Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-21)
ガンボア船長 1582 マゼラン海峡の地図を製作 |
大航海物語 スペイン編★ |
チリの地図 | ガンボア船長 |
16世紀の地図 マゼラン海峡の地図 Es trecho de Megalianes EXPEDICION DE JUAN LADRILLEO 1557 Jean Radrillero マゼラン海峡探検400年記念 チリ 1959/8/27 発行 |
現在の地図 マゼラン海峡の地図 マゼラン海峡地帯拡大地図 CES ENTENARIO OCCUPATIO DEL ESTRECHO DE MAGALLAN 1843-1943 マゼラン海峡占領100年記念 チリ 1944/3/2 発行 |
ペドロ・サルミエント・ド・ガンボア船長 Capt. Pedro Sarmiento Gamboa(1532頃〜1592/7/17) 生地:スペインのマドリード州(#14)アルカラ・デ・エナーレス生(不確かで諸説有) (Alcala de Henares, Madrid, Spain) 没地:ポルトガル、リスボン沖の大西洋、60才頃没 (Atlantic Ocean off the coast of Lisbon, Portugal) 肩書:探検家、冒険家、作家、歴史家、数学者、天文学者 (Explorer, Adventurer, author, historian, mathematician, astronomer) ・マゼラン海峡総督 (任命1580) (Ggovernor (Captain General) Strait of Magellan, 1580) ガンボア船長はスペインのガリシア州(#12)ポンテヴェドラ(Pontevedra, Galicia)で生れたとの説もあります。18才になるとスペインがヨーロッパ戦争で戦っていたので、スペイン帝国陸軍に入隊しました。1550年から5年間は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)のもとで戦いました。 1555年23才で大西洋を横断してメキシコへ渡り、2年間過ごしました。ところが何か異端審問とかの取調べを受けたので、ペルーへ出帆し、ペルーで20年以上も暮らしました。リマで「モーゼの教義を書いた2個の不思議な指輪と不思議なインク」を持っていたとの嫌疑をかけられて批難された様ですが定かではありません。副王トレドの命による仕事をして名前を残すことになりました。スペイン領ペルーの副王トレドが「インカ王朝が纂奪者の始めた専制君主のものであることを立証し,スペイン王のペルーにおける主権の正当性を明らかにするため」としてガンボア船長に「インカ史」の執筆を命じました。そして、1572年に「インカ史」を発行しました。そしてトゥパック・インカ・ユパンギが10ヵ月の太平洋探検航海をしたと「インカ史」で伝えています。 1567年頃ガンボア船長が「インカ史」を書き上げた時に、原住民から聞き取っていた伝説の中に「インカの船乗り”パウジ・トゥパク・ユバンギ”が9ヵ月におよぶ南方航海の後に、莫大な富を持ち帰った」という話がありました。ガンボア船長はこれを実現しようとアルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラに持ちかけ、メンダーニャはこれを信じて、あわよくば一山当てようと目論ろんで、ガンボア船長と共に探検隊を組織しました。そして、ガンボア船長とメンダーニャは1567/11月にペルーのリマから太平洋を西へと出帆して、1568年にソロモン諸島を発見し、1568年の夏にペルーに帰港しました。 1578年イギリスのドレーク船長がペルーとメキシコを攻撃に来た時、ガンボアはスペイン艦隊の司令官になり、ドレークを迎え撃ちました。1579年11隻の艦隊で、ドレーク攻撃にペルーのカラオ港を出帆し、喜望峰周りで1780年スペインへ戻りました。1581年24隻で2500人の移住者を乗せてマゼラン海峡の探検遠征隊を、ヴァルデズ(Diego Flores Valdez, 1530-1595)と共に指揮してスペインのアンダルシア州(#1)カディス県カディス港を出帆しました。8隻は嵐で沈み、ヴァルデスはガンボアとの意見の衝突でマゼラン海峡に着く前に12隻を連れてスペインへ戻りました。ガンボア船長は残る4隻で航海を続け、1582年にマゼラン海峡の地図を製作しました。1583/1月好適地を見つけてレイ・ドン・フェリペと名づけて、砦を建設し300人の守備隊を置き、植民地を建設しました。 1583/11月には、副王トレドが大西洋からやってくる激しい海賊の襲来に手をやいて、ガンボアにマゼラン海峡の封鎖を命じました。副王はドレーク海峡の存在を知りませんでしたが、ガンボアは嵐に流されて偶然にドレーク海峡に達し発見しました。そしてマゼラン海峡に「ノン・ブレ・デ・リオス」の要塞を建設しました。 ガンボアは要塞建設中に嵐に流され,ブラジルのリオデジャネイロまで漂流しました。そこで船を修理し船員を集めて、マゼラン海峡の要塞に向かいました。しかしまたも嵐に見まわれバイアに流されました。そこで、リオデジャネイロに戻りふたたび基地を目指しました。こんどは、この船が1548年海賊に襲われ、ガンボアは英国まで連れてゆかれました。英国では幸運にもサー・ウォルター・ローリーに保護され、彼の冒険談はエリザベス2世女王の耳に届きました。彼は女王の接見を受けた後、旅費と旅券(パスポート)をもらい、本国に帰ることにしましたが、帰国途中のフランスでユグノー教徒に誘拐されました。身代金が払えないまま1588年まで虜囚の身となりました。1589年の末に釈放されてスペインに戻ることができました。そして彼は結局マゼラン海峡には戻れなかったと伝えられています。彼の最後はスペイン新大陸航路のガレオン船のアルマダ(無敵艦隊)大艦隊の司令官に提督として任命され、リスボン付近の船上で、1602年に70才で亡くなったと伝えられています。なお別説では1592/7/17にポルトガルのテージョ河々口のリスボン沖の大西洋上にて60才頃没との説も有ります。 参考:〜 ・レイ・ドン・フェリペ港 (Port Rey Don Felipe) 別名:プエルト・デル・ハンブレ(Puerto del Hambre) 別名:ポート・ファミン(Port Famine) レイ・ドン・フェリペ港はチリのパタゴニア地方マゼラン海峡のブエバ湾(Buena Bay)西側のプンタ・アレナス(Punta Arenas)の約58km南に有りましたが、短期間で消滅しました。イギリス私掠船のトーマス・キャベンディッシュ船長が1587年に寄航してみると、廃墟になっていたので、ポート・ファミン(Port Famine、現Puerto del Hambre)と名付けました。その後、イギリス海軍の基地として使用されました。 参考地図HP:〜 ・レイ・ドン・フェリペ港の場所地図(Ciudad del Rey Don Felipe) ・マゼラン海峡の場所地図(Punta Arenas) ・スペインの黄金世紀 (Spain's Golden Century)、黄金の世紀(ス:Siglo de Oro) スペインの黄金時代は、15世紀から17世紀にかけてのスペインの美術、音楽、文学が隆盛を極めた時期を指します。この時代は、1492年のレコンキスタの終結やコロンブスの新世界への航海を始まりとし、1681年の大作家ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ(Pedro Calderon de la Barca, 1600-1681)が亡くなって終わったとされています。 それは、16世紀中頃から17世紀前半までの約80年間はスペインが繁栄した時期で、スペイン史上「黄金の世紀(Siglo de Oro)」と呼ばれています。カルロス1世(在位1516-1556)はフランスのフランソワ1世(在位1515-1547)と熾烈な争いの末に神聖ローマ皇帝に即位し、ヨーロッパにも広大な領土をもつことになりました。しかし、その治世は多難でイタリア戦争(1494-1559)ではフランソワ1世と争い、さらに宗教改革による神聖ローマ帝国の動揺にカトリックの盟主として対処することになりました。さらにオスマン帝国(1299-1922)に第一次ウィーン包囲(1529/9/23-1529/10/17)の脅威にさらされ、プレヴェザの海戦(1538/9/28)ではオスマン帝国に敗北を喫しました。次のフェリペ2世の時代には、新大陸からもたらされた富で最盛期を迎え、マドリードに遷都しエル・エスコリアル宮殿を創建しました。さらにレパントの海戦でオスマン帝国を破り先王の雪辱を果たしました。1580年にはポルトガルを併合したことで、ブラジルやアフリカ、インド洋に広がっていたその植民地をも獲得し「太陽の沈まぬ帝国 スペイン帝国」となりました。最盛期を迎える一方で、足元では八十年戦争(1566/1568(休戦1609-1621まで12年)-1648オランダ独立戦争)やアルマダ海戦の敗北など衰退の兆しも現れ始めていました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2012/4/14追記、令和7年 2025/4/25 |