★ノールウェイ
コンティキ号
1947
ペルーからポリネシアへ大航海

大航海物語★
RF Polynesian Francaise
ポリネシア
ラロイア環礁
タヒチ
コンティキ号

仏領ポリネシア 1972 発行
メキシコ
カヤオ

コンティキ号の大航海 (1947/4/28〜1947/8/7)
 Kon-Tiki

コンティキ号はノルウェーの人類学者、トール・ヘイエルダールらによって建造されたマストとキャビンを持つ大型の筏(いかだ、Raft)のことで、船名はインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名から命名され、インカ帝国を征服した当時のスペイン人たちが描いた図面を元に設計されました。
コン・ティキ号の装備:〜 材料
筏の長さ 13.5m バルサ製の筏
筏の幅 5.4m
バルサの縦 直径60cm
バルサの横 直径30cm
マスト 1本マスト 竹製?
帆の大きさ 4.5mx5.4m
キャビン(小屋) 2.4mx4.2m 竹製
キャビンの屋根 立って歩けないほど低い バナナの葉
・バルサとは:〜
バルサは南米原産の常緑樹で、非常に軽く軟らかい材木で、扱いやすく、薄い木片はカッターナイフなどでも切ることができ、模型飛行機の材料に使用される桐より軽い木で、直径30cm程度の丸太を女性でも担げるくらい軽い。電気冷蔵庫の断熱材や、第2次世界 大戦中には軍用機に多量に使用されました。この漂流時のバルサ材の調達は山奥まで入らなければならないといった苦労があったといわれています。

南太平洋の諸島に住むポリネシア人の起源について南米のインカ文明とポリネシア文明との相似点が多いことから、ポリネシア人の祖先が南米から海を渡って渡来したアメリカ・インディアンだという説がありました。ヘイエルダールらはこの説を立証するため、インカを征服したスペイン人たちが描いた図面を元にして、バルサや松、竹、マングローブ、麻など、古代でも入手が容易な材料のみを用いて一隻の筏を建造。図面に忠実に製作されましたが、航海の終り頃まで機能がわからないパーツもあったとヘイエルダールは語りました。例外的に設置された唯一の現代技術の産物は無線機でした。実際の航海によって何の動力も持たない筏が、風と海流に流されてソサエティ諸島などの南太平洋の島々に漂着できる可能性を実証し、ポリネシア人の祖先がアメリカ・インディアンである「可能性」を証明しました。

航海は、 1947/4/28に5人の仲間と1羽のオウムと共にペルーのカヤオ港から漂流実験を開始し、コンティキ号はフンボルト海流を横切るのに、ペルー海軍の軍艦で曳航してもらいました。その後、イースター島を目指して西進し、101日後の1947/8/7にツアモツ諸島のラロイア環礁で座礁しました。航海した距離は約6920km(4,300mils)におよびました。

コンティキ号は現在オスロのコンチキ博物館(Kon-Tiki Museum)に保存展示されています。


参考:〜漂流実験の評価について、大百科事典より
食料に関しては、実験を名目にアメリカ軍から提供された保存食の他は海中から得た。ヘイエルダールは、「インディオの航海技術を立証するのが目的で、我々がインディオになる必要は無い」と述べていて、最初は保存食を用意して航海に望むつもりだったようである。「筏のロープが波で擦り切れる」とか「バルサが水を吸って沈没するはず」など、航海前に出された否定的な意見を見事に覆したことで評判を呼んだ。ただし、建造を急ぐため乾燥していないバルサを使ったのが偶然に吉と出て、乾燥したバルサを使っていれば、海水の吸収が早くて沈没していた可能性があるとヘイエルダールは認めている。

この航海によって、南米からポリネシアへの移住が技術的に不可能ではなかったことが実証されたと一般には思われているが、南米大陸の太平洋側にはフンボルト海流という強力な海流が流れており、風上への航走能力を持たない筏ではフンボルト海流を越えてポリネシアへの貿易風に乗ることは困難である。実際、コンティキ号は軍艦に曳航されてフンボルト海流を越えた海域(陸地からおよそ80km)から漂流実験を開始しており、この点をもって実験航海としての価値はさほど高くないと指摘されている。

現在、人類学者・考古学者・歴史学者・遺伝学者などほとんどの研究者は、考古学・言語学・自然人類学・文化人類学的知見、および遺伝子分析の結果を根拠に、南米からの殖民は無かったとして、ポリネシアへの植民はポリネシア人が考案した風上への航走能力を持つ航海カヌーを用いて、東南アジア島嶼部からメラネシア、西ポリネシア、東ポリネシアという順序で行われたと考えており、風上への航走技術を持たなかった南米の人々が自力でポリネシアに渡った証拠は無いと考えている。

その一方で、本当にフンボルト海流を筏で乗り越えられないかどうかは不明だとしてヘイエルダール説を擁護する意見も存在している。特にコロンブス以前に既に、オセアニア一帯で中南米原産のサツマイモが栽培されていたことから南米からポリネシア方面への文化的影響は皆無ではなかったとする意見である。だが、この点についても南米先住民がポリネシアに航海したと考えるよりは、ポリネシア人が南米大陸に来航してサツマイモを持ち帰ったと考える方が自然であり、現在のところ研究者の大半はそちらの仮説を支持している。また最近になって、カリフォルニア大学バークレー校の言語学者キャサリン・クラーらは、北米先住民チュマッシュ族とポリネシア系言語の語彙比較および出土物の放射性炭素年代測定から、ポリネシア人と北米先住民の文化接触の可能性を指摘した論文をCurrent Anthropology誌とAmerican Antiquity誌に投稿し、いずれの雑誌でも査読者の意見は割れたが、最終的にAmerican Antiquity誌に受領されて2005年7月号に掲載された。ただし、この論文ではポリネシア側からの文化接触の可能性は示唆できても、南米側からの能動的な接触の証拠にはならない。

また、「アステカ文明とエジプト文明との類似」についても、それぞれの文明が発生した年代が離れすぎており、「類似は偶然にすぎない」という説がほぼ主流である。このようにヘイエルダールの学説には否定的見解が優勢であるが、自説を実証するために冒険を行ったヘイエルダールの業績自体は高く評価されている。ポリネシア人の東南アジア起源説を主張する学者たちからも尊敬の対象となっており、例えばこれまで唯一、オリジナルの古代ポリネシアの航海カヌーを発掘するなどの業績を持つ篠遠善彦も彼への敬意を明言している。

参考HP:〜
 ・コンティキ号の公式HP        09/12/26

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止