★インカ
インカ帝国皇帝
アタワルパ
1533、スペイン人に処刑される
インカ帝国、最後の皇帝


大航海物語★
Peru
皇帝アタワルパ

ATAHUALPA INCAXIV
金の杖”タパク・ヤウリ”を持つ
ペルー 2004/6/30 発行

皇帝アタワルパ (1502頃〜1533/8/29)
  Atahualpa
、在位:1532〜1533/8/29
   英:Atahualpa、ケチュア語:Atawallpa=幸福な鶏
   インカ帝国の第13代サパ・インカ(Sapa Inca:皇帝)
   誕生の地:キトー(Quito、Ecuador)
   終焉の地:クスコ(Cusco、Peru)
アタワルパはエクアドルのキトー(Quito)を帝都とするインカ(北部)の皇帝でしたが、父帝は11代インカ皇帝ワイナ・カパックが伝染病の天然痘マラリア説有)で亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位して、インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)となりました(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル:1571-1572/9/24)。
身代金として帝国全土から
集められた黄金製品の例


ペルー 1966/8/16 発行

父帝ワイナ・カパックは自らの母の出身地のキトーを愛し帝国第2の帝都としたので、晩年にはインカ貴族が首都クスコ派と、キト派に分かれて対立しました。父帝の死後、本来の皇太子であったニナン・クヨチが間もなく父と同じ病気で没すると、帝国はワスカルとアタワルパ、2人の兄弟の間で分割され、ワスカルは帝都クスコを含む帝国の大半(コヤ・スウユ、アンティ・スウユ、クンティ・スウユ)を、アタワルパは第2の帝都キトーを含む北部(チンチャ・スウユ)を得ました。2〜3年の間は彼らが平穏に分割支配するも、ワスカルはワイナ・カパックとその妹で正妻との間の子でしたので、自らが正統なサパ・インカ(皇帝)であると考え、アタワルパに自分への忠誠を誓うよう要求しました。それをアタワルパが拒否したことから内戦が開始されました。帝国の大半を押さえたワスカルは大軍と共に北に侵攻し、間もなくアタワルパを捕らえ、キトーに幽閉しました。

ところがアタワルパは少女の助けで脱走して、チャルクチマク将軍(Chalcuchimac, 1533年カハマルカ没)、キズキズ将軍(Quizquiz、1535年マライカラ付近没か)、ルミニャウイ将軍(Ruminahui, 1535/6/25第1次チンボラソ山付近没か)と合流しました。アタワルパは兵を集め、チンボラソの戦いでワスカルを撃破。そしてワスカル側についたことを理由にトゥメバンバの町の住民を皆殺しにして、キパイパンの戦いで内戦は終結し、ワスカルは武装解除されハウハに捕らえられました。

アタワルパは皇位請求のためキトーを出発して、ワマチューコ(Huamachuco, Peru)で自らのインカ皇帝就任を宣言しました。その後、クスコに南下する途中で、8万人ともいうインカ兵と共にアンデス山中の温泉のある街カハマルカで戦傷を癒しながら休息しました。その頃までに皇帝アタワルパはインカの伝令網チャスキで、外国人(スペイン人)の侵入者が上陸して近づいてくることを知らされていました。スペイン人のコンキスタドール(征服者)フランシスコ・ピサロが1532/7月にペルー最初の植民都市ピウラ(an Miguel de Piura)を建設。ピサロ一行は2ヵ月の行軍の後に、兵168人と共にカハマルカに到着。そしてスペイン人の駐留に関して皇帝アタワルパと会談するため、エルナンド・デ・ソト、ビセンテ・デ・バルベルデ神父及び現地人通訳フェリピージョ(Felipillo)をアタワルパの元へ送りました。ピサロの使者を謁見した皇帝アタワルパは200人足らずの少数部隊の外国人からの謁見申し込みだと思って、スペイン人をカハマルカに招待しました。 チャスキ
スペイン  1966 発行
1532/11/15にピサロ一行スペイン人部隊168人が皇帝アタワルパの招待を受け、カハマルカ盆
地に入り、翌11/16のカハマルカの戦いで 丸腰の皇帝衛兵と側近に大砲と鉄砲を打ち掛け、剣で斬殺して、アタワルパを捕らえて「太陽の神殿」に幽閉しました。囚われのアタワルパは身代金として、大部屋1杯の黄金と2杯の銀を、ピサロに提供すると命乞いしました。黄金と銀はインカ全土からインカの道路網で集められて提供されました。ところが、1533/8/29にピサロは約束を破ってアタワルパを処刑しました。それは、形ばかりの裁判で火あぶりの刑と判決されるも、インカの宗教では「焼死した魂は転生できない」とされていたため、アタワルパはこの判決に恐怖し、バルベルデ神父が「キリスト教への改宗に同意するなら判決文を変更するように働きかける」と話したので、皇帝は洗礼を受けることに同意し、洗礼名フランシスコ・アタワルパ(Francisco Atahualpa)を与え カハマルカのスペイン風大寺院

ペルー 1988 発行
られ、キリスト教徒に改宗した皇帝の要求に従い、火炙りの刑に代えて鉄環絞首刑(ガローテ)で処刑され、遺体は一部焼かれた上でキリスト教の方式により埋葬されました。

支払われた黄金は縦5.2m、横6.7m、高さ2.7mの「身代金の部屋」一杯で、現在価値約1,220億円(2.4トン×1,000,000g×@5,087円)だったとの説が有ります。なお、アタワルパが実の兄であるワスカルを殺害したと難癖をつけたり、ルミニャウイ将軍がインカ帝国キトー守備隊に保有する兵がスペイン兵をはるかに上回る数であったため、その差し迫っている攻撃を恐れて処刑したともいわれています。サパ・インカの帝位は、彼の死後、傀儡皇帝トゥパック・ワルパに、その後別の弟であるマンコ・インカ・ユパンキ(マンコ2世)に引き継がれるも、実質的な権威と権力を持った皇帝ではアタワルパが最後のインカ皇帝でした。また、黄金は6.1トン説もあって、それだと現在価値は約3,103億円となりますね(@_@)

こちらで、
・インカ帝国の始祖マンコ・カパック(マンコ1世)
・インカ最初の皇帝パチャクテク
・インカ10代の皇帝トゥパック・ユパンキ(太平洋探検航海)
・インカの名目皇帝マンコ2世
を、お楽しみください。

参考HP:〜
インカ帝国の場所地図(インカ道路網)
ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有)
”Salvador Puig Antich” 〜 残酷なガローテという死刑の場面なので注意してください。
 (スペイン映画(YouTube:ス語)「サルバドールの朝」のガローテという縛首の処刑場面)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/3/9
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止