ゴンサロ・ピサロ
Gonzalo Pizarro y Alonso (1502-1548/4/10)
カスティーリャ王国エストレマドゥーラ州カセレス県トルヒージョ生、クスコ46才没
(Trujillo、Caceres province、Extremadura region, Kingdom of Castile)
▼初めに
昔々今から500年以上も前にカスティリャ王国のイサベラ王女と隣国のアラゴン王国フェルナンド王子が
1469年に結婚して、1479年に両国は連合して共同統治を行ってスペイン王国を形成しました。そして欧州に唯一つ残っていたイスラム教国のグラナダ王国を滅ぼして、700年以上もの間続いた戦争が終わると、大量の軍人が失業しました。丁度その頃にコロンブスが海の彼方の陸地を発見して生還・帰港してきたので、海の彼方のエルドラード(EL
DORADO:黄金郷)を求めて失業軍人達などが大勢出帆して行き、スペイン全土が海外渡航ブームに沸きかえりました。その中の一人フランシスコ・ピサロが、コロンブスが船出して10年後の、1502/2/13に新大陸インディアス第3代総督ニコラス・ド・オバンドが赴任するため船隊13隻に過去最大規模の入植者2,500人(1/3が女性)を乗せてスペインを出帆した遠征に参加し、西インド諸島イスパニョーラ島へ渡航。 |
新大陸へ航海するスペインの船隊
キューバ 1992 発行 |
1502/4/15に到着しました。オバンドは先任総督ボバディージャ (コロンブスを鉄鎖で本国に強制送還した人物)に捕らえられていたバスチダスを釈放したので、バスチダスは
スペインに帰り、バスチダスと共に航海していたコーサがイサヴェラ女王にウラバー総督(在任:1503-1506)に任命されてウラバー湾の探検・遠征に行きました(1510年同地現地人の毒矢で没)が、同地方の遠征にピサロが、1509/11/10にオヘーダのブリッグ2隻と小型帆船2隻に300人以上が乗船した船隊に参加。イスパニョーラ島サント・ドミンゴ(Santo
Domingo:現ドミニカ共和国)からウラバー湾(Gulf of Uraba)を探検して東岸にサン・セバスチャン居住地(San
Sebastian)を建設後、コロンビアのカルタヘナ(Cartagena)に到着。サント・ドミンゴから救援に来たエンシソの船隊が到着。その中に密航してきたバルボアがいて、ピサロが出会いました。バルボアはウラバー湾東岸のサン・セバスチャンをウラバー湾の西に移すことを提案して新たにダリエン(Santa Maria
la Antigua del Darien Panama)が造られ、そこの裁判官兼市長(ダリエン総督)になり、エンシソをスペインに強制送還しました。1513/9月にバルボアが副隊長ピサロで180人のパナマ遠征隊を組織して出発。現地人インディオの案内でパナマ地峡地帯を陸路で横断し、9/25に海に到達。 |
マラカイボからウラバー湾
ヴ
ェネズエラ |
|
甲冑姿のオヘ|ダ |
ヴェネズエラ 1950 発行 |
バルボアはこの海を南の海(Mar del Sur = South Sea:太平洋)と命名。1513/9/29にリカ島(Isla
Rica、現ペルラス(真珠)諸島:Archipielago
de las Perlas)に航海して上陸、同島滞在中に黄金郷ペルーの情報を得ました。1514/1/19に沢山の財宝を持ってカリブ海岸のサンタ・マリア(Santa Maria)に帰着すると、1514/4/11に22隻に兵2000人でスペインを出帆した新任のダリエン植民地(Castilla
de Oro 1513-1537)総督ペドラリアス・ダヴィラが到着しバルボアは国王からアデランタード(El Adelantado of South Seas:南の海の辺境総督の称号と権限を与えられました。バルボア総督がパナマ遠征の船隊を準備して、ダヴィラ総督の遠征隊でダリエンから戻ったエスピノザが、1515/12月にピサロも船長で、ディエゴ・ド・アルマグロと兵200人と共にダリエンからパナマ遠征へ出発。 |
バルボア南の海(太平洋)発見
クック諸島 1975 発行 |
アルマグロは11月に兵260人で先発してアクラ(Villa del Acla、現:Guna Yala)建設を担当し、バルボアと友好関係を確立。この14ヵ月(1515/12-1517/2)に及ぶパナマ遠征の間に、ピサロとアルマグロ、エルナンド・ド・ルーケは親友になりました。バルボア総督の一行はパナマ湾へ航海後、パナマの侵略・建設・征服をなしてパナマ市(Panama City)を建設(1519)しました。バルボア総督はダヴィラ総督との確執が続き、遂に1519年にダヴィラ総督の命で、反逆罪でピサロに逮捕されました(1519/1処刑)。ピサロはその恩賞でパナマ総督(在任:1519-1523)に指名され、パナマ市でエンコミエンダ領主となりました。
1521年には、コルテスがメキシコのアステカ帝国を征服しました。また、1522年には、ダヴィラ総督と共に19才で渡航してきて、1519年にダヴィラ総督の命で居住者400人にてパナマを建設したパスクアレ・ド・アンダゴヤが、パナマからサンミゲル湾(Golfo de San Miguel)を経てコロンビアのチュチャマ(el Choco)地方のサンフアン川(Rio San Fan)と名付けた川まで探検航海。現地人から東方のビルー国(Biru = Peru)が豊かな「金」を持っており、それはさらに南の大国から供給されているとの話を聞きましたが、病気でビルー探検をせずにパナマに帰港したので、「南の黄金郷」の噂が広まりました。
・ピサロの第1次ビルー(ペルー)探検航海
1524/11/14にピサロは新造船1隻にスペイン人112人と現地人従者、馬4頭で、ダヴィラ総督の許可を取付けた「南の黄金卿」を求めての探検航海へとパナマを出帆しました。逆風に難渋するも70日で100レグア(約557km)ほど南下し「飢えの港」と名付けた所に上陸。そこで乗船をパナマのペルラス諸島に派遣して食糧確保を図るも、往復47日かかり、その間に飢餓のためスペイン人は半数ほどに減少。食糧の補給を受けてさらに航海を続け、コロンビアのカウカ(Cauca)の集落に到着。そこで多くの食糧を見つけるも翌日に住民の襲撃を受け、1525/1月プンタ・ケマーダの戦い(Battle of Punta Quemada)が勃発、負傷21人、内5人が亡くなり撤退、帰途につきました。ペルラス諸島近くに上陸した後、パナマに帰港しました。ピサロが帰る数日前、アルマグロは乗船に70人を乗せてピサロを捜しにパナマを出帆。サン・ファン川付近で上陸調査。さらに南下してカウカ付近で現地人との戦いとなり、アルマグロは片目を失い、多くが負傷。アルマグロは住民を |
ピサロ(兄)の探検航海
パナマ
ペルー 1993/3/19 発行 |
コロンビア
・エクアドル
・ペル| |
|
追い払い集落を焼き払い、帰途につき、ペルラス諸島近くに上陸した後パナマに帰港。こうしてピサロの第1次探検は散々な目にあって失敗に終わりました。(第1次:1524-25)
・ピサロの第2次ビルー(ペルー)探検航海
1526/3/10にピサロ・アルマグロ・ルーケの3人は「南の黄金郷」(ペルー)探検遠征を共同事業として契約を結びました。ダヴィラ総督らが反対するも、アルマグロが頼み込んでなんとか同意を得て、1526/5月にピサロは第一次探検の生き残り50人とアルマグロが集めた110人と共に2隻の船で第2次遠征航海にパナマを出帆し、北緯2度のコロンビアのゴルゴナ島(Gorgona
Island Cauca)を発見しました。今回の航海でも有望な土地が見つからず食糧不足に苦しんだピサロはサン・ファン川に留まり、アルマグロは船を修理して増援の人員を集めるためにパナマへ戻り、パイロット(水先案内)のバルトロメ・ルイスは南下しました。ルイスは赤道を越えて70日後(9/21)にエクアドル北部のエスメラルダ(Esmeraldas
Manabi)付近に上陸し金銀の豊かな集落を幾つか見つけ、サランゴ島(Sarango
Island Ecuador)付近で交易に来ていた船から現地人
3人を捕え(一人は洗礼後フェリピージョ(Felipillo)と名乗り第3次遠征で通訳)と金銀、衣類を収容して戻ってきました。ピサロはアルマグロがパナマから人と馬を乗せて戻り、ルイスが戻ってくると、2隻でサン・ファン川から再び南下を続け、ペルー最北西部ツンベス州トゥンペス(現ツンベス:Tumbes,
Peru)よりさらにペルー中部バルバコ(Barbacoa)まで南下。そこからエクアドル北西部エスメラルダス県アタカメス(Atacames)まで陸路探索した後、コロンビアのガリョ島(Isa
del Gallo)からアタカメスのサン・マテオ湾(bahia
de san mateo)まで進みましたが、その頃には食料
の欠乏や気候のせいで隊員に不穏な動きが見られるようになったので、一端ゴルゴナ島に戻りました。 |
ピサロ13人
リマ建設400年記念
ペルー 1935 発行 |
ピサロに忠誠を誓った13人(trece de la fama)だけがその島に残り、アルマグロと他の隊員はゴルゴナ島発見などの報告と人員の補強をするため、1526/7月に再びパナマに向かいました。アルマグロがパナマに着くとパナマ総督はペドロ・ド・ロス・リオスに代わっていて、新総督リオスはピサロの支援要請を拒否しただけでなく、ピサロの報告を作り話だと思ってペルー征服の禁止を命じました。
ピサロと残った13人は7ヵ月の間ゴルゴナ島に待機するも、アルマグロの船が戻るのを待てずに、支援のないまま1527/2月末に、さらに南を目指して100レグア(約557km)進みペルー海岸トゥンベス到達・上陸し、探検隊のアロンソ・ド・モリーナとギリシャ人ペドロ・デ・カンディアに通訳の現地人フェリピージョを連れてそこの上陸調査をさせました。ピサロはさらに南緯9度のチャンチャン川の南まで南下航海後、大きな豊かな国(インカ帝国)があることを確信してパナマに戻りました。こうしてピサロの第2次探検航海は成果をあげ、ピサロはパナマ総督の反対でスペイン国王の勅許を得るため、スペイン本国に帰国して国王カルロス1世にインカ侵攻計画を献策することになりました。(第2次:1526-27)
▼ゴンサロ・ピサロが新世界へ船出
(ピサロの第3次ビルー探検航海、インカ征服、1529-1531)
1529年にフランシスコ・ピサロがスペインに戻って、スペイン王から「新大陸アメリカ南方の王国を征服する権利と、成功した場合には総督に任命される」との約束を取り付けましたが、アルマグロにはトゥンベスの要塞の所有が認められただけでした。故郷エストレマドゥーラ州カセレス県トルヒージョ(Trujillo
Villa)に戻ったピサロはイタリア戦役を共に闘った同志130人を中心に兵150人を集め、弟ゴンサロ・ピサロと他の兄弟エルナンド(Hernando Pizarro)、フワン(Juan Pizarro)、従兄弟のペドロ(Pedro Pizarro)、マルティン・ド・アルカンタラという人物が、兄フランシスコ・ピサロのインカ帝国征服に協力するべく新大陸へ渡りました。 |
ゴンサロ・ピサロ
エクアドル 1942 発行 |
1530/1月にスペインのサンルーカルデパラメダ港(Sanlucar de Barrameda)をカナリア諸島ゴメラ島(La Gomera in the Canary Islands)へとスペイン人遠征隊180人と馬37頭が3隻の船で、密かに出帆。1530/2月末にコロンビアのサンタ・マルタに到着。現地で待機していたアルマグロは、差別待遇に不満を持ち資産を差し押さえ、ピサロへの援助を拒否するも、3月にピサロの誘いに応じて、ニカラグアからとエルナンド・ド・ソトが2隻の船に奴隷を連れて到着。
これを見たアルマグロはピサロと和解し協力することになりました。新大陸パナマに着いたピサロ兄弟一行は、1530/12/27にフランシスコ・ピサロに率いられてパナマを、南の海の向こうの「黄金卿」ペルーへと出帆。1531/1月にペルー最北西部トゥンペスというインカの町に到着しました。
ピサロ兄弟一行がペルー海岸に上陸した時、エクアドルのキトー(Quito)を帝都とするインカ(北部)皇帝アタワルパが、インカ(南部)皇帝ワスカル軍を打ち破り、アンデス山中の要害の帝都クスコ(Cusco)を陥落させて、インカ帝国の内乱を治め、ペルーのカハマルカに数万の軍勢と共に陣取っていました。 |
インカ皇帝アタワルパ
ペルー 2004/6/30 発行 |
▼インカ征服 (ピサロ兄弟一行)
1531/2/2に、180人の兵と馬37頭を乗せてパナマを出帆した3隻の船がエクアドル北部エスメラルダス川(Esmeraldas
River)河口のサン・マテオ湾(San Mateo Bay)に到着・上陸すると、付近の住民は逃げ去っていました。陸路を進みエクアドルの赤道付近のコアケ(Jama-Coaque,
Manabi Province)という大きな村を襲撃し、金、銀、エメラルドを略奪。エメラルドは宝石として知られていなかったため多くが散逸。ピサロは人員と馬を増援するため、そこで得た金の見本をパナマとニカラグアに船を送って増援を集め、その到着を待ってコアケに滞在しました。やがてニカラグアからエルナンド・ド・ソトの船で増援の兵30人が着き、南へと進軍。途中の首長たちは自発的に訪ねてきました。やがてピサロ一行は対岸のエクアドルのグアヤキル湾プナ島(Puna
Island、Gulf of Guayaquil)という豊かな島にスペイン人遠征隊160人が甲冑にパイク(pike)長槍、大砲、鉄砲(マスケット銃:Musket)、石弓(ボウガン)に馬37頭で武装して上陸。当初はここでも歓迎されました。本土のインカ族にしぶしぶ |
ピサロのインカ征服
スペイン船
ピサロ |
|
インカの街
スペイン人 |
ハンガリー 1992 発行 |
従っていた現地人プナ族は友好的でしたが、スペイン人の非道な扱いに怒った現地人の首長(カシケ)達が
武器を集めて、スペイン人を攻撃する準備をしているとの知らせで、ピサロは村を襲撃しカシケと3人の息子を捕らえました。翌朝住民3000人が石斧・石刀・尖った石の槍・棍棒などで武装し、小さいスペイン人キャンプ場を襲撃し、1531/4月にプンタの戦い(Battle of Puna)が勃発。当初は不意を突かれたスペイン人は散り散りになるも、体勢を立て直したスペイン人が逆襲し、最後には現地人が見たこともない怪獣の「馬」に乗った騎兵隊がソトの指揮で突撃。恐れをなして逃げ去り勝利しました。その後20日に渡ってゲリラ戦が続き、ピサロは捕らえた要人のうち |
インカの武器・石斧など
ピtpケーン 1971 発行 |
数人を火刑、斬首にしました。その他のカシケを釈放し、本土に逃げていた住民を島に戻すようにさせました。やがて現地人は彼ら欧州人が持ち込んだ天然痘(Smallpox)で大幅に人口を減らしました。その後にプナ島を出帆して対岸に上陸。トウンペスへと進軍して、1532/1にペルーのピウラ川流域にピウラ(San
Miguel de Piura)を建設。1532/5/16にトウンペスに到着。港町サン・ミゲル(San
Miguel District, Limal)を建設。体勢を整えたピサロ兄弟一行はインカの街カハマルカへと進軍を開始しました。ピサロの命で弟エルナンドとソトは内陸部の探検のためにスペイン人40人で出発。クスコに通じるインカの道路網を通って |
ピサロの武器・大砲など
セントクリスファー 1970 発行 |
内戦に勝利してインカ兵8万人と共にカハマルカで休息中の皇帝アタワルパに出会いました。そしてピサロとの会見への招待状を貰って、ピサロと合流しました。1532/11/15にピサロがカハマルカに着いて、少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパと会見しました。ピサロ隊の宣教師が皇帝に、スペイン国王に従い、そしてキリスト教に改宗するようにと述べましたが、良く解らない通訳で話が解らず戸惑っている皇帝に、業をにやしたスペイン人が皇帝の随行者を攻撃。皇帝アタワルパを人質として捕え捕虜にして「太陽の神殿」に幽閉しました。
1532/11/16のカハマルカの戦い(Battle of Cajamarca)でスペインの強力な武器や怪獣の「馬」に乗った完全武装にパイク長槍騎兵隊の突撃でインカ人は恐れをなして逃げ去って僅かスペイン兵167人で、インカ兵
8万人を破って勝利。1532/12/20にサン・ミゲルから現地人の使いが来てアルマグロがパナマから120人を乗せてきた船6隻がコアケに着いたことを知らせてきました。1533/4/14にアルマグロ一行はカハマルカに到着。捕えられた皇帝アタワルパは「囚われた部屋一杯の黄金」と「二杯の銀」と引き替えに釈放を嘆願しました。幽閉されていた大部屋一杯分の金(Gold)と二杯分の銀(Silver)がインカ帝国全土から集められたインカの金銀製品で約束通りに支払われましたが、スペイン人は皇帝アタワルパがキリスト教に改宗したので火刑ではなく鉄環絞首刑(ガローテ:Garrote)という絞首刑で、1533/8/29に処
刑しました。支払われた貴重なインカの金銀製品は、スペイン人が溶かして金塊・銀塊にしてしまいました。 |
インカの至宝
儀式用・黄金の仮面
|
それは、クスコからの金がカハマルカに届いたので、1533/3/13からカハマルカで金の溶解が始まりました。溶解が終わった金塊銀塊は上質の金に換算して1,326,539ペソ(約6.1トン)とされています。金1kgは約217.5ペソとなり、溶解に要した費用を除く、残りの5分の1が税金で差引かれ、騎士一人当り8,880ペソの金と362マルコの銀、歩兵一人当り4,440ペソの金と181マルコの銀を基準として分配されて、スペイン人は大金持になりました。
その後、ピサロ軍はアルマグロ軍と共にインカの帝都クスコに進撃。1533/11/15に占領。翌1534年にマンコ・インカ・ユパンキ(Manco
Inka Yupanqui 1516-1544、マンコ2世 Manco Inca II)をクスコで皇帝にして傀儡政権を作り、インカ帝国がスペイン人に征服されました。インカ征服後のペルーはピサロ兄弟の支配となり、その命でアルマグロはエクアドルのチンボラソ州のリオバンバ(San
Pedro de Riobamba、標高2,750m)を占領し、1534/8/15に再建しました。アルマグロとベラルカサールはインカ軍が退却時に破壊した現地人インカの都市キトーを、1534/8月に占領してピサロに因んでサン・フランシスコ・デ・キトー(San
Francisco de Quito)と名付け、ベラルカサールが1534/12/6に再建しました。1534/12/6にアルマグロはペルーのラ・リベルター県トルヒーリョ郡トルヒーリョ市(Trujillo)を建設し、ピサロの故郷の村に因んでヴィラ・トルヒーリョ(Villa
Trujillo)と名付けました。 |
馬上のピサロ(兄)
ペルー 1935 発行 |
インカ帝国を征服したスペイン人のフランシスコ・ピサロらコンキスタドール一行はペルーの太平洋に面したリマク川畔(Rimac
valley)のリマにスペインの街リマ(Lima)を建設開始。1535/1/18に完成してヌエバ・カスティーリャ(Nueva Castilla 1535-1548、以降ペルー副王領(Viceroyalty
of Peru:1542年カルロス1世が創設)で存続)の首都にしました。その間はゴンサロ・ピサロとフアン・ピサロはクスコに留まり、スペイン人の居住地を建設するも、現地人の暴動や反乱が多発。1535/7/3にディエゴ・ド・アルマグロは一ヵ国を狙ってチリ遠征へ出かけ、スペイン人数百人(500人説有) |
スペイン人居住地の街
ペルー 1936/8/27 発行 |
と現地人数千人を連れて南に向かいました。なお、ペルー最初の首都は1534/4/25にハウハ(Jauja
Province, Peru)に置かれました。
一方クスコではピサロが新首都となったリマに行き、アルマグロがチリ方面の探検に出ている間に、クスコを脱出したマンコ2世がインカ軍を10〜20万人も動員してクスコ北のサクサイワマン(Saksaq
Waman)を拠点に、1536/5月に決起してサクサイワマンの戦い(第2次クスコの戦い)が勃発。クスコ、リマなどは圧倒的多数のインカ軍に包囲されるも、8月にはインカ軍は食料が不足して、さらに作物の種まきをする必要で、しかもその間にインカの戦士の多くが天然痘で死亡してクスコの包囲を解き、クスコ北方を流れるウルバンバ川(Rio
Urubamba)近辺のオリャンタイタンボ砦(Ollantaytambo、クスコ北西60kmに有)に退却しました。ピサロの弟エルナンド・ピサロがオリャンタイタンボ砦を攻 |
マンコ2世
ペルー 1896 発行 |
撃するも守りが堅いため、クスコへ退却しました。アルマグロは大変な難渋の後、チリ中部のコキンボ(Coquimbo)に着きました。探検の結果は大失敗で、2500kmもの踏破で多くの犠牲者を出してチリにたどり着いたものの黄金を発見しないまま、そこでスペイン国王が新たな領土分割を行うとの情報に接してペルーへと引き返し、1537年(4月説有)にクスコに帰還しました。
▼インディアスのペルー内戦
アルマグロ父子との対決
クスコではチリ遠征から何の成果もなく戻ったアルマグロがクスコの領有を要求してピサロとの対立が表面化。アルマグロはクスコを包囲してピサロ兄弟と戦い、内戦に発展しゴンサロを捕虜としてクスコを占領しました。そこへ戻ってきたエルナンド・ピサロはアルマグロに捕らえられ、アルマグロは反乱軍残党をクスコから追い払い、そこを占領しピサロが設立したヌエバ・カスティーリャに対抗してヌエバ・トレド(Nueva Toledo 1537-1538)を設立しました。そして、アルマグロはその勢いでオリャンタイタンボ砦を攻撃してオリャンタイタンボの戦いが勃発。マンコ2世は篭城するも結局スペイン軍500人の前に戦わずして、ウルバンバ川下流のビルカバンバ(Vilcabamba)へ撤退しました。アルマグロはクスコ占領の後に、弟ゴンサロを解放するためピサロが送ったアロンソ・ド・アルバラードに率いられたピサロ軍と、1537/7/12にアバンカイの戦いでピサロ軍を破ってアルバラードを捕 |
アルマグロ1世
スペイン 1961 発行 |
えて捕虜にし、11代インカ皇帝ワイナ・カパックの息子パウリュ・トゥパック・ユパンキ(Pawllu
Tupaq Yupanki,?-1549/5)を傀儡皇帝として擁立(皇帝に即位:1537/7月、4月説有)しました。その後まもなくゴンサロとアルバラードは捕虜収容所から逃亡しました。ピサロとアルマグロのその後の交渉により、アルマグロへのクスコの完全な統治権と引き替えに、エルナンドの解放が決定されるも、アルマグロは
病に伏しました。解放されたエルナンドはピサロ兄弟と、1538/4/26にクスコ郊外のラスサリナスの戦いでアルマグロ軍に勝利しました。アルマグロはエルナンド・ピサロの捕虜となり、スペイン王に対する上告の要求を無視されて助命を請うもエルナンドに侮辱され、形ばかりの裁判で、1538/7/8にアルマグロは国王に対する反逆罪のかどで死刑を宣告され、監禁中に斬首(62才)され、その遺体は反逆者としてクスコの大広場に晒されました。
ピサロの命でゴンサロ・ピサロが率いるスペイン軍が、インカのマンコ2世の子ティソ・ユパンギ(Titu Kusi Yupanki、?-在位:1560-1571)を追撃して、1538/9/29にペドロ・ド・アンスレスが現:ボリビア共和国の憲法上の首都(事実上の首都はラパス)のスクレ(Sucre)を建設。1538/11月ゴンサロ軍が、1535/5月アルマグロが遠征したアルト・ペルー(ペルー高地、Alto
Peru)に到達。ユパンギ軍が富士山より高い所に有るチチカカ湖(Lago Titicaca 標高3,812m)周辺のコリャオ高原(コリャオ州:El Collao Province, Peru)を根城に抵抗を続けるので、それを追いゴンサロのスペイン軍がアルト・ペルー一帯に進出。首長アヤビリ(Ayaviri)を撃破。現ボリビアでチャルカス(Charcas)と名付けた所を植民地化し、現ボリビアに相当する地域を征服しました。(1545年ポトシ銀山発見)。 |
チチカカ湖
プーノの遺跡からの眺望
ペルー 1961/9/11 発行 |
▼ペルー奥地の探検(エルドラードを求めてアマゾン河源流域探検)
オレリャーナ
ペルー 1943/2 発行 |
1541年にゴンサロ・ピサロが、兄フランシスコ・ピサロにキトーの総督に指名され、フランシスコ・ド・オレリャーナと伝説の黄金郷「エル・ドラード」(El Dorado)の探索に行くようにと命じられました。ゴンサロはスペイン人220人と現地人4,000人の探検隊を組織。オレリャーナを副隊長に指名し、もっと隊員と馬を集めるためにグアヤキルへ派遣。1541/2月にゴンサロはキトーを出発。オレリャーナは1ヵ月後に23人と数頭の馬を集めて、3月にズマコ渓谷(valley
of Zumaco)で合流。4000m級以上の山々が連なるアンデス山脈越えへと、ナポ川(Rio Napo、1,075km)源流のコカ川(Coca
rivers)沿いのルートで進みました。間も無く食料が逼迫して調達が出来ず、スペイン人が243人中140人、 |
アマゾン河の古地図
|
ラプラタ河 |
エクアドル 1942/1/30 発行 |
現地人は4,000人中3,000人が死亡。1542/2月にボートを造って、オレリャーナが50人でナポ川沿いに食料探しに行きました。ゴンザロはオレリャーナの帰りを虚しく待った後、ついに食糧不足で待ちきれずに北回りでキトーに戻ることになり、出発から2年後の1543年に僅か80人でキトーに帰りつきました。ゴンサロのアマゾン探検は完全な失敗に終わりましたが、オレリャーナは食料は見つからず戻るに戻れず、ナポ川からアマゾン河(Amazon
River、6,400km)を下って完全に縦漕し、大西洋に到達してアマゾン河を発見した最初のヨーロッパ人になりました。
1543年にゴンサロ・ピサロが、兄フランシスコ・ピサロのペルー支配は確立していると思ってキトーに戻ってみると、兄フランシスコが、1541/6/26にリマ屋敷の襲撃でアルマグロの残党に殺害され、エル・モゾ(El Mozo、アルマグロ2世)がヌエヴァ・トレド(Nueva Toledo:新トレド)のリマ総督なっていました。1541/9/25にヴァカ・ド・カストロがスペイン国王カルロス1世の命でヌエヴァ・カスティリャ(Nueva Castilla:新カスティリャ)総督として、ペルー植民地領での紛争とエンコミエンダ制度の制限のためにキトーに赴任してきて、1542/9/16にチュパスの戦いでカストロ総督がエル・モゾに率いられたアルマグロ残党軍と戦って、カストロ総督軍が勝利。エル・モゾは捕虜となり、9/16に市の広場で斬首の刑で処刑されていました。1542/11/20にカストロ総督がカルロス1世が発布したエンコミエンダ制度を制限する植民地新法「インディアス新法」(New
Laws, in Spanish Leyes Nuevas)を施行していました。そこへ帰ったゴンザロはエンコミエンダ領主となりました。 |
ピサロ(兄)
ジブチ 2010 発行 |
▼インディアスのペルー反乱
ゴンサロ・ピサロ兄弟、対、スペイン王国(スペインのペルー副王)
スペイン人コンキスタドール(征服者)達はエンコミエンダを国王から下賜されたエンコメンデロとして、新世界に定着し始めていましたが、現地人の使役が苛烈を極めていました。スペイン国王がラス・カサス神父など宣教師の「現地人が迫害されている」という訴えで、国王はエンコミエンダを極力制限しました。1543/8月に「インディアス新法」(1512年ブルゴス法の改正法)を公布してエンコミエンダの新設と世襲を禁止しました。同1543年にペルーに”新法”を布告・徹底するためと、スペイン人コンキスタドール同士の内紛を収拾しアウディエンシア統治を実施するためにスペイン王室は、インディアス新法を公布して南アメリカにペルー副王領を創設しました。初代ペルー副王(viceroy of Peru)にバスコ・ヌニェズ・ヴェラを任命して、リマにアウディエンシアを開設し、アウディエンシアの構成員となる4人のオイドール(聴訴官)と共にペルーに派遣しました。 |
ゴンサロ・ピサロ
ペルー 1943/2 発行 |
福王ヴェラは1542/11/3にスペインのサンルーカル・デ・パラメダ港(Sanlucar de Barrameda, Cadiz, Spain)を出帆。1544/5/17にリマ(Lima)に到着し、新法の完全実施を宣言しました。「世襲を禁止、先住民の奴隷化や強制労働の廃止」を打出したので、この厳しい新法はメキシコやペルーのエンコメンデロ、すなわち新世界の実力者達を大いに刺激し、スペインのアメリカ植民地に大きな動揺と混乱を引き起こしました。福王ヴェラのエンコミエンダ制限は、ピサロ一派から支配権を取り戻す意味合いもあって、それは厳しいうえに副王べラが”新法”の実施をあせったため、クスコの有力者層は一斉に反発。ゴンサロ・ピサロが”新法”に反対するエンコメンデロの先頭に立って抵抗しました。インカのマンコ2世は反ピサロの立場から副王に協力を申し入れるも、1544/6月にマンコ2世がビトコス(Pisco,
Peru)で旧アルマグロ軍崩れのディエゴ・ド・セグラに暗殺されました。また同年には福王ヴェラがカストロ総督をゴンサロに組みしたとして逮捕し、スペインへ強制送還しました。ところが、1546/1/18に勃発したエクアドルのアニャキートの戦いでゴンサロ軍が副王軍を破り、副王べラは戦傷後に斬首(56才)されました。そして北はパナマから、南はチリに至る南アメリカ大陸西側の支配権が反乱軍に味方するエンコミエンダ所有者達に握られました。その後、スペイン人エンコメンデロ達はゴンサロをペルー総督に選び、ゴンサロは2年余にわたってアンデスから西側地方の実質上の支配者として君臨し、あたかも独立国の様相を呈しました。ゴンサロは兄の築いた新大陸での財産を引き継ぐ形となっていたものの行政的手腕に欠けており、その施政は残忍で専制的でした。反対する者達を容赦なく処刑したので、人心は離れてゆきました。
ヨーロッパ最強を誇るスペイン国王カルロス1世は、神聖ローマ帝国では皇帝カール5世(Karl V)でもあり、この新大陸での反乱に激怒、反乱軍鎮圧に最もふさわしい人物として、60才のペドロ・デ・ラ・ガスカを任命しました。ラ・ガスカはペルー副王(Viceroy
of Peru 1546-1549)を引き受ける条件として無制限の権限を国王から与えられ、1546/5月にペルーへ出帆しました。随行員はドミニコ会(Dominicans)宣教師2人に秘書と召使一人ずつで、肩書きはリマのアウディエンシア長官でした。彼はゴンサロやペルーの有力者に宛てた国王の手紙の”新法”によるエンコミエンダ制廃止を撤回する勅令、国庫金を自由に裁量できる権限、死刑から大赦に至るまでの完全な司法権を与えられていました。さらに国王のサインだけが書かれた羊皮紙を多数持参していました。1546/2月にゴンサロが自ら船団を指揮してパナマを占領し、南米大陸の支配者を宣言して、パナマ一帯が反乱軍の支配下にあったため、彼はコロンビアのサンタマルタ港(Santa
Marta)に上陸しました。彼が少数の部下しか連れていなかったため、現地の人々は警戒を解き、”新法”の部分的撤回を表明 |
福王ガスカ
スペイン 1964 発行
|
したためもあり、パナマの有力者と軍隊を味方にすること事に成功しました。その後ペルーの反乱軍の有力者へ「なだめたり、すかしたり」の手紙作戦での懐柔策をとりました。1547年中頃ペルー北部グアヤキル湾トゥンペスに上陸、現地の国王忠誠派スペイン人と合流。こうしてペルーに到着したラ・ガスカは”新法”の修正の布告と反逆者の特赦を打ち出し、ゴンサロの組織の切り崩しを行いましたので、ゴンサロの現地での不人気ともあいまって十分な味方兵力の集結に成功しました。
・第2代ペルー副王ペドロ・デ・ラ・ガスカ関連略年表:〜
1546/02月、ゴンサロがパナマを占領
1546/05月、ラ・ガスカ副王が少数の従者だけでスペインを出帆
1546/06月、副王支援のスペイン船隊40隻にスペイン兵15,000人がセヴィリア(Seville)を出帆
1547/03月、ラ・ガスカ副王がペルーのハウハ(Huacho)に上陸、ギアリーナ(Battle of Guarina)
で、ゴンサロ軍とラ・ガスカ副王軍が決戦。ゴンサロは敗走してクスコに立籠る
1547/4/9、両軍がハキハグアナ(plain of Xaguijagana)で対戦、勝利したラ・ガスカ副王軍はクス
コ入城、ゴンサロはアルト・ペルー方面(ペルー高知)に逃亡
1547/10/20、チチカカ湖南東のワリーナの戦いでラ・ガスカ副王軍とゴンサロ軍が衝突、数で劣
るゴンサロ軍が巧みな戦術で勝利
1547/12月、ラ・ガスカ副王がクスコ到着、ハキハグアナ(plain of Xaguijagana)に滞陣
1548/01月、ゴンサロがクスコの地にペルー王国を開く
1548/4/09、クスコ郊外のサクサワナの戦いで、再び両軍が決戦、
ラ・ガスカ副王軍が勝利して、ゴンサロは捕虜となる
1548/4/10、ラ・ガスカ副王が捕虜のゴンサロ・ピサロを処刑
▼ゴンサロ・ピサロの最期
1547/10/20に両軍はワリーナの戦いでゴンサロ軍が辛勝するも、1548/4/9には両軍が対決しての激突では、クスコ近くの平原サクサワナでのサクサワナの戦いで、ゴンサロ・ピサロ軍を副王軍が撃破しました。お互いに小部隊で両軍あわせて1,500人位であったといわれています。反乱軍は敗走し、ゴンサロは腹心のフランシスコ・ド・カルバハ−ルと共に捕えられ、ガスカ副王が任命した2人の裁判官に反逆罪で有罪を宣告され、翌朝処刑されて断頭台の露と消え去りました。
参考:〜
・ペルー福王領の分割:〜スペイン国王のペルー領土分割
1534年にスペイン王室は1534年までに、2本の平行線により新植民地を分割することを決定。すなわち、「ヌエバ・カスティーリャ」(南緯1度から14度まで、ペルーのピスコ近辺)及び「ヌエバ・トレド」(南緯14度から25度まで、チリのタルタル近辺)であり、それぞれ前者をピサロに後者をアルマグロに割り当て総督としました。
・映画:〜
ドイツ映画「アギーレ、神の怒り」(Aguirre, the Wrath of God 1972)が有。
”http://www.youtube.com/watch?v=pVrD-jfpRzU&feature=related”
こちらで、
・インカ征服の戦い、
・ペルー内戦・反乱での主な戦い、
・新世界征服者(コンキスタドール)、
・ピサロ13人とカンディア、
・スペインの大航海年表を、お楽しみください。
▼参考HP:〜
・カセレス県トルヒージョの場所地図(カセレス県の地図)
・カセレス県の場所地図
・エストレマドゥーラ州の場所地図
・サンルーカルデパラメダ港の場所地図
・15世紀スペインの王国分布地図(日本語、イベリア半島 1474)
・グアヤキル湾プナ島の場所地図
・カハマルカの場所地図(Tumbes、Cajamarca、Cusco有)
・ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有)
・アマゾン河源流域水系の地図(Quito、Guayaquil、Tumbes、Rio Napo有)
・キトー付近のアンデス山脈の高低差を表示地図
・アマゾン河水系の地図(Napo・Maranon・Ucayali・Amazon、Orinoco有)
・アマゾン河水系の地図(日本語、ペルーの地図、アマゾン河はアンデス山脈から東流)
・バスチダスの航海地図(1500〜1507)
・バスチダスの航海地図(1509〜1515)
・バルボアのパナマ探検の航海地図(ウラバー湾、1513)
・バルボアのパナマ探検の航海地図(ダリエンからサンミゲルへ1513)
・バルボアのパナマ地峡の横断地図
・インディアス地域の地図(Castilla de Oro 1513-1537)
・モナ海峡の場所地図(カリブ海の地図)
・ウラバー湾トゥルボの場所地図(日本語:コロンビアの地図)
・ペルラス諸島の場所地図(日本語、パナマの地図)
・パナマのノンブレ・デ・ディオスの場所地図(Nombre de Dios, Colon、 Portobelo有)
・パナマの地図
・コロンビアの地域別地図
・エクアドル・マナビ州の地域別地図
・エクアドル・ハマ-コアケ熱帯雨林の場所地図(Jama-Coaque Rainforest)
・エクアドルの地域別地図
・ボリビアの地図(地域別有)
・ボリビアの地図(日本語、地域別有)
・フランシコ・ピサロの航海地図(1524-25、1526-27、Rio San Fan有)
・フランシコ・ピサロの遠征地図(パナマ〜トゥンペス〜クスコ〜リマ)
・バルトロメ・ルイスの航海地図(1526、1527-28、Rio San Fan有)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/12/11、13/3/13、14/7/8
|