大航海物語 |
フィニステレ岬の海戦 1805/7/22 Battle of Cape Finisterres |
参考資料 |
GIBRALTAR イギリスの戦列艦 アガメムノン号 ジブラルタル 2007 発行 |
MARSHALL ISLANDS フランスの戦列艦 |
スペインの戦列艦 マーシャル諸島 1998 発行 |
フィニステレ岬の海戦 (1805/7/22) Battle of Cape Finisterre ”フィニステレ岬の海戦”とは:〜 フィニステレ岬の海戦はスペイン北西部ガリシア地方フィニステレ岬の沖で、イギリス艦隊とフランス・スペイン連合艦隊の間で戦われた海戦のことです。ナポレオン戦争(1803-1815)中の第三次対仏大同盟(1805/4/11-1806)の戦いの一部として、ナポレオンのイギリス上陸・侵略を支援するためにイギリス海峡に入ることを企てたフランス・ヴィルヌーヴ提督の艦隊を、カルダー提督指揮のイギリス艦隊が阻止した海戦のことで、フィニステレ岬の海戦と呼ばれています。 なお、この他に、 ”第1次フィニステレ岬の海戦”(First Battle of Cape Finisterre)があって、それは 1747/5/14にオーストリア継承戦争(1740-1748)の一部として、イギリス艦隊とフランス輸送船団によって同海域で戦われた海戦。ジョージ・アンソン提督(Admiral of the Fleet George Anson, 1st Baron Anson PC, FRS, RN 1697-1762)の率いる14隻の戦列艦からなる艦隊が、ド・ラ・ジョンキエール提督(Jacques-Pierre de Taffanel de la Jonquiere 1685-1752)率いる30隻のフランス船団を攻撃した。スペインの北西、フィニステレ岬沖のビスケー湾で5時間にわたって行われた戦いで、イギリスはフランスの戦列艦4隻、フリゲート艦2隻および商船7隻を拿捕。その他の輸送船は戦場海域を脱出。 ”第2次フィニステレ岬の海戦”(Second Battle of Cape Finisterre)もあって、それは 1747/10/25にオーストリア継承戦争の一部として、スペイン北西部のフィニステレ岬沖でイギリスとフランスの間で戦われた海戦。イギリス艦隊はサー・エドワード・ホーク提督(Admiral of the Fleet Edward Hawke, 1st Baron Hawke KB, PC 1705-1781)指揮下の準備の整った14隻の戦列艦からなり、フランス側はデシェルビエ・ド・レタンデュエール提督(Admiral Desherbiers de l'Etenduere)指揮下の8隻の戦列艦に護衛された輸送船団。戦いはフランス船団を待ち受けたイギリス艦隊の決定的な勝利に終わり、以後、戦争の終了までフランス海軍は活動できず。 ”フィニステレ岬の海戦”の背景 ナポレオンが正式にイタリアのピエモンテ(Piemonte)を併合して、1802年の「アミアンの和約」(Treaty of Amiens)は脆くも崩壊しました。1803/5/18にイギリスは再びフランスとの戦いに突入。ナポレオンはイギリスを侵略して征服することで、大陸封鎖を終わらせようと考え、1805年に総勢15万におよぶアルメ・ダングルテール軍団(Armee d'Angleterre、イギリス侵攻軍)をブローニュ(Boulogne)に駐屯させました。この軍隊がイギリス海峡を渡ることができれば、訓練も装備も十分でないイギリス陸軍や民兵を打ち破ることはいとたやすいと想定。その計画は、まずフランス海軍がイギリスに封鎖されているトゥーロン港(Toulon)とブレスト港(Brest)から脱出して大西洋を超えて、西インド諸島に迫ってイギリス艦隊を西方航路の防衛に引き付けることから開始するというものでした。フランス艦隊はマルティニーク島で合流すると直ちにヨーロッパに向けて反転し、手薄になった英仏海峡の警戒を冒してアイルランドに反乱幇助の部隊を上陸させ、またアルメ・ダングルテール軍団をドーバー海峡の対岸に運ぶことになっていました。 提督ヴィルヌーヴ中将(Pierre-Charles-Jean-Baptiste-Silvestre de Villeneuve、1763-1806)艦隊は、11隻の戦列艦と6隻のフリゲート艦、2隻のブリッグ艦で、1805/3/29にトゥーロン港を出帆しました。彼はネルソン提督の封鎖艦隊を避けて4/8にジブラルタル海峡を通過しました。スペインのカディス港でフランス艦隊はイギリスの封鎖艦隊を追い払って6隻のスペイン戦列艦と合流しました。連合艦隊は西インド諸島に向けて出帆し、5/12にマルティニーク島に到着しました。 地中海にいたネルソン提督が追撃しましたが、西風によって足止めされ、ジブラルタル海峡を通過したのは1805/5/7になってからでした。10隻からなるイギリス艦隊は、6/4になって西インド諸島のアンティグア島に到着しました。ヴィルヌーヴ提督はマルティニーク島で提督ガンテューム中将(Count Honore Joseph Antoine Ganteaume (La Ciotat) 1755-1818)の率いるブレスト艦隊を待ちましたが、彼らは封鎖を破ることができず、到着しませんでした。フランス陸軍将校らのイギリス植民地攻撃の要求は(ダイヤモンド・ロック島要塞の奪還を除いて)顧みられることなく、艦隊は6/4にマルティニーク島を出帆しました。6/7に彼らは捕えたイギリス商船から、ネルソン提督がアンティグア島に到着したことを知りました。6/11にヴィルヌーヴ提督は艦隊の合流と陽動というカリブ海での所期の目的をなんら成し遂げることなく、ヨーロッパに向かいました。アンティール諸島で、フランス・スペイン連合艦隊は28門フリゲート艦バルバドス号とスループ艦ネトレイ号に護衛された500万フランの価値があるイギリス船団と遭遇。ヴィルヌーヴ提督はスペイン80門艦アルゴノート号とフランスのフリゲート艦2隻に追跡させ、その全船と護衛艦1隻を拿捕しました。6/30に連合艦隊はイギリスの14門私掠船(Privateer)を捕えて焼き払いました。7/3には、艦隊は1500万フラン相当の財宝を運んでいたスペインのガレオン船マティルダ号を奪還しました。マティルダ号はイギリス・リヴァプールの私掠船マーズ号に捕獲され、イギリスの港に曳航されてゆくところでした。私掠船は焼き払われ、商船はフランスのフリゲート艦シレーヌ号に曳航されて、連合艦隊はヨーロッパへ帰還しました。7/9に北東の強風にフランス艦アンドンタブル号はメンマストの帆桁を失い、また他の船にも損害が出ました。11回も大西洋を横断したスペインのグラヴィナ提督によると、この大西洋横断は非常に困難なものであり、そのため、一部の艦は万全な状態に無く、乗組員は疲弊し、食料は欠乏していたと記録。連合艦隊は7/22にフィニステレ岬の近くで陸地を初認しました。 戦闘の経過:〜 フランス艦隊帰還の知らせは、7/19にイギリスのカルダー中将(Vice-Admiral Sir Robert Calder, 1st Baronet、1745-1818)艦隊に届き、フランスのロシュフォール港(Rochefort)とスペインのフェロル港(Ferrol)の封鎖を中止し、ヴィルヌーヴ連合艦隊を迎え撃つためにフィニステレ岬に進出するよう命令を受けました。両艦隊は、7/22の11時頃に互いを視認。南西方向に機動すること数時間、17時15分頃にイギリス艦隊の前衛にいたヒーロー号(アラン・ハイド・ガードナー艦長、Alan Hyde Gardner, KCB, 2nd Baron Gardner 1770-1815)がフランス・スペイン連合艦隊の戦列に突入することで戦闘が開始されました。視界の悪い中、戦いは乱戦となり、20時頃にスペイン艦フィルメ号とサン・ラファエル号が降伏。カルダー提督は翌日の継戦を期して20時25分に戦闘中止の信号旗を掲げました。闇と混乱の中、数隻はさらに1時間ほど戦闘を継続しました。 7/23の夜明け、両艦隊は27km隔たっていました。カルダー提督は優勢な敵に再び攻撃を仕掛けることを望みませんでした。彼は損害を受けたウィンザー・カースル号とマルタ号を護衛しなければならず、またロシュフォール港とフェロル港で封鎖していた艦隊が海に出てヴィルヌーヴの艦隊と合流する可能性も考慮する必要がありました。そのため彼は攻撃を取りやめ、拿捕艦とともに自国イギリスへ進路を向けました。ヴィルヌーヴ提督はその報告の中で、最初は攻撃する方針であったと述べていますが、風がイギリス艦隊に近づくのに丸一日かかるほど微かであったため、遅くなってからの戦闘のリスクを避けたものであると報告しています。7/24には風が変わってフランス・スペイン連合艦隊が風上となり、攻撃には理想的な位置となりましたが、ヴィルヌーヴ提督は攻撃する代わりに敵に背を向けて南に向かいました。彼は、ア・コルーニャに到着した8/1に直ちにブレスト港とブローニュ港に進出せよとのナポレオンの命令を受けました。しかし、おそらく「ビスケー湾に優勢なイギリス艦隊あり」という誤報を信じたことにより、彼は8/21にカディス港に戻ってしまいました。 戦闘後:〜 海戦の結果はフランスの敗北でした。15隻のイギリス艦隊は20隻のフランス・スペイン連合艦隊と戦い、2隻のスペイン艦を捕獲。イギリスの損失は、将兵の戦死39人、負傷159人でしたのに対し、フランス・スペイン側の死傷者は476人に達しました。最も重要なことは、ヴィルヌーヴ提督はそのすべての目的に失敗したということなのです。彼はアイルランドに軍隊を上陸させることができず、ナポレオンのアルメ・ダングルテール軍団もなすところなくブローニュで待機し続けました。だが、イギリスの民衆と海軍本部はこの海戦をそのようには見ず、カルダー提督は司令官を解任され、軍法会議に掛けられて、7/23と24日の行動について怠慢のかどで厳しい譴責を受けました。彼は二度と海上勤務に就くことはありませんでした。結果に失望したナポレオンは、イギリス侵略の計画を断念せざるを得ませんでした。その代わり、アルメ・ダングルテール軍団はグランダルメ軍団(Grande Armee、大陸軍)と名を変え、8/27にオーストリアとロシアの脅威に対処するためにブローニュを出発しました。ヴィルヌーヴ提督とその連合艦隊はそのままカディスに留まり、同年10/21のトラファルガーの海戦で壊滅することになるのでした。 ・フィニステレ岬の海戦:(1805/7/22):〜両軍の艦隊編制
(HMS Prince of Wales 98-gun 2,024tns 2nd rate ship of the line): カルダー提督の旗艦、2等戦列艦、98門、戦死3・傷20〜舵破損 ・ドラゴン号(HMS Dragon):74門、戦死0・傷4 ・グローリー号(HMS Glory):98門、戦死1・傷1 サー・チャールズ・スターリング少将旗艦、 (Vice Admiral Sir Charles Stirling 1760-1833) ・ウィンザー・キャッスル号(HMS Windsor Castle):98門、 戦死10・傷35、フォアマストおよびメンマスト破損 ・ウォーリア号(HMS Warrior):74門、戦死0・傷0・右舷座礁 ・サンダラー号(HMS Thunderer):74門、戦死7・傷11・ミズンマスト破損 ・マルタ号(HMS Malta):80門、戦死5・傷40・全マスト破損 (フリゲート艦:Frigate、2隻) ・エジプシェンヌ号(HMS Egyptienne):フリゲート艦 ・シリアス号(HMS Sirius):フリゲート艦 ・小型艦2隻 ・ナイル号(HMS Nile、ラガー船:lugger) ・フリスク号(HMS Frisk、カッター船:cutter) ・フランス・スペイン連合艦隊:〜 死傷 476 捕虜(スペイン) 800 拿捕(スペイン) 2隻
・テリブル号(Terrible):74門、戦死1・傷7 ・フィルメ号(Firme):74門、戦死35・傷60〜全マスト喪失〜拿捕 ・アルゴノータ号(Argonauta):80門、戦死6・傷5〜フォアマスト&ミズンマスト喪失
・ビュサントール号(Bucentaure):80門、ヴィルヌーヴ提督旗艦、戦死5・傷5 ・フォルミダブル号(Formidable):80門、デュマノワール少将旗艦、戦死6・傷8 (Vice-Admiral Count Pierre-Etienne-Rene-Marie Dumanoir Le Pelley (Granville 1770-1829) ・アントレピード号(Intrepide):74門、戦死7・傷9 ・シピオン号(Scipion):74門、戦死0・傷0 ・スウィフトシュア号(Swiftsure):74門、戦死0・傷0 ・アンドンタブル号(Indomptable):80門、戦死1・傷1 ・エーグル号(Aigle):74門、戦死6・傷0 ・アキレ号(Achille):74門、戦死0・傷0 ・アルジェシラス号(Algesiras):74門、マゴン少将旗艦、戦死0・傷0 (Rear-Admiral Charles Rene Magon de Medine 1763-1805) ・エイジャックス号の装備:〜 HMS Ajax、1798
参考HP:〜 ・フィニステレ岬の場所地図 ・参考:〜 ・栄光の6月1日海戦 (1794/6/1) ・サン・ビセンテ岬の海戦(1797/2/14) ・グロワ島の海戦 (1795/6/23) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/9/18、11/12/11 |