Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage)インカ帝国征服(V-13
ディエゴ・ド・パレデス
1557
ベネズエラのトルヒーリョを建設


大航海物語
 スペイン編

ESPANA

ディエゴ・ガルシア・ド・パレデス

スペイン 1963/10/12 発行

ESPANA
新大陸からスペインへお宝を運んだ
スパニッシュ・ガレオン船
Spanish Galeon


スペインから新大陸へは人と物資を輸送
スペイン 1964/7/16 発行
ECUADOR
南アメリカの地図

エクアドル 1961/2/27 発行

スペイン生まれのディエゴ・ド・パレデスは18才で新世界へ渡り、インカ征服戦に加わったパレデスは、その後スペインに帰国し、スペイン軍に入隊して参謀長に昇進しました。しかし、彼は再び新世界へと向かい、アマゾンの遠征に参加し、九死に一生を得て生還しました。1550年にはベネズエラのバルキシメトの建設に関わり、1557年にはトルヒーリョを建設しました。1562年にポパヤンの総督に任命されましたが、任地に向かう途中で原住民によって殺害され、故国に帰ることなくベネズエラ中北部のカティアで亡くなりました。

ディエゴ・ガルシア・ド・パレデス・イ・バルガス
 Diego Garcia de Paredes y Vargas(1506〜1563)
  生地:スペインのエストレマドゥーラ州カセレス県トルヒーリョ生
  没地:ベネズエラのカティアで現地人に殺害され57才没
  肩書:参謀長、探検家、征服者(コンキスタドール)、ベネズエラのトルヒーリョ建設者
   (Maestre de campo, Explorer, Cconquistador, Colonial settlement founder of Trujillo, Venezuela
ディエゴ・ド・パレデスはエストレマドゥーラ州カセレス県トルヒーリョで生まれました。18才になった時、新世界に向けて出帆してニカラグアに到着。そこでペドラリアス・ダヴィラエルナンド・ド・ソトの下でニカラグアの征服に参加しました。1530年にパナマに移り、そこで・ピサロのインカ征服隊160人に参加し、クスコやキトーへと遠征しました。そしてカハマルカの戦いに参加し、アタワルパを捕えてインカ帝国の全領土征服に貢献しました。

1534年にスペインに戻り、フランダース地方、フランスチュニジア、シチリアでの戦争に参加し、マエストレ・デ・カンポ(maestre de campo:参謀長)になりました。その後、スペインのトルヒーリョに戻りました。1544年にふたたび新世界に戻り、オレリャーナの2度目のアマゾン遠征に参加しました。遠征は失敗に終わり、飢餓のために57人、原住民の攻撃で17人を失いました。パレデスは生き残った数少ない人物の一人で、遠征後にニューグラナダ(コロンビア)へ行きました。

その後ベネズエラに移り、1550年にベネズエラの中央北西部でカラカスの西方280kmのララ州(#12)州都バルキシメト(Barquisimeto)の建設に参加しました。1553年ボリーバル(#6)のブリア金鉱山(Buria gold mines)で反乱を起こした黒人シマロン(Black Cimarrones(Maroon)アフリカ系ベネズエラ人)を率いるネグロ・ミゲル(Negro Miguel, c1510-c1555)がバルキシメトに襲来し、脅威を与えた時、パレデスは町の防衛を担いました。パレデスとディエゴ・エルナンデス・デ・セルパ(Diego Hernandez de Serpa, c1510-1570/5/10)が率いる入植者たちは、ララ州エルトクヨ(El Tocuyo)から駆けつけたディエゴ・デ・ロサーダとディエゴ・デ・オルテガ(Diego de Ortega)の援軍と共に、ネグロ・ミゲルを撃退し、ミゲルの仲間たちを追い詰め、再び奴隷にしました。ミゲルを討ち取ったのはパレデスでした。

1557年にクイカ族の神聖な谷(Cuicas Indian's Holy Valley)にトルヒーリョ(#20, Trujillo, Venezuela)を建設しました。

1559/3/21に誹謗中傷で謀反の罪にて捕らわれていたフアン・ロドリゲス・スアレス(Juan Rodriguez Suarez, 1510-1561/9/30)がコロンビアのサンタフェ・デ・ボゴタ牢獄から脱出しました。その後しばらくして、トルヒーリョに来てパレデスを頼ってきたので保護しました。そして彼を引き渡すことを拒否した行動は、アメリカ大陸における政治亡命の最初の例になりました。

1561年にスペインへの謀反人で狂人・略奪者といわれていたロペ・デ・アギーレを捕える命令を受けて、ベネズエラ全土でマラノネスの反乱(Maranones Rebellion)を主導していたアギーレ軍と戦って、ララ州の州都バルキシメトでパレデスの政府軍が包囲・勝利して捕えました。アギーレは娘が敵の手に落ちる前に涙ながらに殺害したと伝えられています。そして敗戦して捕虜になったアギーレは1561/10/27に銃殺されました。

1562年にスペインに戻り、フェリペ2世がパレデスをポパヤン総督(Governor of Popayan, 現コロンビアのカウカ県(#10)県都ポパヤン)に任命しました。1563年1月に船がベネズエラ中北部グアイラ州(#22,バルガスを2019変更)カティア・ラ・マール(Catia La Mar, Guaira)海岸に到着すると、パレデスは5人の兵士を連れて上陸。1528年に殺されていたことを知らなかった友人ルイス・デ・ナルバエスについて尋ねました。そしてパレデス一行が原住民と食事をしていると、彼らは突然パレデスと5人の兵士に襲いかかり殺害しました。ボートに残っていた人々は、何のなすすべもなく撤退して行きました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2009/3/31追記、令和7年2025/2/25

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