★アメリカ
イングラハム船長
1791
ポリネシアのワシントン島を発見

大航海物語★
Polynesie Francaise
ワシントン島とホープ号
北部マルケサス諸島のワシントン諸島
1791 インガハム船長のワシントン諸島(Washington、Ua Huka)発見215年記念 2006

Discovered by Capt.Ingraham of the Brig Hope of Boston,1791
ポリネシア 2006 発行

アメリカのイングラハム船長はアメリカ独立革命の時には虜囚の憂き目にあい、その後にアメリカ海軍の士官になりました。独立後はボストン毛皮貿易船の船長となって航海中に、太平洋ポリネシア・マルケサス諸島の島々を発見しました。
ジョセフ・イングラハム (1762〜1800)
 Joseph Ingraham

イングラハム船長は米国の独立革命の時に、イギリスの捕虜となりましたが、その後の戦時中は、アメリカ海軍の捕虜船に乗組んでいましたが、一時期は貿易船に乗組みました。私掠船戦争(Quasi-War:1798-1800擬似戦争、またはアメリカ合衆国と大革命後フランスとの宣戦布告なき戦争:Undeclared War with France、海賊戦争:The Pirate Wars)が開戦すると、合衆国海軍に復帰して従軍し、1799/6/14の海軍大尉という最期の記録が残っています。

1787年に25才でヴェテランの船乗りになっていたイングラハムは、45才のケンドリック船長(John Kendrick 1740-1794)の毛皮取引(fur trade)船コロンビア号(Columbia Rediviva 、213 tons、full rigged ship)に航海長(1等航海士)で乗組みました。そこには、クック船長の第3回航海レゾリューション号に乗組んでいた老いたるウッドラフ(Simeon Woodruff)と、19才のハスウェル(Robert Haswell、1768-1801)など50人が居ました。僚船は32才のグレイ船長(Robert Gray 1755-1806)のレディ・ワシントン号(Lady Washington)でした。

イングラハム船長の大航海:第1回:1787〜1790:コロンビア号
1787/10/01〜ボストン港(Boston)出帆
1787/10/09〜ケープ・ヴェルデ(Iles du Cap Vert)
1787/12/21〜同港を出帆
1788/02/16〜フォークランド(Iles Malouines)
1788/02/28〜同港を出帆
1788/04/01〜ホーン岬を周り、僚船とはぐれて太平洋へ
?      〜ファンフェルナンデス島(Archipel Juan Fernandez:iles de Robinson Crusoe)
?      〜マルケサス諸島(Iles Marquises)
?      〜ハワイ諸島(Hawaii)
?      〜ヴァンクーヴァー島(Achat des fourrures : iles de la Reine Charlotte, ile Vancouver)
1788/10/01〜冬になったので、マルビナス湾の同港に停泊して越冬、ヌトカ・サウンド寄航
1788/06/24〜同港を出帆、
?      〜クィーン・シャーロッテ島北部のハイダ港到着、原住民と紛争発生
?      〜マカオ港(Macao)
1790年   〜ボストン港(Boston)帰港。

1787/10/1にボストンを出帆。11/9ケープ・ヴェルデ着、ここでウッドラフがケンドリック船長と対立して下船。スペイン人の計らいでマデイラへ送ってもらい、そこから便船でアメリカへ戻り、コネチカット(Connecticut)で余生を送ったと伝えられています。

ケンドリック船長は12/21に航海を続け、1788/2/16にフォークランドのブレッツ港(Brett's Harbor)に到着。2/28に出帆、マゼラン海峡の代わりに遠回りのホーン岬周りへと航海、4/1に両船は嵐で離れ離れになりました。太平洋に出てからは北上し、ファンフェルナンデス島に着き、2人が死亡、その他に壊血病の患者が出ました。コロンビア号は航海を続け、ヴァンクーヴァー島西岸ヌートカ北方のマルビナス湾に到着。1788/10/1から冬期間中は滞在しました。

レディ・ワシントン号のグレイ船長とマルビナス湾で再会しました。ここでケンドリック船長と衝突していたハスウェルが、グレイ船長の取り計らいでレディ・ワシントン号へ乗換えとなりました。グレイ船長は1789/5に毛皮取引に出帆。ケンドリック船長は1789/6/24に出帆。6月の終わりにヴァンクーヴァー島から、クィーン・シャーロッテ島(カナダ、ブリティッシュコロンビア州の太平洋岸沖)へ行き、北部のハイダ族酋長コヤー(Haida a chief, Coyah)と毛皮取引をしました。ところが数着の衣服が船から無くなり、それがもとで酋長と対立し、銃火を交える騒ぎとなりました。ケンドリック船長が2年後にそこに行った時には、さらにひどくなり、砲撃までしての戦いとなりました。






イングラハム船長の大航海
1790/9/16〜1793
第2回航海でワシントン諸島を発見

ワシントン島と先住民ポリネシアン

ポリネシア 2006 発行
FIJI
太平洋と世界地図


フィジー 1977/4/12 発行

イングラハム船長の大航海:第2回:1790〜1793:ブリグ船ホープ号
1790/09/16〜ボストン港(Boston)出帆
?      〜ケープ・ヴェルデ(Cape Vert Islands)
?      〜フォークランド(Falkland Islands)
1791/01/26〜ホーン岬を周り、太平洋へ
1791/03/09〜フェルナンデス島(デスベントゥラダス諸島:islands of St. Ambrose and Felix説有)着
1791/04/14〜マルケサス諸島(Dominica Island、Port Madre de Dios、9° 58' S)着
1791/04/19〜海図に載っていないワシントン諸島を発見
?      〜ハワイ諸島(Hawaii)
?      〜ヴァンクーヴァー島(Queen Charlotte Islands, Vancouver Island)
1792/09/26〜コロンビア号と小型の僚船アドヴェンチャー号に出会う
1792/09/27〜スペイン船隊と一緒に同港を出帆、スペイン船隊はヌトカ・サウンド
?      〜夏季の間はヴァンクーヴァー島付近の原住民と毛皮取引
?      〜マカオ港(Macao)
1793年   〜ボストン港(Boston)帰港。

1790/9/16にイングラハム船長は、ボストンの冒険事業主パーキンス(George Perkins)氏の投機事業船ブリッグ型ホープ号(Brig Hope)に乗船し、毛皮取引のためボストン港を出帆しました。1791/1/26にホーン岬を回航して、4/14にマルケサス諸島の(Port Madre de Dios)到着。1791/4/19に海図に載っていない島々を赤道の南で発見して、大統領(George Washington1732-1799)に因んで主島をワシントン島(Washington Island)、副大統領(John Adams 1735-1826)に因んでアダムス島(Adams Island)、そしてフェデラル島(Federal Island)、フランクリン(Benjamin Franklin 1706-1790)でフランクリン島(Franklin Island)、マサチュセッツ州知事(John Hancock 1737-1793、Massachusetts)でハンコック島(Hancock Island)、ボストン出で最初の合衆国陸軍長官ノックス(Henry Knox 1750-1806)でノックス島(Knox Island)、リンカーン(Benjamin Lincoln 1733-1810)でリンカーン島(Lincoln Island)と次々にと名付けました。これらの島々を以下の記録通りに海図に記録しました。キロスクックブーゲンビルの海図に無かった島が見えた場所の、
詳細な記録:〜南緯:度分、西経:度分
・Washington's 8°52' S 、  140°19' W 〜4/19;4:PM、望見
・Adams's    9°20' S 、  140°54' W 〜4/19;5:PM、望見
・Lincoln's     9°24' S 、  140°54' W 〜上記2島の間から望見した小島
・Federal's    8°55' S 、  140°60' W 〜上記2島の間から望見した小島
・Franklin's    8°45' S、   140°49' W 〜4/20;6:AM、望見
・Hancock's   8°03' S、   141°14'W 〜4/21、望見
・Knox's     8° 05' S、   141°18'W 〜4/21、望見

そしてハワイ(Sandwich Islands)北方から、北米海岸のクィーン・シャーロッテ島へと航海を続けました。到着すると原住民と毛皮取引(加工していない鞣革、fur pelts)を夏期の間中取引しましたが大した利益にはなりませんでした。その後、1792/9/26に以前に乗組んでいたコロンビア号が小型の僚船アドヴェンチャー号(Adventure)を随伴してきました。コロンビア号にはかつて乗組み船の船長ロバート・グレイ船長で、アドヴェンチャー号はロバート・ハスウェルが船長をしており、共々に再会を喜びました。そこへ、ヴァンクーヴァー島ヌトカからスペイン船プリンセサ号(Princesa)とアクティヴァ号(Activa )がきました。スペイン船隊はボデガ・イ・クァドラ司令官が指揮しており、小型の僚船アドヴェンチャー号はそのクァドラ司令官に売却されました。

1792/9/27にホープ号は、スペイン船プリンセサ号とアクティヴァ号と共に出帆し、さらに北方のファンデフカ海峡(Strait of Juan de Fuca)の北出口にあるフラッタリー岬(Cape Flattery、Washington)ネア湾(Neah Bay, Washington)に到着しました。スペイン船隊はスペイン北米北西海岸のスペインの前哨基地ヌトカへと向かいました。ホープ号のイングラハム船長は夏の間には原住民と毛皮取引(加工していない鞣革、fur pelts)を取引し、ハワイから、台湾(Formosa、Taiwan)を経て、中国本土を経由、マラッカ海峡からインド洋に入り、喜望峰から、大西洋を横断して、ボストンに帰港しました。毛皮取引きは大した利益にはならず失敗だったと伝えられています。
ヌトカ・サウンド
Nootka Sound


スペイン 1976/3/1 発行

私掠船戦争(Quasi-War:1798-1800擬似戦争、またはアメリカ合衆国と大革命後フランスとの宣戦布告なき戦争:Undeclared War with France、海賊戦争:The Pirate Wars)の期間中はフランス私掠船とアメリカ海軍艦船に乗船して、1799/6/14まで従軍して戦いました。イングラハム船長の最期は、合衆国第2代陸軍長官ピッカリング(Timothy Pickering 1745-1829)に因んで名付けられたトップ・スクーナー(topsail schooner)型の2本マスト帆船ピッカリング号(USS Pickering 1798)が1800/9/10にボストン港を西インド諸島交易で出帆し、8/20にニューカッスル港(Newcastle, Delaware)を出帆したのを最期に、消息不明となり、かの有名な9月の嵐(a gale September)で遭難して、船と運命を共にしたんだろうと伝えられています。

北部マルケサス諸島
・エイアオ島(Eiao、8s:140.7w)〜1791年に米のイングラハム船長が発見
・ウアフカ島(Ua Huka、8.54s:139.33w)〜1791年イングラハム船長が発見、ワシントン諸島と命名

参考HP:〜
ハワイ諸島
クィーン・シャーロッテ島
仏領ポリネシア諸島
タヒチ観光局公式サイト

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     08/12/12
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