United Kingdom 国連 1983 発行 |
切手で綴る 海戦大航海(Naval Battle Voyages) ジョージ・ロドニー提督 1782 セインツの海戦、勝利 |
大航海物語 イギリス編★ |
POLYNESE FRANCAISE 帆船の海戦図 (セインツの海戦)
ポリネシア 1976 発行 |
Saint Lucia ロドニー提督 と グラス提督 セントルシア 1982/4/13 発行 |
ANTIGUA ロド二ー提督と英戦艦”フォーミタブル号” HMS Formidable アンチグア 1970/8/19 発行 |
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イギリス&フランスの艦隊 |
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1782 セインツの海戦200年記念 1982 セントルシア 1982/4/13 発行 |
イングランド生まれのロドニー提督は13才で海に出て、1762年の「マルティニークの戦い」でフォート・ロイアル包囲攻撃に勝利し、1780年「サン・ビセンテ岬の月光の海戦」でスペインのランガラ提督艦隊を撃破、1782年「セインツの海戦」でフランスのグラス提督艦隊に勝利などで目覚しい活躍をし、1782/8月に63才で故国イギリスに帰って国中から大歓迎を受け、男爵となってロンドンで静かな余生を送りました。 |
提督ジョージ・ブリッジス・ロドニー、初代ロドニー子爵 (1719/2/13〜1792/5/24) Admiral George Brydges Rodney, 1st Baron Rodney, RN(naval officer), KB(バス勲爵士) ・年 表:生涯リスト ・従 軍:従軍の海戦歴 ・ルイスバーグの戦い ・スペイン護送船団との遭遇戦 ・仏ル・アーヴル襲撃 ロドニー提督はイングランドのサリー州エルムブリッジ・ウォルトン町(Walton-On-Thames 、Elmbridge district、Surrey county、England)で生まれました。家族はサマーセット州のロドニー・ストーク町(Rodney Stoke, Somerset county、England)に住んでいました。父親はピーターバラ伯爵のもとでスペインに従軍して1713年解散した海兵隊で大尉として退役。ロドニー提督はハーロー校(Harrow School)に寄宿、1732/6/21に志願兵で少尉候補生(warrant、volunteer)としてサンダーランド号(Sunderland)に乗組みました。地中海艦隊(Mediterranean station)でドルフィン号(HMS Dolphin、20-gun sixth-rate,Frigates)乗組み中の1739/2/15に海軍大尉(lieutenant)に昇進。プリマス号(HMS Plymouth 、60-gun fourth rate ship)乗組み中の1739/11/9に海軍大佐(post-captain)。1747/10/14にはイーグル号(HMS Eagle 58-gun fourth rate ship of the line、1130t)艦長となり、フィニステレ岬はスペイン北東端のフィニステレ岬沖での「第二次フィニステレ岬の海戦、1747/10/25」で、ホーク提督艦隊に所属して、フランス艦隊に勝利し、勇猛果敢さを発揮して最初の栄冠勲章を勝ち取りました。 1749/5/9に代将(Commodore)に昇進、ニューファウンドランドの第16代総督(Governor 1749-1749)での艦隊司令官に任命され、主にイギリスの漁業権益の確保に努めましました。1751年コーンウォール州サルタッシュ町(Saltash、Cornwall, England)選出の国会議会議員(MP、Members of Parliament)に選ばれ、1752年にコンプトン伯爵(Charles Compton, 7th Earl of Northampton 1737-1763)の姉ジェーン・コンプトン(Jane Compton, 1730-1757)と最初の結婚。7年戦争(Seven Years' War 1756-1763)の1757年にフランスのシャラント・マリティーム県ロシュフォールで戦列艦ダブリン号(HMS Dublin was a 74-gun third rate ship of the line、1562t)に乗艦して活躍。 1758年にボスコーウェン提督の下でカナダのケープブレトン島での「ルイスバーグの戦い」を闘い勝利。1759/5/19に海軍少将(rear-admiral)に昇進した直後に、イギリス海岸侵略のために仏ル・アーヴル(Le Havre、northwest region France, 1759)に終結していたフランス艦隊などをロドニー小艦隊が2昼夜に渡って艦砲射撃で撃破して、イギリス海岸侵略を阻止しました。 ロドニー艦隊の構成:〜(詳細) ・60門戦列艦アキリーズ号(旗艦)、50門戦列艦4隻、フリゲート艦5隻、スループ艦1隻、爆弾ケッチ艦6隻。 1760/7には小艦隊でフランスのディエップ(Dieppe、Seine-Maritime departmen、Haute-Normandie region、France)を封鎖して多数の平底船を捕獲しました。 1761年にコーンウォールのペンリンから下院議員(Penryn、MP)に選ばれました。 1761/10にカリブ海のリーワード諸島基地司令官(Leeward Islands station)となり大西洋を横断してドミニカ島の艦隊基地に渡り、1762/1〜3はマルティニーク作戦(British expedition against Martinique)を指揮して勝利しました。マルティニーク作戦は、1762/1/5にロドニー艦隊に支援されたイギリス軍がフランスのマルチニーク島首都フォート・ロイアル(Fort Royal)を攻撃して「マルチニークの戦い」が起こり、イギリス軍がフォート・ロイアルを囲んで、海からは艦砲射撃。2/3にフォート・ロイアル降伏。さらにセントルシア島の首都カストリーズとグレナダ島を攻略しました。パリ和平条約(Treaty of Paris 1763)で終結しました。 1763年に平和が戻りイギリスへ帰国して青色艦隊中将(Vice-Admiral of the Blue、中将では3番目の階級)となり、議会から感謝の勲章を授与されました。1764年に準男爵(baronet)、同じ年にリスボンのジョン・クリーズの令嬢ヘンリエッタ(Henrietta、daughter of John Clies of Lisbon)と2度目の結婚をしました。1765〜1770は名誉職のグリニッジ海軍病院の院長(Greenwich Hospital in London)。1768年の議会解散のときに莫大な費用を掛けてノーサンプトンの議席を獲得。1771年ジャマイカ島派遣艦隊(Jamaica station 1771-1774)総司令官となり、平和な時期だったので海軍基地の改良に携わりました。大ブリテン海軍中将(Vice-Admiral of Great Britain=Vice-Admiral of the United Kingdom)名誉職を受領。ロドニー提督はジャマイカの総督になれなかったことに失望を感じて職を退き、選挙費用の借金でイギリスへ帰国できずフランスへ渡りパリに住み、流行の先端を行く社交界での贅沢な浪費で財産を使い果たし、大ブリテン海軍少将の給料も確保できませんでした。1778/2月に白色艦隊の大将(大将では2番目)に昇進。パリの友人である仏陸軍元帥バイロン公爵(ルイ・アントワーヌ・デ・ゴントー=バイロン:Marshal Louis Antoine de Gontaut-Biron, duc de Biron, 1700-1788)が借金を肩代わりしてくれるなどによってなんとか財政の問題を片付け、子供達を連れて5月までにロンドンに帰国。負債は帰還の時に未払い分給与から返済しました。
西インド諸島では、1780/4/17にフランスのグッシェン提督とマルティニーク島沖で戦った「マルティニーク島の海戦」が起こりましたが、ロドニーの部下の艦長の命令誤解のせいで決着は着きませんでした。ロドニー提督がその年の早くにオランダ参戦(第四次英蘭戦争)の報を聞いていて、1781/2/3に戦時禁制品の大きな保管場所(そこはオランダ領で中立国貿易の大きな貨物集散地)であったセント・ユースタティウス島を占領。ロドニー提督は戦利品の確保と売却を独り占めし、新しく着任した副将フッド提督にも係わらせなかったとして告発され、しかもそれらの多くはイギリス商人のものだったので、金の掛かる一連の訴訟に巻き込まれました。 1781/8に健康を害して帰国していたロドニー提督に代わって、指揮を取っていた副司令官フッド提督は劣勢の艦隊を率いながら、セントクリストファー・ネイビス島のバセテール(Basseterre)を根拠地としてフランス艦隊と何度も戦いました。フランスの次の目標はスペインと連合してジャマイカ島を攻撃することでした。ロドニー提督が援軍を連れてイギリスから戻り、1782/4/9にフランス艦隊と遭遇して追跡し、1782/4/12のドミニカ島沖でのセインツの海戦でイギリス艦隊35隻でグラス提督のフランス艦隊33隻を撃破し、決定的な勝利を勝ち取りました。この重要な戦闘の結果ジャマイカ島は守備されフランスの優位は失われ、これ以後、西インド諸島では特別な作戦行動はありませんでした。 ロドニー提督は1782/8に故国に帰還し、国中から絶大な賞賛を受けました。その前の1782/6/19の勅許でサマセット州ロドニー・ストーク(Rodney Stoke parish, Somerset county, South West England region, England)のロドニー男爵となっており、イギリスの議会は投票によってロドニーに年2,000ポンドの年金を与えることを決定。その後、ロンドンで静かな余生を送り73才で亡くなりました。男爵位は息子のジョージ(1753-1802)に受け継がれ現在も続いています。 08/9/29 |
・ロドニー提督の略年表:〜
・ロドニー提督の従軍略年表:〜
・フォーミダブル号の装備:〜 HMS Formidable、1777
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1779年にアメリカ独立戦争に突入したスペインの主要な目標の1つは、1704年にイギリスに奪われていたジブラルタルの回復でした。その結果、それはスペインが、イギリスのジブラルタルの駐屯軍を封鎖して飢えさせてのジブラルタル奪還計画でした。包囲は1779/6月に開始され、スペインはロック周辺の土地を封鎖しました。海上封鎖は比較的弱く、イギリスは小型高速船が封鎖を回避できるのに対し、低速で大型の補給船は回避できないことを発見しました。しかし、1779年後半までに、ジブラルタルの物資は深刻に枯渇し、初代ヒースフィールド男爵エリオット将軍(General George Augustus Eliott, 1st Baron Heathfield, KB, PC,1717-1790)はロンドンに救援を求めました。イギリスで補給船団が組織され、1779/12月下旬にロドニー提督の大規模な艦隊がイギリスから出帆しました。ロドニー提督の最終目的地は西インド諸島でしたが、ロドニー提督は最初にジブラルタルとバレアレス諸島北東部メノルカに補給する密命を受けていました。 ・海戦 サン・ヴィセンテ岬1月8日海戦は、1779/12月下旬にイギリスを出帆したロドニー艦隊は、 1/4に西インド諸島行きのイギリス輸送船団を護衛するフリゲート艦隊(frigates Fleet) ・戦列艦ヘクター号艦長ジョンハミルトン卿(HMS Hector, Capt. Sir John Hamilton)、旗艦 ・フリゲート艦フェニックス号艦長パーカー大尉(HMS Phoenix, Capt. Hyde Parker,1739-1807) ・フリゲート艦隊アンドロメダ号ブリン艦長(HMS Andromeda, Capt. H. Bryne) ・フリゲート艦隊グレイハウンド号ディクソン艦長(HMS Greyhound, Capt. William Dickson) を分離して別れました。 翌日の1/5にロドニー艦隊は、スペインのバスク州ギプスコア県サン・セバスティアン(San Sebastian, Guipuzcoa, Basque, Spain)からカディスに向かうスペインの護送船団22隻に遭遇。銅板張り(Copper sheathing)のロドニー艦隊は速度が速くてスペイン船団を追跡して追いつき、商船の輸送船1隻を取り逃がしたものの、その他21隻の護送船団全体を捕獲しました。カディスのスペイン艦隊とロイヤル・カラカス・カンパニーの輸送梱包品積載の輸送船は、HMSアメリカ号とHMSパール号に護衛させてイギリスに送り返しました。 ・その後 ロドニー艦隊はスペイン船団の積載していた食料をジブラルタルのイギリス軍へ輸送して救援しました。ロドニー提督は捕獲したスペイン艦隊の旗艦64門戦列艦ギプスコアナ号を、皇太子ウィリアム王子(ウィリアム4世 (William IV, (William Henry)、1765-在位:1830-1837)の婚約式典に列席したのに敬意を表して、プリンス・ウィリアム号(HMS Prince William)と改名しました。 ・イギリス・スペイン艦隊の編成:〜
・サフレン提督 切手コレクションの ・イギリス皇太子ご成婚 ・切手で綴る 東海道五十三次 ・全米50州(アメリカ) ・世界で1番美しい 蝶々 世界遺産の ・富士山 (日本) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・ピラミッド (エジプト) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/7/7、 令和 R.4/2/13(2022) |