, Centre-Val de Loire)にあるオルレアン公の宮廷へ出入りするようになりました。1660年オルレアン公没後すぐに公爵夫人マルグリット未亡人(Marguerite de Lorraine, 1615-1672)は娘たちを連れてパリのリュクサンブール宮殿(Luxembourg Palace現元老院(上院)議事堂)へ移り住んで16才の夫人も同行。夫人は翌年1661年に王弟オルレアン公フィリップ1世との結婚のためフォンテーヌブロー宮廷(Chateau de Fontainebleau)にイングランドから輿入れしてきたアンリエット・ダングルテール王女(妃:Henrietta Anne Stuart(仏Henriette d'Angleterre)1644-1670/6/30)の女官に任命されました。夫人と同い年のアンリエット妃はマダム(Madame、実家ではミネッテ(Minette)子猫ちゃん)と呼ばれて若く魅力的な女性で、義兄ルイ14世と親しい関係になって噂になりました。そこで王とマダムは2人が会う現場を他人に悟られないように王が宮廷の外へ出かけ、マダムは選んだ3人の若い女官たちを王の行く方にいるようにしました。この女官の1人が17才の夫人でした。最初、夫人はルイ14世とアンリエット妃との危険な関係から周囲の注意をそらすためにいるも、夫人はフォンテーヌブローの宮廷に2ヵ月間いただけでロイヤル・ミストレス(Royal Mistress:王の愛人)になりました。王は「非常に美しい肌、ブロンドの髪、青い目、甘い笑顔、表情は柔らかで穏やかだった17才の純真で信仰が篤い汚れなき夫人」に一目惚れしたと言われています。嫉妬深くなった王は、側近の重臣が夫人に賄賂を贈って横恋慕して奪おうとしていると勘違いして追い出したとか、王がアンリエット妃が側近の重臣と関係しているのではと夫人に問いただすと、夫人は王に話すことを拒んで、敬虔な少女の良心を苦しめカルメル修道会(monte Carmelo)シャイヨ女子修道院(Chaillot Convent, Paris)聖マリー・ド・シャイヨ修道院(convent of Saint Marie de Chaillot)へ逃れました。ルイ14世は夫人を迎えに行って連れ戻しました。夫人を嫌っていたマザラン枢機卿の姪ソワソン伯爵夫人オリンピア・マンシーニは王妃マリー・ドートリッシュ妃の耳に、ルイ14世と夫人の関係を教えて夫人を追い出そうとしたりしました。1663年に夫人は最初の懐妊でアンリエット妃女官から外されてルーヴル宮殿北隣パレ・ロワイヤル(Palais-Royal)に預けられました。夫人が宮廷へ戻った1666/1/20に、王妃マリー・テレーズと並んでアンヌ・ドートリッシュ王太后のミサに出席し、公妾として認知されました。1666/5月に女児を出産し、ルイ14世が認知してブロワ令嬢マリー・アンヌと名づけられ、夫人もラ・ヴァリエール女公爵(Duchesse de La Valliere)の称号)を授けられてヴォージュール領地(Vaujours Estate)を与えられました。1667年に身重になった夫人はモンテスパン侯爵夫人の命で化粧係になって王のそば近くにいるも、耐えきれずに宮廷から出ようと、1671年シャイヨのサント・マリー修道院(Saint Marie de Chaillot)へ行くも許されず戻りました。1674年には戒律が厳しいことで知られ、後にノートルダム・デ・シャン(Notre-Dame-des-Champs)となったカルメル会修道院フォーブール・サン=ジャック修道院(Faubourg Saint-Jacques, Carmelite convent, Paris)への入門を許され、尼僧ルイーズ・デ・ラ・ミゼリコルド(Louise de la Misericorde)となりました。モンテスパン侯爵夫人は、夫人の修道院入りを阻止しようとしてスカロン夫人マントノン侯爵夫人)を彼女の元に送って、カルメル会修道院で予想される苦痛について十分に熟考したのか夫人に尋ねさせたと伝わっています。晩年、ルイ14世の寵愛を失ったモンテスパン侯爵夫人は夫人の元へ出かけ、敬虔な生活をおくる上での助言を求めると、夫人は彼女を許し、神の恵みの神秘について助言しました。36年間の信仰生活の後、ヴァリエール夫人は1710年に没して修道院の墓地に埋葬されました。ルイ14世の愛妾としての暮らしで得たラ・ヴァリエール女公爵の称号は、遺産として娘マリー・アンヌが継承。

ルイ14世との間に5人が誕生:〜1男1女の2人が成人
・シャルル(Charles, 1663-1665)夭折
・フィリップ(Philippe, 1665-1665)夭折
・氏名不詳(1666)出生後急死
・マリー・アンヌ・デ・ブルボン〜(Marie Anne de Bourbon, 1666-1739)72才没、
  夫コンティ公ルイ・アルマン1世(Louis Armand I, Prince of Conti, 1661-1685)天然痘, 24才没
・ルイ・ド・ブルボン〜(1667/10/2-1683)初陣の軍事遠征で16才没。

参考HP:〜
フランスの地図

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・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.4/5/27(2022)

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