Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-18
副王トレド
1571
インカ帝国滅亡

大航海物語
 スペイン編

ESPANA
ドン・フランシスコ・ド・トレド副王

スペイン 1964 発行

ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・ガレオン船
Spanish Galeon


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行
ECUADOR
南アメリカの地図

エクアドル 1961/2/27 発行

トレドはスペインの植民地行政官として混乱状態の続く植民地ペルーへ第5代副王として赴き、数々の業績をあげ改革を成し遂げました。1571年インカ帝国最後の帝王「トゥパク・アマル2世」を処刑し、インカ帝国を滅亡させました。生涯に2回の大西洋横断航海をなし、スペインでで亡くなりました。

ドン・フランシスコ・ド・トレド副王
 Don Francisco Alvarez de Toledo(1515/7/10〜1582/4/21、副王在位1569〜1581)
  生地:スペインのカスティーリャ・ラ・マンチャ州(#8)トレド県オロペサ、オロペサ城生
   (Oropesa Castle, Oropesa, Toledo, Castile-La Mancha, Spain)
  没地:スペインのカスティーリャ・ラ・マンチャ州トレド県エスカローナ、69才没
   (Escalona, Toledo, Castile-La Mancha, Spain)
  肩書:ペルー副王、征服者(コンキスタドール)、植民地の居住地建設者
   (Viceroy of Peru, Cconquistador, Colonial settlement founder)
トレドはカスティーリャ・ラ・マンチャ州のオロベサ城でスペインの有名な貴族トレド家に生まれました。フェリペ2世のお気に入りの側近の一人として、ヨーロッパや北アフリカのスペイン領で長年軍務に服し、帝国の政務に精通し、その鋭い判断力と疲れを知らぬ行動力が買われ1569年、54才でペルー副王に任命されました。

トレドが大勢の従者を従え絢爛豪華にペルーリマに赴任した頃のペルー副王領は、パナマからチリに至る南アメリカ大陸の西側全域、アンデス山脈東方から密林地帯に至るまで、また南東はボリビアを越えてアルゼンチンにまで及んでいました。当時のペルーはスペイン人同士(ピサロ4兄弟派と反対勢力)の抗争で混乱しており、またインカ帝国の残党がクスコ北方の密林地帯に潜み、先祖の土地を奪ったスペイン人の隊商が街道を往来すると急襲し、散在して暮していたスペイン人植民者を攻撃したりして混乱状態にありました。

リマに到着したトレドは国王から与えられた権限により植民地の改革に取り掛かり精力的に実行してゆきました。1570年末には植民に関する情報を直接入手しようと”ビシタ”(視察旅行)に出かけ、5年に渡って5,000マイル(約8,000km)を踏査したといわれています。そして副王トレドの三大政策として伝えられている事業を精力的に実施しました。

(1)まず、鉱物資源の増産。ワンカベリカ水銀鉱山の購入と独占(1570)により、銀鉱石の新しい精錬法である水銀アマルガム精錬法を導入(1574)して、ポトシ銀山などの「銀」の増産に貢献しました。また、銀鉱山を初めとする全鉱山の管理上の規則や運営方法の改善に細心の注意を払って実施した結果、ペルーの鉱物産出量はかなりの増産となりました。1570年に副王トレドはペルーの標高3350mにあるフニン県(#12)ワンカヨ郡ワンカヨ市を建設しました。

(2)次いで原住民であるインデイオ政策に力を注ぎ、それまでスペイン人に反抗していたインカ帝国の末裔で最後の帝王「トゥパク・アマル2世」を1571年捕えて処刑しました。これにより1532年にマンコ2世が抵抗を初めてから40年に渡って続いたスペイン人への抵抗に終止符が打たれ、インカ帝国は完全に滅亡しました。ピサロが1531年ペルーに上陸して41年後のことでした。また1574年にはボリビアのチリグアノ族の鎮圧に自ら数百名の軍隊を率いて出陣しましたが、これは不首尾となりました。しかし、こうした原住民の平定工作の努力はしだいに効果をあげ、スペイン人との主従関係が定着し、インデイオはスペイン人に税金を払い、鉱山や土木事業や個人の使役などに服するようになりました。トレドはインデイオの生活改善や圧迫からの保護に努める一方、彼らから労働と租税を目いっぱい搾り取ろうと、レドウクシオンという新しい町を建設し、散在する集落から彼らをこの町へ移し、彼らの人格をかなり守りました。大規模な人口調査も行い、徴用可能数、租税の額などの確定をし、ミタの諸条件を定めました。インデイオを虐待するスペイン人には処罰も行いました。こうして、ミタ制という原住民の徴用制(1720廃止)のもとで、1570年代中葉以降”ポー時代”と呼ばれた一時代を画しました。

(3)トレドがリマに赴任した当時、堕落の極にあった宗教関係者の改善にも尽くしました。1551年に創設されていた大学は、ドミニコ会の運営のもとで中学校程度にすぎなっかたのを、トレドは会派と切り離し新しい教授陣のもとで再編しました。そしてこの大学は1570年代以降数世紀に亘り名声を得た「サン・マルコス大学」となりました。.その他に、医師免許の認可事業や公衆衛生にも力を注ぎましたし、ペルー、ボリビア、アルゼンチンに多くの町を建設しました。

トレドは不屈、忠実、高潔な臣下として数々の功績を上げて、1581年に12年間におよぶペルー副王の任務を終えて、本国へ召還されて帰国しました。彼は多くの業績をあげたにもかかわらず国王の不興を買って帰国し、そのまま晩年を過ごし69才で亡くなったと伝えられいます。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和6年 2024/12/24追記
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