Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海(Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-2
アルマグロ
1533、インカ皇帝アタワルパを処刑
1534、チリ遠征


大航海物語
 スペイン編

ESPANA
アルマグロ

スペイン 1961 発行

ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・ガレオン船
Spanish Galleon


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行
ECUADOR
南アメリカの地図

エクアドル 1961/2/27 発行

Correo Aereo CHILE
チリの場所地図





ロータリークラブのサンチャゴ会議記念
(チリの航空郵便切手)

チリ 1960/12/1 発行

アルマグロはピサロと共に1533年インカ帝国皇帝アタワルパを処刑し、インカ帝国を征服しました。チリ遠征に出かけた後、クスコを占領してピサロと戦い敗れ、捕えられました。生涯に1回の大西洋横断航海をなしペルーで処刑されました。

ディエゴ・ド・アルマグロ
 Diego de Almagro (1474〜1538)
アルマグロは捨て子で、生まれはスペイン中南部カスティーリャ=ラ・マンチャ州シウダ−ドレアール市近くにあるアルマグロと言われています。40才まで兵隊だったらしいという以外の経歴は不明です。1514年パナマ南部のダリエン地方に総督として赴くペドロ・アリアス・ド・ダビラの船隊で新世界に渡り、1514年7月にイスパニョーラ島コンキスタドール(征服者)として到着しました。

1524年”南の海の向こうの黄金卿”の真偽を確かめるべく、フランシスコ・ピサロとパナマ司教代理エルナンド・ルーケと盟約を結び、ルーケの奔走で資金を調達して、探検調査を行いました。まずピサロが1524年末に出港し、数ヵ月後アルマグロも出港しました。彼はコロンビアのブエナベントーラ港近くまで南下後に戻ってきました。その後ガスパル・ド・エスピノーサから資金の提供を得て、1526年に再び船を用意して二手に分かれて調査しました。アルマグロが先に戻りましたが、ピサロは難渋しながらもインカ帝国の町トゥンペスに行き着いていました。その後、ピサロはスペインに帰り、国王からインカ征服の認可を貰ってきました。ピサロが国王の許可を独り占めにしたとアルマグロは怒りましたが、一応協力関係を保ちました。

1530年ピサロのインカ遠征出帆に遅れること3年後に、アルマグロはカハマルカで合流し、1533年のインカ帝国アタワルパ皇帝の処刑(1533/7/26)にはアルマグロもその名を連ねました。その後ピサロ軍と共にインカの帝都クスコに進撃し、1533/11/15占領しました。インカ征服後のペルーはピサロ兄弟の支配下にあり、その命によりグアテマラのリオバンバを占領しました。ここでグアテマラからペルーの財宝を狙ってやってきたアルバラドと出会い、アルマグロはピサロとアルバラドとの調停役を引き受け、ピサロが出した10万ペソをアルバラドに渡し、アルバラドはペルーを去りました。

1534/12/6にペルーのラ・リベルター県トルヒーリョ郡トルヒーリョ市(Trujillo)を建設し、ピサロの故郷の村に因んでヴィラ・トルヒーリョ(Villa Trujillo)と名付けました。

その後(1534年)、アルマグロは一ヵ国を狙ってチリ遠征へと出かけました。大変な難渋の後チリ中部のコキンボに着きました。そこでスペイン国王が新たな領土分割を行うとの情報に接し、ペルーへと引き返しました。この時ペルーではピサロがインカの反乱を制圧し終えており、アルマグロは反乱軍残党をクスコから追い払い、そこを占領しピてサロの支配に挑戦しました。

アバンカイの戦いではピサロ軍を破ったものの、クスコに近いラスサリナスの戦いには敗れ、エルナンド・ピサロの捕虜となり、1538年7月に国王に対する反逆罪のかどで処刑されました。62才でした。

なお、アルマグロの子供のアルマグロ・エル・モゾは反ピサロ勢力の先頭にたち、1541/6/26フランシコ・ピサロを暗殺しました。その翌年にはモゾはピサロ派により処刑されました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     14/5/16追記
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