★インカ
インカ帝国
(1197-1572)
1438〜1533

大航海物語★
Peru
インカ帝国の皇帝 インカの至宝
初代マンコ1世
2代シンチ・ロカ
3代リョケ・ユパンキ
チムー黄金製品
ペルー 1998/7/17 発行

ペルー 1972/1/31 発行

4代マイタ・カパック
5代カパック・ユパンギ
6代インカ・ロカ
7代ヤワル・ワカ
ペルー 1999/6/24 発行

8代ウィラコチャ
9代パチャクテク
10代トゥパック・インカ
チムー黄金製品
ペルー 2002/6/24 発行

ペルー 1972/1/31 発行

11代ワイナ・カパック
12代ワスカル
13代アタワルパ
15代マンコ2世
ペルー 2004/6/30 発行 ペルー 2002/6/24 発行

インカの空中都市マチュピチュ遺跡

1911 マチュピチュ発見75年記念 1986
ペルー 1987/12 発行
スペイン人の来航を知らせた
インカの伝令”チャスキ”

キ|プを持
Chasqui
ペルー 1972/8/21 発行
南アメリカの地図



ペルー
ペルーの 200海里
排他的経済水域を表す地図
ペルー 1983/3/25 発行

インカの土器とインカ道地図
リ マ





チャンチャン


パチャカマック→

イカ→
ナスカ








カハマルカ

←チャヴィン

クスコ

←プカラ





アレキパ



プーノ
1572、インカ帝国滅亡
ペルー 2011 発行 (200%)

インカの至宝・黄金製品
インカの至宝は皇帝アタワルパの身代金として、そのほとんどが失われました。
ここに展示している切手はプレ・インカ出土品で、このような黄金製品が
インカ全土から集められて、それをスペイン人が溶かして金塊にしました。
儀式用・黄金の仮面
儀式用・黄金のナイフ
儀式用・黄金杯
(図案はプレインカ期12-13世紀チムー文化出土品)
ペルー 1966/8/16 発行

インカの食糧
PERU
ジャガイモ

ペルー 1982/12/27 発行
DANMARK
トウモロコシ

デンマーク 1992/5/7 発行
ESPANA
トマト

スペイン 1989 発行

原産地インカの植物
Tuberculos y Raices del Peru
サツマイモ
Ipomoea batatas
アサガオ
Ipomoea purpurea
ジャガイモ
Solananum stenotomum
ペルー 2001/8/24 発行

ANTIGUA & BARBUDA
現地人集落の暮らし(戦いの踊り)道具は石器(図案はカリブ海地方の部族)

アンティグア・バーブーダ 1992 発行 

インカ帝国 (1438〜1533)
  Inca Empire

   スペイン語:Imperio Inca
   正式名称:タワンティン・スウユ (Tawantin Suyu)
   首都:クスコ (Czuco)
   クスコ王国(1197-1438)の歴代皇帝(サパ・インカ、在位):〜
    ・初代マンコ・カパック(Manqu Qhapaq、1197頃-1230頃、マンコ1世
    ・2代シンチ・ロカ (Sinchi Roca、1230頃-1260頃)
    ・3代リョケ・ユパンキ (Lloque Yupanqui、1260頃-1290頃)
    ・4代マイタ・カパック (Mayta Capac、1290頃-1320頃)
    ・5代カパック・ユパンキ (Capac Yupanqui、1320頃-1350頃)
    ・6代インカ・ロカ (Inca Roca、1350頃-1380頃)
    ・7代ヤワル・ワカ (Yahuar Huacac、1380頃-1410頃)
    ・8代ウィラコチャ (Huiracocha、1410頃-1438)
   インカ帝国(1438-1533)の歴代皇帝:〜
    ・9代パチャクテク (Pachacuti、1438-1471)
    ・10代トゥパック・インカ・ユパンキ (Tupac Inca Yupanqui、1471-1493)
    ・11代ワイナ・カパック (Huayna Capac、1493-1527)
    ・12代ワスカル (Huascar、1527-1532)
    ・13代アタワルパ (Atahualpa、1532-1533、最後の皇帝)
   名目上のインカ帝国(1533-1572)の歴代皇帝:〜
    ・14代トゥパック・ワルパ (Tupac Huallpa、1533)
    ・15代マンコ・インカ・ユパンキ (マンコ2世、Manco Inka Yupanqui、1533-1544)
    ・16代サイリ・トゥパック (Sayri Tupac、1545-1560)
    ・17代ティトゥ・クシ (Titu Cusi、1560-1571)
    ・18代トゥパク・アマル (Tupac Amaru、1571-1572/9/24、名目上の最後の皇帝)
インカには文字がなかったので、スペイン人征服者とそれに同行した宣教師達の記録だけが頼りと言われていました。1572年にガンボア船長が「インカ史」を発表していますが、その後の研究で インカ帝国出身のグァマン・ポマ・デ・アヤラが書いた「新しい記録と良き統治」という、1615年に当時のスペイン国王フェリペ3世(Felipe III, 1578-在位1598-1621)に宛てた1000ページ・挿絵500点を超える膨大な書簡で、インカ帝国時代やそれ以前のアンデスの歴史、スペイン人による征服史などの記録と植民政策に対する提言がスペイン語(カスティーリャ語)で書かれたものが発見され、1964年にメキシコの歴史家ミゲル・レオンの「征服の裏側」で紹介されました。また、文字の代わりとしてキープ(Quipu)と呼ばれる「結び縄」による数字表記が存在し、これで暦法や納税などの記録を行いました。このキープが言語情報を含んでいることも解ってきています。

それらの研究で、インカ帝国は南アメリカの現在のペルーエクアドルボリビアチチカカ湖周辺)を中心にケチュア族(Quechua peoples)が作った国でした。前身となるクスコ王国は13世紀にマンコ1世が建国して成立し1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人征服者のコンキスタドールその代表格がピサロ)に滅ぼされるまで続きました。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていました。インカ帝国はアンデス文明(Andean culture)の系統における最後の先住民国家でした。メキシコアステカ文明(Aztecan culture)、グアテマラのマヤ文明(Mayan culture)と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもあります。その場合は巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道 (伝令網チャスキ)を含めた、優れた統治システムなどの面を評価 インカ文明の黄金器

ペルー 1989/12/28 発行
しての呼称です。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれていいます。インカ帝国は被征服民族に比較的自由な自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていました。インカ帝国の正式名称「タワンティン・スウユ(Tawantin Suyu)」はケチュア語で
「四つの邦」という意味で、
・アンティ・スウユ(Anti Suyu、NE)、北東部
 クスコの東側のアマゾン川へ向かって降るアンデス山脈東側斜面
・チンチャイ・スウユ(Chinchay Suyu、NW)、北西部
 クスコの北方の旧チムー王国(Chimor Kingdom:900-1470、首都:チャン・チャン)領や
 エクアドルを含む北海岸地方
・コリャ・スウユ(Qulla Suyu、SE)、南東部
 クスコの南側からチチカカ湖周辺、ボリビア、チリ、アルゼンチンの一部を含む
・クンティ・スウユ(Kunti Suyu、SW)、南西部
 クスコの西側へ広がる太平洋岸までの地域
の4つでした(連邦制説有)。
4つのスウユへは全てクスコから伸びる街道のインカ道路が通じており、インカの宇宙観に基づいて4つの区分を象徴するよう首都のクスコも設計されていました。なお、インカとはケチュア語で王(皇帝)を意味する言葉。スペイン人はこの言葉を初めはケチュア族をさす言葉として使い、次第に国をさす言葉として使うようになりました。インカには様々な創造神話が存在していたのが、グァマン・ポマ書簡集やその挿絵の解読などで解明されました。

・インカ帝国の略年表:〜
8世紀頃、ペルー北部沿岸ラ・レチェ川流域に
       シカン文化(Sican 750-1350)が起る
9世紀後半頃、モチェ川流域トルヒーヨ市周辺に
       チムー王国(Chimu 900-1470)がチャンチャンに起る
11世紀頃、ティティカカ湖沿岸でティワナク文化(Tiwanaku)繁栄(-12世紀)
12世紀頃、ペルー中央海岸地帯(リマ市北方チャンカイ谷)で人型を模した
       素焼きの土器で有名なチャンカイ文化(1100-1450)が起る
       ティワナクの崩壊後、アイマラ族の諸王国が乱立、代表格は
       ティティカカ湖北岸のコリャ(Colla)と、
       ティティカカ湖南西岸のルパカ(Lupaca)
10世紀頃、リマ近郊のルリンにあるパチャカマ神殿を中心とする
       パチャカマ文化が600年頃起って、10世紀頃に繁栄
人型土器

ペルー 1969/12/9 発行
1197年頃、マンコ1世がクスコを王都とするクスコ王国を建国
1230年頃、マンコ1世が亡くなり、2代シンチ・ロカが即位
14世紀頃、チムー王国がシカン国家を併合(地方王国期)
15世紀前半、インカがペルー南部山間部クスコ盆地で急速
       に勢力を拡大して各地を征服、
       インカは北岸のコリャと南西岸のルパカの争いを
       利用して、両者を征服、さらにティティカカ湖南岸
       のパカヘ(Paqaje)なども征服
1440年頃、マチュ・ピチュ建設が始まる(-1532迄存続説有)
1470年頃、ティティカカ湖沿岸を平定するも、この地域には
       特権が与えられる
インカの空中都市”マチュピチュ遺跡
15世紀後半、チムー王国を屈服させ、アンデス一帯に
       広がるインカ帝国が成立
1532年、わずかの兵と火器で、スペイン人コンキスタドール(征服者)のフランシスコ・ピサロ
      インカ帝国を征服する
1533年、インカ最後の皇帝13代アタワルが処刑されてインカ帝国が滅亡。

インカでは優れた建築技術で神殿、要塞を建築し、また、優れた道路を建設しました。峻厳な山脈地帯に広がった国土を維持するため、皇帝は国中の谷に吊り橋を掛け、道路(インカ道)を造りました。その道路は北部のキトからチリ中部のタルカに至るまで5,230kmにも達しました。急峻な地形なので人力もしくは家畜(偶蹄目)によって物資を輸送するしかなく、車輪を用いた運搬手段は発明されませんでした。1トポ(約7km)毎に里程、約19km毎にタンボ(宿駅)が、サパ・インカ(Sapa Inca、ケチュア語:唯一の王)と随行者のために設置されて、チャスキ(伝令・飛脚)が約8km毎に設置され、1日あたり約240kmの割合で緊急連絡をリレーしました。口頭による緊急連絡は、おそらく数に基づく符号を含むキープ(結縄)により補われ、これらはヨーロッパで古くに使用されていた割符と同等の物であった。この道路網は帝国の維持に必要でしたが、皮肉にもスペイン人による征服をより容易にしました。道中には食物の備蓄庫が置 インカの伝令”チャスキ”
キ|プを持
ペルー 1977 発行
かれました。収穫された農作物は税として備蓄庫に徴収され、集められた備蓄食料は惜しみも無く民に放出されました。その結果、インカはその豊満な食料を求めた人達の心を掴んで、僅か3代50年で広大な国土を得ることが出来たのでした。ところが、そのシステムも、スペイン人が食料の補給に困ることなくインカを侵略できた結果となりました。

▼参考:〜
ケチュア族
  Quechua peoples

現在のケチュア族の人達は南米のペルー、エクアドル、ボリビア、チリ、コロンビア、アルゼンチン(Peru, Ecuador, Bolivia, Chile, Colombia, Argentina)に住んでいます。人口はペルー 3,261,750人(2007)、エクアドル 約2,500,000人(2001)、ボリビア 2,281,198人、チリ 約6,000人(2002)などで、合計約10,000,000〜11,000,000人と推定されています。

こちらで
キープ
  Khipu
、(ス:Quipu)をお楽しみください。

インカ内戦の主な戦い(1529-1532)、継承戦争
 ・チロパンパの戦い〜最初の戦い
   Battle of Chillopampa、(1529年、1531年説有)
   於:チロパンパ平原(Chillopampa Plains, Peru)
   ・ワスカル軍:アトック将軍(Atoc)
   ・アタワルパ軍:アタワルパのみで有力将軍はなし
   勝敗:ワスカル軍の勝利、アタワルパが捕われる
 ・ムリハンバトの戦い
   Battle of Mullihambato、(1531)
   於:ムリハンバト川近郷(Mullihambato river, Ecuador)
   ・ワスカル軍:アトック将軍、
   ・アタワルパ軍:アタワルパ、チャルクチマク将軍(Chalkuchimac)と
    キズキズ将軍(Quizquiz)
インカ土器

ペルー 1969/12/9 発行
    勝敗:決着つかず引き分けるも、ワスカル軍の進撃が停止し、アタワルパ軍が攻勢にでる
 ・第1次チンボラソ山の戦い
   1st Battle of Chimborazo、(1529-1531)
   於:チンボラソ山麓(Chimborazo, Ecuador)、カハマルカとトゥメバンバをアタワルパ軍が奪取
   ・ワスカル軍:アトックとハンゴ(Hango)の両将軍は捕虜、
            ウルコ・コラ将軍(Ullco Colla)、トゥメバンバ(Tumipampa)残党軍
   ・アタワルパ軍:アタワルパ、チャルクチマク、キズキズ、ルミニャウイの各将軍
   勝敗:アタワルパ軍の勝利でトゥメバンバの街が破壊され、ワスカル軍は撤退。アタワルパ
      は勝利を確信してカハマルカにて数万の兵と共に滞在、将軍達はワスカルを追撃
 ・トゥメバンバ占領の戦い
   Battle of Capture of Tumebamba、(1531遅くか1532早く)
   於:エクアドル中南部アンデス山脈谷(標高2,500m)アスアイ県々都クエンカ(Cuenca)近郷
   ・ワスカル軍:トパ・アタオ(Topa Atao)将軍
   ・アタワルパ軍:チャルクチマクとキズキズの両将軍
   勝敗:第1次チンボラソ山の戦い後、ワスカル軍が(Cotabambas River)を渡河して南へ退却
      するのをアタワルパ軍が追撃して戦いとなり勝利し、トゥメバンバ占領後、市民を虐殺
 ・ワヌコパンパの戦い
   Battle of Huanucopampa、(1532/1、早く)
   於:ワヌコパンパ平原(Huanucopampa plain、現ワヌコ市(Huanuco, Peru)近郷
   ・ワスカル軍:ワスカルの他、ウアンパ・ユパンキ(Uampa Yupanqui)、チト・アタウチ(Tito
           Atauchi)、トパ・アタオ(Topa Atao)、グアンカ・アウキ(Guanca Auqui)、
           アグア・パンチ(Agua Panti)、パカ・ユパンキ(Paca Yupanqui)の各将軍
   ・アタワルパ軍:チャルクチマクとキズキズの両将軍、トマイ・リマ将軍(Tomay Rima)戦死
   勝敗:アタワルパ軍勝利でトパ・アタオ将軍捕虜となり惨殺されるも、ワスカル軍が撤退成功
 ・キパイパン(キペペ)の戦い〜最後の戦い
   Battle of Quipaipan、(1532/4)
   於:クスコから2kmのキパイパン平原
   ・ワスカル軍はワスカルのみで有力将軍はなく、兵力:弱体化した10,000〜60,000人
   ・アタワルパ軍チャルクチマとキズキズの両将軍、兵力:おそらく30,000人
   勝敗:アタワルパ軍の勝利でワスカル軍が全滅しワスカルは捕虜となり、その後クスコ占領

こちらで、
・インカの神ビラコチャ
・インカ帝国の始祖マンコ・カパック(マンコ1世)
・インカ最初の皇帝パチャクテク
・インカ10代の皇帝トゥパック・ユパンキ(太平洋探検)
・インカ最後の皇帝アタワルパ
・インカの名目皇帝マンコ2世
・インカ書簡集作者グァマン・ポマ・デ・アヤラ(書簡集:新しい記録と良き統治)
・スペイン人のインカ征服の戦い
を、お楽しみください。

▼参考HP:〜
インカ帝国の版図地図(1463-1532)
インカ帝国の版図地図(詳細地図)
インカ帝国の場所地図(インカ道路網)
ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有)
エクアドルの地域別地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/3/4、13/8/20
スタンプ・メイツ
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