Aルイ16世王妃マリー・アントワネット妃(在位 1774/5/10-1792/9/21)
(Marie Antoinette, 1755/11/2-1793/10/16)ギロチン処刑, 34才没
マリー・アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・デ・アプスブール=ロレーヌ
(Marie Antoinette-Josephe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine)
マリー・アントワネット王妃は、フランス国王ルイ16世の王妃。神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire,
800-1806)のフランツ1世(Franz I, 1708-在位1745-1765)とマリア・テレジア皇后(Maria
Teresia,1717-1780/11/29) |
ギロチン
フランス 1959 発行 |
の第15子(第11女)としてウィーンで誕生。1762/10/13に夏離宮シェーンブルン宮殿の鏡の間で皇后の前で御前演奏を行ったモーツァルトと出会ったと伝えられています。フランスとオーストリアの同盟に伴う外交政策の一環で、当時フランス王太子だったルイ16世と1770年に結婚してその即位で、1774年にフランス王妃となりました。パリ南西22kmのイヴリーヌ県ヴェルサイユ(Versailles,
Yvelines departement, Ile-de-France
region)にあるヴェルサイユ宮殿での束縛を嫌い、宮殿の庭園にある離宮の一つでデュ・バリー夫人が |
シェーンブルン宮殿、ウィーン
フランス 1959 発行 |
所有していて、20才のルイ16世が19才の妃に与えたプチトリアノン宮殿(Petit
Trianon)で少数の貴族と過ごすことが多く、オーストリアに対する同調姿勢や、王妃自らベルサイユ宮廷の模範とならなければいけない立場の中でそれを逸脱した行為や言動で、ヴェルサイユでの宮廷生活について王太子妃時代から批判され、保守的な貴族を中心に大きな抵抗勢力が宮廷内に形成されました。1789年にフランス革命が始まり、アントワネット妃は宮廷内で反革命勢力として君主制維持を目的とした諸外国との交渉を行い、特にウィーン宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待するも、ヴェルサイユ行進(1789/10/5)でパリへ連行されたアントワネット妃など国王一家は放置されていたルーヴル宮殿の西側に隣接するテュイルリー宮殿(Tuileries
Palace)に軟禁されました。1792年にフランス革命戦争が勃発して、アントワネット妃のイメージはさらに悪化。同年8/10に王政が廃止され、国王一家はパリで監獄になっていた修道院のタンプル塔(Square
du Temple:後1795/6/8にルイ17世シャルル王太子が亡くなった場所)に収監されました。その後、ルイ16世の裁判が国民公会で行われて死刑判決で1793/1/21に処刑され、アントワネット妃の裁判は革命裁判所で行われて死刑判決で同年10/16に処刑されました。
ルイ16世との間に2男2女の4人が誕生:〜
・マリー・テレーズ・シャルロット〜アングレーム公爵夫人
(Marie-Therese, Duchess of Angouleme, 1778/12/19-1851/10/19)72才没
・ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ〜王太子
(Louis Joseph, Dauphin of France, 1781/10/22-1789/6/4)5才没
・王太子ルイ・シャルル〜ノルマンディー公爵〜ルイ17世、10才没
(Louis XVII, 1785/3/27-牢獄独房1793/7/3-1795/6/8)約2年間革命牢獄タンプル塔で虐待
・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス(革命勃発2年前に結核で夭折)
(Sophie Helena Beatrice of France, 1786/7/29-1787/6/19)。
参考HP:〜
・フランスの地図
をお楽しみください。
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.4/5/22(2022)
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