大航海物語 | 大航海時代 と 奴隷貿易
奴 隷 貿 易 1807/3/25 イギリスで奴隷貿易禁止法が制定される |
資料編 |
黒人奴隷の三角貿易 ヨーロッパ〜アフリカ〜新大陸(アメリカ) |
奴隷の貿易船 |
黒人奴隷の船積み |
エルミナ城 |
カーボヴェルデ 2006 発行
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REPUBLIQUE TOGOLAISE ゴレ島・デストリーズ要塞 セネガルのゴレ島で奴隷を船積み 世界遺産条約(Convention du Patrimoine mondial)シリーズ トーゴ 1984 発行 |
Peru (Don Ramon Castilla) 奴隷狩の様子 Sesquicentenario de la abolicion del tributo indigena y de la esclavitud 1854 ペルーの奴隷解放150年記念 2004 ペルー 2004 発行 |
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奴隷船とクサリ | 三角貿易の地図 | |
資本主義と奴隷制 | ル|ヴ ェルチ ュ|ル |
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トリニダード・トバゴ 1984/10/22 発行・小型シート |
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BARBADOS 奴隷貿易 1807 奴隷貿易廃止条約200年記念 2007 バルバトス 2007 発行 |
Liberia 奴隷船の積荷の奴隷 2000年紀記念 リベリア 2000 発行 |
▼黒人奴隷貿易のあらまし 黒人奴隷は大航海時代(15世紀中頃から17世紀中頃まで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの海外進出の時代)に、主にヨーロッパとアフリカとアメリカを結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民(黒人)を対象として展開され、新世界でのプランテーション経営に必要な労働力となりました。これは3つの大陸を結んだので大西洋三角貿易と呼ばれています。供給源となったアフリカが西欧諸国を中心とした世界経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能しましたが、アフリカ地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かいました。その後人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスで奴隷貿易は禁止され、その後、各国も禁止しました。 アメリカ独立戦争(1775- 1783)の当初はアメリカ大陸軍には海軍が無く、民間の船でイギリス船を襲撃しました。それは大陸軍から免許証を与えられた私掠船でプライヴェイティア(Privateer)と呼んで、海賊船のパイレーツ(Pirates)と区別されました。船長達は商船を襲って、積み荷の黒人奴隷を奪い、新大陸北アメリカ南部(ルイジアナなど)での綿栽培プランテーションの労働力として、ニューオーリンズでオークション(競売)にかけられて、プランテーション(綿農場)へと売られて行きました。 ▼奴隷貿易の歴史 ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易は、1441年にポルトガルのアンタン・ゴンサルベスが、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガル皇太子に献上したことに始まるとされていますが、この場合は「黒人」ではなくアラブの「ベルベル人」だったと伝えられています。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されていて、これらの人々は全てベルベル人で黒人ではありませんでした。しかし、ベルベル人の黒人従者や奴隷の黒人も一緒に連れていかれて奴隷市で売られましたので、この数の中には黒人も入っていると思われます。なお、1482年にポルトガルは貿易拠点をゴールド・コースト(現ガーナ)のエルミナに建設しました。 ●黒人奴隷の貿易 大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却しました。
・カネム帝国(Kanem Empire, 700〜1376)、チャド及びリビア南部一帯を支配した王国 ・ボルヌ帝国(1396〜1893)、ニジェール東部一帯を支配した王国 参考地図HP〜 ・マリ帝国 ・マリ共和国 ・ソンガイ帝国 ・ニジェール川 ・ガーナ内陸部 ・ナイジェリア ・コンゴ王国 ・カネム帝国 ・ニジェール。 奴隷を集めて、ヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人で、「奴隷狩り」から「奴隷貿易」への転換(シフト)は、1450年代に起こっているとされています。1450年代に入ると、セネガル、ベナンなどのギニア湾岸、コンゴなどの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになりました。16世紀には、カリブ海地域のスペイン領向けとしてポルトガルの独占下で、奴隷を売ってもらえないイギリスの「冒険商人」による「奴隷狩り」が散発的に行われましたが、その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞・商館・収容所兼用の拠点を置き、現地勢力と取引して奴隷を集めて、それを船に渡すと言う形式のみとなりました。 そして時代が下るにつれて、ワイダ、ダホメ、セネガル、ガンビアなど西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになりました。売られた人々は、もともと奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などでしたが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われました。「奴隷貿易はアフリカ人が始めたことではなく、アフリカ人もその一翼を担いましたが、アフリカ人が売り込んだのが先か、ポルトガル人が買いに行ったのが先か」ははっきりしていません。 18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された銃器その他の製品をアフリカにもたらし、原住民と交換、さらにこうして得た黒人を西インド諸島に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展。約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡って大航海したアフリカ原住民は1,500万人以上といわれています。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった(1969年のフィリップ・D・カーティンの説では900〜1100万人で、死亡率が平均13%、なお奴隷船の船員の死亡率は20-25%)、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、と言うのがその説の根拠。ただし、カーティンの説には、一次記録が存在しない16-17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎると言う批判も有。 ●奴隷貿易の禁止 奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教的および人道主義の立場から批判が起こっていましたが、特に18世紀後半以降、宗教的・人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情が合致。19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、イギリスは1807年に世界に先駆けて奴隷貿易禁止を打ち出し、アフリカ沿岸に多数の軍艦を配置して奴隷貿易を取り締まり、ナイジェリアのラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧しました。なお、イギリスが奴隷貿易の中心である西アフリカ、東アフリカの沿岸地帯の植民地化を始めたのは19世紀半ば以降でした。 ●奴隷制の禁止 その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていきました。イギリス領諸島では1833年、スウェーデン属領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止されました。こうした動きの中、アメリカ合衆国ではリンカーン大統領の登場で、南北戦争(1861/4/12〜1865/4/9)での連邦軍の勝利によるリンカーン大統領の奴隷解放宣言(1862/9/22、第2次宣言は1863/1/1)で奴隷制は全廃されました(注:この時は南部だけだったらしい、アメリカ合衆国全体で法的に奴隷制が廃止されたのは、1865年の合衆国憲法第13修正条項が承認された時なのだ)。
大西洋三角貿易の地図 ◎欧州、西アフリカ、西インド・北米の三角貿易(奴隷貿易) 大西洋三角貿易:〜砂糖・銃・奴隷の三角貿易: 三角形の頂点にあたる地域は、ヨーロッパ・西アフリカ・西インド諸島の3地域。辺にあたる貿易ルートはヨーロッパの船による一方通行となっており、また、特定の海流に乗っている。 ・カナリア海流:ヨーロッパ → 繊維製品・ラム酒・武器 → 西アフリカ ・南赤道海流:西アフリカ → 奴隷(“黒い積み荷”) → 西インド諸島など ・メキシコ湾流・北大西洋海流:西インド諸島など→ 砂糖・綿(“白い積み荷”) → ヨーロッパ 17世紀から18世紀にかけて、イギリスをはじめとするヨーロッパでは喫茶の風習が広まり、砂糖の需要が急激に高まった。それに伴い、砂糖を生産する西インド諸島およびブラジル北東部などでは労働力が必要となった。 こうした状況の下で、ヨーロッパから出帆した船は、カナリア海流に乗って西アフリカへ繊維製品・ラム酒・武器を運んだ。輸出された武器は対立するグループ間へ供与され、捕虜(奴隷)の確保を促すこととなった。それらの品物と交換で得た奴隷を積み込み、南赤道海流に乗って西インド諸島やブラジル(ブラジル南東部へはブラジル海流)へと向かい、交換で砂糖を得て、メキシコ湾流と北大西洋海流に乗って本国へ戻った。こうして、 ・ヨーロッパ→西アフリカ→西インド諸島→ヨーロッパ という航路が成立し、「三角貿易」と言われた。一般には大きな利益が上がったと考えられているが、トリニダート・トバゴの初代首相であるエリック・ウィリアムズが、1944年の研究で示された奴隷貿易の利益率300%と言う見解に基づく誤解と思われ、実際の平均的な利益率は10%-30%だと判明しており、ウィリアムズのあげた数字も1970年代に否定されている。 奴隷の一部はアメリカ合衆国南部へと輸出され、多くは綿花のプランテーションで働かされることとなった。綿花はイギリスの織物工場へ輸出され、産業革命の基盤になったとされている。 ◎英国、北米、西インドの三角貿易 食糧、砂糖、工業製品の三角貿易 17世紀後半から18世紀後半にかけて、アメリカ独立戦争以前のイギリス本国、北米大陸の英領13植民地と、英領西インド諸島における貿易も三角貿易の一類型で、これは、カリブ海沿岸地域の農場主・奴隷のための食糧として北米植民地から農産物や魚(特に塩たら)を西インド諸島へ、西インドからの砂糖や糖蜜はイギリス本国・北米へ、そして、イギリスからは工業製品が北米や西インドへという貿易パターンだった。また、イギリス船に南ヨーロッパ向けのニューファンドランド沖産の塩たら、ボストン港からのとうもろこしを積み込むケースもあった。 ◎英国、インド、清国の三角貿易 茶・アヘン・綿織物の三角貿易 三角形の頂点にあたる地域は、イギリス・インド・清の3つの国。辺にあたる貿易ルートは実際には両方向通行であり、またインドの中継貿易の形をしているため、三角形の形になっていないが、手形の流通によって三角形となっている。主要な取引品目の流れについては、 ・清国 → 茶 → イギリス、(英国の輸入超過による貿易赤字で) 後に、イギリス → アヘン → 清国 ・イギリス → 綿織物 → インド 後に、インド → 銀 → イギリス 19世紀始め頃、イギリスとインドの2国間貿易ではイギリスの貿易黒字、イギリスと清の2国間貿易ではイギリスの貿易赤字が続いていたが、対インド黒字で対清赤字を穴埋め出来ず、国際通貨の地位にあった銀が対価としてイギリスから清に流出していた。ただし、この時期、既に為替手形による国際貿易が成立していたため、手形交換所があるロンドンから直接清に銀が流出していたのではなく、中継貿易地となっていたインドから清へ銀が流出していた(インドの対清赤字)。 事態打開を図るため、インドでアヘンを製造し、清へ密輸する活動が活性化した。こうした政策が推進されたのは、「外国にお金が出て行くと損だ」という重商主義的な見方にイギリスが囚われていたためである。清ではアヘン消費が拡大し、銀はインドの綿製品輸入を経由してイギリスへ渡った。 清はこの取引において大量の銀流出に見舞われ、密輸の取締り強化を図ったが、それがアヘン戦争へとつながることになる。 ◎インド洋三角貿易(二重三角貿易):〜インド洋三角貿易はダウ船によるもので、
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。09/7/25、17/2/14、令和 R.2:2020/12/30 |