Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-11
オレリャ−ナ
1542
アマゾン河縦漕

大航海物語
 スペイン編

ESPANA
オレリャーナ

スペイン 1961 発行

ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・ガレオン船
Spanish Galeon


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行
ECUADOR
南アメリカの地図

エクアドル 1961/2/27 発行

BRASIL
アマゾン河(青)

TRANS AMAZONICA
アマゾン縦貫道路(赤)の完成記念・2枚ペアの地図切手
ブラジル 1971/7/1 発行

オレリャーナのアマゾン河探検

ブラジル 1991/10/12 発行


オレリャ−ナはアンデス山脈を越えてシナモンを探しに行く探検に加わり、アマゾン河をくだりきって、1542年最初のアマゾン河縦漕者となりました。生涯に3回の大西洋横断航海をなし、アマゾン河のマナウス付近で、過労で亡くなりました。

フランシスコ・ド・オレリャ−ナ
 Francisco de Orelliana (1511頃〜1546)
  生地:スペインのカエストレマドゥーラ州カセレス県トルヒーリョ生
  没地:アマゾン河のマナウス付近で35才病没
  肩書: 探検家(エクスプローラー)、征服者(コンキスタドール)、アマゾン河の縦漕者
      (Explorer, Cconquistador, Colonial settlement founder of Fort Asuncion)
オレリャ−ナはインカ帝国(ペルー)征服者のピサロ兄弟の縁者で、スペイン南西部エストレマドウラ地方カセレス県トルヒーリョで生まれ、10代で新世界へと渡りました。

1532年のフランシコ・ピサロのインカ征服戦(カハマルカでのアタワルパ攻撃戦)に参加して片目(21才頃)を失いました。1538年のクスコに近いラスサリーナスの戦いではエルナンド・ピサロと共に戦い、相手のアルマグロは捕えられて処刑されました。この後、ペルー北部方面に向かいエクアドルの港町グァヤギルを1539年初に建設しました。

1541年フランシスコ・ピサロからアンデス山脈の東にあると噂されている肉桂(ニッキ・シナモン)の産地探検を命ぜられたゴンザロ・ピサロがスペイン人350人とインデイオ4,000人からなる大掛かりな探検隊を組織し、オレリャ−ナは副官として参加しました。一行はアマゾン河の支流ナポ川までは熱帯の密林や湿地帯や原住民の襲撃に難渋しながらも進みましたが、そこで食料がなくなり、オレリャ−ナは60人ほどの部下を連れて食料探しに急ごしらえの小船で出かけました。オレリャ−ナは友好的なアマゾン原住民から食料を手に入れたのに戻らず、ゴンザロを裏切ったとされています。ゴンザロは人員の大部分を失い、1542/6初めに僅かな生き残りと共にキトーに帰り着きましたが、兄のフランシスコはペルーのリマで暗殺されており、兄の権益を相続することとなりました。

一方、オレリャ−ナは川の規模の大きさから必ず海に出ると考え、そのまま川を下りきって大西洋に出ました。川を下る間、一行はしばしば原住民の襲撃を受けましたが、その中に男よりも勇敢に戦う女に出会いました。この女たちは肌の色が白くて背の高い10人力の奮戦をする勇敢な女戦士だったので、これこそギリシャ神話に登場する女戦士アマゾネスであると考え、この地をアマゾンと命名したと言われています。
オレリャーナのアマゾン河探検

大西洋に出た一行はベネズエラのグバグァ島(Cubagua Island)に向かい、1542/9月初めに島に着き、1542/9/11にキューバに到着しました。一行の大半はペルーへ戻りましたが、オレリャ−ナはサント・ドミンゴからトリニダード島ポルトガルをへてスペインへと帰りました。スペインに戻った彼は国王から、当時「ヌエバ・アンダルシア」と呼ばれていたブラジルのアマゾン河南岸一帯を探検・統治する権限を与えられました。1545/5/11彼はスペインで結婚した妻と共に南スペインのアンダルシア地方カディス県サンルーカル・デ・パラメダ港から数隻の船を率いて出帆しました。アマゾン河をさかのぼる困難な旅の途中で多くの部下や船や装備を失い、彼自身もついに力尽き、マナウス付近で過労のため病没しました。35才頃のことでした。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2010/10/20追記、令和7年2025/2/20
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